神を敬う家庭

2025年2月23日(主日)
主日礼拝

使徒言行録 10章1~33節
牧師 常廣 澄子

 前回は、ペトロがリダとヤッファの町で行った奇跡をもとに、神を信じる者に起きる素晴らしい出来事を知ることができました。9章43節にあるように、このヤッファでは、ペトロは革なめし職人のシモンという人の家に滞在していました。本日の聖書箇所は、ペトロがそこに滞在している時に起こった出来事です。
 その出来事というのは、ペトロがある日、カイサリアに駐屯していた「イタリア隊」と呼ばれる部隊の百人隊長であるコルネリウスという人に招かれて、カイサリアに出かけて行った時に起こった事です。結論から先に言いますと、この10章と11章にはそのローマ人の百人隊長コルネリウスとその家族がイエスの救いを受け入れた話が書かれているのです。たった一人、いや一つの家族の救いのことをこのように長々と書いているところは他にはありません。それは、この出来事が異邦人による最初の教会形成になったからです。この後の21章16節を読むと、カイサリアに教会ができていたことがわかります。

 本日はかなり長い部分を読んでいただきましたが、話のあらすじを簡単にまとめますと、カイサリアで、ユダヤ教の信仰に帰依していたコルネリウスというローマ人のところに、神の天使が現れて、ヤッファにいるペトロを招くように告げたのです。それでコルネリウスは、二人の召し使いと側近の部下で信仰心のあつい一人の兵士を呼んで、ヤッファに送りました。翌日の昼頃、彼ら三人がヤッファの町に近づいた頃、ペトロもまた幻を見ました。
 ペトロはちょうど祈るために屋上に上がっていった時で、昼の十二時頃でした。空腹を覚えて何か食べたいと思っていたペトロは、天から大きな布のような入れ物が地上に下りて来て、その中にはあらゆる獣や地を這うもの、空の鳥などが入っているのを見ました。するとこれらを屠って食べなさいという声がしたのです。ペトロが汚れたものは食べたことがありませんと答えると、神が清めたものを清くないなどと差別しないで、異邦人のところにも行きなさいと命じられたのです。

 そういうことがあった後、ペトロは次の日、迎えに来た使者と、ヤッファの兄弟たちも一緒にカイサリアに行き、翌々日の午後三時頃コルネリウスの家に到着しました。家には家族や友人たちが大勢待っていました。そしてペトロが主の福音を語っていくうちに、御言葉を聞いている彼らの上に神の御霊が降ったのです。彼らは異言を語り、神を賛美しました。それで、この人たちが聖霊を受けたからには、彼らに水のバプテスマを授けるのを拒む理由はないと言って、ペトロは彼らにバプテスマを授けたという出来事、つまり異邦人の一家が主を信じる者とされたという出来事です(44~47節参照)。

 全体はかなり長いですので、本日は33節のところで区切って、コルネリウスの家庭について学びたいと思います。「10:1 さて、カイサリアにコルネリウスという人がいた。『イタリア隊』と呼ばれる部隊の百人隊長で、 10:2 信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた。」カイサリア(カイサルは皇帝と言う意味なので、ローマ皇帝の町という意味)は、ヤッファの北方50キロメートルほどのところにある地中海に面した町です。ここにローマから派遣されたイタリア隊が駐屯していたのです。だいたい六百人ほどの部隊だったようです。この部隊の百人隊長がコルネリウスでした。彼はどこかで真の神を知って信仰心を持ったようで、神の前に大変敬虔に暮らしていました。そしてその信仰は彼一人だけでなく、彼の家族にも影響を与えていましたし、召し使いや側近の部下にまで及んでいました。彼の信仰は、「民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた」ところからもわかります。神に祈ることと、人々への愛の施しは、まさに(旧約)聖書の教えるところでした。

 その彼のところに、ある時神の天使が現れて、ヤッファにいるペトロを招きなさいと告げたのです。「10:3 ある日の午後三時ごろ、コルネリウスは、神の天使が入って来て『コルネリウス』と呼びかけるのを、幻ではっきりと見た。 10:4 彼は天使を見つめていたが、怖くなって、『主よ、何でしょうか』と言った。すると、天使は言った。『あなたの祈りと施しは、神の前に届き、覚えられた。 10:5 今、ヤッファへ人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。 10:6 その人は、革なめし職人シモンという人の客になっている。シモンの家は海岸にある。』」そこで、コルネリウスは「10:7 天使がこう話して立ち去ると、コルネリウスは二人の召し使いと、側近の部下で信仰心のあつい一人の兵士とを呼び、 10:8 すべてのことを話してヤッファに送った。」おそらくここに書かれている召し使いや部下もまたコルネリウスと同じような信仰を持っていたのでしょう。もしそうでなければ、神の天使から聞いたこととか、すべてのことを話して聞かせたりはできません。

 さて、その翌日、ヤッファにいたペトロの方でも意義深い幻が与えられました。ペトロは昼の十二時頃、祈りのために屋上に上がっていきました。彼は空腹を覚えていて、食事の準備をしてもらっていました。その時、彼は何かうっとり夢ごこちになっていたのでしょうか、大きな布のような入れ物に、四つ足の動物や這うものや空の鳥などがいろいろと、清いものも汚れたものもいろいろたくさん入っているものが、天から釣り降ろされて来るのを見たのです。そして「ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい」という声を聞きました。

 しかしユダヤ人には律法によって(レビ記11章参照)清いものと汚れたものが決められていました。ペトロはその入れ物の中には汚れたものに属する動物が入っているのを見ましたので、「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません。」と抵抗しました。それに対しての答えは「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」というものでした。ペトロにとってこの答えは不可解でした。確かに釣り降ろされてきた入れ物の中には、モーセの律法で禁じられている汚れたものが混じっていました。ペトロの宗教的感情からはそれを食べることには抵抗がありました。しかし天からの声は、それらを清いものといい、食べることを命じておられるのです。これが三度も繰り返されたのです。それでペトロは、今見た幻はいったい何だろうかと、ひとりで思案に暮れている時に、コルネリウスから差し向けられた三人が、革なめし職人シモンの家を探し当てて到着したというわけです(9~18節)。

 「10:19 ペトロがなおも幻について考え込んでいると、“霊”がこう言った。『三人の者があなたを探しに来ている。10:20 立って下に行き、ためらわないで一緒に出発しなさい。わたしがあの者たちをよこしたのだ。』」思案に暮れていたペトロに対し、聖霊はその三人の使者と共に行くように命じました。ペトロは、今見た幻と、コルネリウスに招かれたこととがつなぎ合わさって、このことは神の御計画の中にあるのではないかと気づきました。それで「10:21 ペトロは、その人々のところへ降りて行って、『あなたがたが探しているのは、このわたしです。どうして、ここへ来られたのですか』と言った。 10:22 すると、彼らは言った。『百人隊長のコルネリウスは、正しい人で神を畏れ、すべてのユダヤ人に評判の良い人ですが、あなたを家に招いて話を聞くようにと、聖なる天使からお告げを受けたのです。』」

 ペトロは階下に降りて行って、コルネリウスