2025年2月9日(主日)
主日礼拝『 誕生日祝福 』
ヨハネの黙示録 20章11~15節
牧師 常廣 澄子
ヨハネの黙示録を読み進めていますが、いよいよ最高地点に近づいています。ここまで読んできておわかりのように、著者ヨハネは、ある時天からの声がして「ここに上って来い。この後必ず起こることをあなたに示そう(4章1節)。」と言われてからずっと、神の霊に導かれて様々な場面を見てきました。
私たちはヨハネのように天上の世界を見ることはできませんが、ニュースなどを通して、今世界で起きていることを見聞きしています。日本でも世界でも日々様々な出来事が起こり、これからいったいどのような世の中になっていくのか、先が見通せない不安定な世界になっています。不穏な雰囲気も漂っていて、全世界を覆っている悪魔的な力を感じたりもします。自分の国さえ良ければ相手の国がどうなっても構わない、相手がそのようにするのであればこちらもこうしてやるという論理で動いていますから、互いに自分たちが有利になるように、相手を倒すことしか考えていません。この先、世界がどのようになっていくのかは誰にもわかりません。
この黙示録を読んでいますと、天から突き落とされたサタンが、今世界中に猛威を振るっているように思えてなりません。世界中の国々や人間が悪の力に引きずられているのです。サタンは最後の力を振るって、いよいよ激しく迫ってきて人間たちを苦しめ、真の神から引き離そうとしているのです。互いに憎ませ、国と国を戦わせ、世界を壊すことで喜んでいるのではないでしょうか。しかし、私たちが見失ってならないのは、いと高き所にいます勝利者であられる神の御子イエスです。
本日の御言葉もまた、ヨハネが見た出来事です。「20:11 わたしはまた、大きな白い玉座と、そこに座っておられる方とを見た。」神の霊がヨハネに働いて、肉眼では見ることができないものを見ているのです。言葉を変えれば、信仰の目が開かれることによって、本来は見ることができないものを見ることができるようにされているのでしょう。
聖書の中には、目が見えなかった人が、イエスに癒されて見えるようになったという話がありますが(ヨハネによる福音書9章、ルカによる福音書18章等)、この奇跡には大変象徴的な意味が含まれていると思います。イエスはファリサイ派の人たちや律法学者たちが、自分たちは見えると言っている所にあなたたちの罪があるのだと言われました(ヨハネによる福音書9章41節参照)。
私たちは毎日どこを見て生きているのでしょうか。目先の事や目に見えることに右往左往していないでしょうか。今目の前にある問題に心が奪われていて、不安や心配でいっぱいになっていないでしょうか。あるいはその反対に、目の前にある課題から目を反らして横を向いたり、もう仕方がないと下ばかり見ているかもしれません。私たちの目はいつも自分のことしか見ようとしないのです。上を向かないのです。目を上げて神を仰ぐことをしません。しかし今捧げているこの礼拝は、私たちの目を上に上げる時です。礼拝は、私たち人間を愛して罪から救い出してくださったお方を見る時です。私たちは真の神に目を向けて生きていかなければならないのです。
11節で著者ヨハネは大きな白い玉座を見ています。大きな玉座です。大きいということはそれだけの権威があるということです。また白い色は清らかさを表しています。その次には不思議なことが書かれています。「天も地も、その御前から逃げて行き、行方が分からなくなった。」いったいどういうことが起きているのでしょうか。「天と地」という言葉から連想するのは、創世記の冒頭部分です。「初めに、神は天地を創造された。」(創世記1章1節)その天と地が御前から逃げて行って、行方が分からなくなったというのです。これは古い天と地が滅びて、新しい天と地が始まるということでしょう。イエス・キリストによって新しい時が完成するということだと思います。古さと新しさ、これが創世記とヨハネの黙示録の決定的な違いです。ここにはっきり示されているのは、古い世界の秩序が過ぎ去って、新しい世界の秩序が始まっているということです。そしてそれは、御座にいますお方、復活のキリストにおいて既に始まっているのです。
「20:12 わたしはまた、死者たちが、大きな者も小さな者も、玉座の前に立っているのを見た。」
創世記では、天地創造に続いて、最初の人間アダムとエバが造られました。しかし彼らはやがてエデンの園を追われて、逃げ去って行かねばならなかったのです。しかし、この12節を見ますと、また戻ってくるのです。死者たちが、大きな者も小さな者も、玉座の前に立っています。つまり神の前に立たされるのです。
「20:13 海は、その中にいた死者を外に出した。死と陰府も、その中にいた死者を出し、彼らはそれぞれ自分の行いに応じて裁かれた。」海は、その中にいた死者を外に出しました。死と陰府もその中にいた死者を出しました。海や陰府、これらは当時、死んだ人が行くと言われていたところです。こうして地上に生を受けたすべての人たちが神の前に出るのです。そして裁きが始まります。一人ひとりの人間は、そのなしてきた業に応じて裁かれます。幾つかの書物が開かれて読まれます。生まれてから死ぬまでの一切のことが書かれているのでしょうか。自分の一生のことがすべてあからさまになったら何と恥ずかしいことでしょう。自分が正しく生きてきたとはとても言えません。人が外側から見て立派だとほめてくれたとしても、心の中に怒りや嫉妬や妬み等どろどろした思いがあったことを自分ではよく知っています。その上、自分では気が付いていない罪や誤りもあるでしょう。「幾つかの書物」というのは、私たちの成したこと、あるいは成さなかったことに対して書かれた罪状書きだと理解することもできます。それを考えると、誰一人「罪無し」と言われる人はいないと思います。「正しい者はいない。一人もいない。」(ローマの信徒への手紙3章10節)とあるとおりです。すべての人に有罪の判決が下されるのです。
このように、神の前では義人と言われる人は一人もいないのです。すべての人は罪を犯し、滅ぼされるしかない存在であることがわかります。幾つかの書物が開かれて最後の審判が下される時には、誰一人として第二の死を免れることはできません。しかし、まさに判決が下されようとするその時、もう一つの書物が開かれるのです。命の書です。「20:12幾つかの書物が開かれたが、もう一つの書物も開かれた。それは命の書である。死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。」
この命の書には名前が書かれています。「20:15 その名が命の書に記されていない者は、火の池に投げ込まれた。」この命の書に名が記されていない者は、火の池に投げ込まれてしまうのです。しかしイエス・キリストによって命の書に名を書き留めていただいた者は、恐ろしい火の池に投げ込まれることはありません。14節にはこの火の池が第二の死であると記されています。
まず、すべての人間は第一の死を免れることはできません。やがて私たち人間は皆それぞれ、人生の舞台から降りていく時が来ます。店じまいをしなければならない時が近づいてくるのです。このように、この世の命が終わる時が第一の死です。今ここでは、命の書に名前が書かれている者は火の池に投げ込まれない、つまり第二の死を免れるのだと言われているのです。第二の死は永遠の滅びですが、そこに引き渡されることがないというのです。
恐るべきものは、第一の死ではなくて第二の死ではないでしょうか。神の前から永遠に葬り去られてしまうのです。この火の池に投げ込まれるというのは、裁判でいうなら最終判決であり、結審です。もう上告も再審査もありません。ここには火の池という想像するだけでも恐ろしい表現で、私たちに永遠の死、第二の死について教えています。
さて、私たちの名前はそこに書かれているでしょうか。命の書はまだ誰も見た者はいません。それは神の手元にあり、神だけが知っておられるものです。
ハレルヤ、私たちは希望を持つことができます。なぜなら命の書に名前を書くのはキリストご自身だからです。3章5節には「わたしは、彼の名を決して命の書から消すことはなく、彼の名を父の前と天使たちの前で公に言い表す。」とありました。またコロサイの信徒への手紙2章13-14節には「肉に割礼を受けず、罪の中にいて死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださったのです。神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。」とはっきり書かれています。
私たちはイエス・キリストの十字架の贖いを信じることによって、罪の断罪から免れることができるのです。イエス・キリストの十字架はそれほどの効力と力を持っているのです。ローマの信徒への手紙3章23-24節には「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」とあります。
私たち人間は、どんなに社会的にあるいは人格的に立派であろうと、信仰を持ちながらもなお罪を犯してしまう弱い者ですから、誰一人命の書に名前を記されるに値する人間はいないのです。しかし、イエス・キリストはその罪人である私たちのために十字架にかかって、その罪を贖ってくださいました。そして「これはわたしのもの」と言って命の書に名前を書いてくださるのです。
しかし、私たちが信仰を持って生きるのは、命の書に名前を書いてもらうために信じているのではありません。それを勝ち取るために良い業に励むことでもありません。私たちがイエス・キリストが成し遂げてくださった救いの御業を信じて、神の御愛に心から感謝する時、はからずも命の書に名前が書き留められるのです。信仰は、私たち人間に対する大きな神の愛への応答です。神はイエス・キリストを通して、私たちを召してくださったのですから、私たちはその御愛に応えながらこの世を生きていくのです。
さらに、私たちには究極の希望が与えられています。14節に「死も陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。」と記されています。死が死ぬのです。死が無くなるのです。ヘブライ人への手紙2章14-15節には、キリストがこの世に来てくださったことについて「それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。」と書かれています。
実に人間は生きている間中、死の恐怖の中にいます。人間は生きていれば、ある時は病気に罹ったり、事故にあったり、突然の災害にも遭いますが、そこで不安や恐怖に陥るのは、その先に死を見るからです。すべて命あるものは死を迎えます。中でも人間は、生きている時から死を知るようになったのです。それで人間は、生きていながら死の恐怖を持つようになってしまい、死に支配されるようになってしまったのです。すべての恐れの根源は死にあるとさえ言うことができるのではないでしょうか。多くの人は死を見ないように、死から目を反らして生きています。その死が死ぬのです。死が無くなるのです。この後の21章4節には「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。」とあります。私たちは今はまだ死が支配している世界に生きていますが、死が死ぬ時が来るという約束をいただいているのです。
この前の箇所では、「20:6 第一の復活にあずかる者は、幸いな者、聖なる者である。この者たちに対して、第二の死は何の力もない。」とありました。キリストの贖いを信じる者には、第二の死の力は及ばないのです。イエス・キリストと共によみがえりの命に与り、永遠の命に与る喜びをもって生きることができるのです。これは決して現実逃避などではありません。反対に、現実世界に果敢に挑みながら生きていく力です。命の書に名を記されている者がどんなに幸いなものであるか、喜びと希望を持って生きていきたいと思います。この黙示録の幻は、キリストがその復活において、既に死に勝利され(つまり死の死を成し遂げられ)、やがて来たり給う時には、主を信じるすべての人にそれが起こることを告げているのです。今私たちに求められているのは、神の勝利と神の導きを信じて希望をもって生きていくことです。
(牧師 常廣澄子)
聖書の引用は、『 聖書 新共同訳 』©1987,1988共同訳聖書実行委員会 日本聖書協会による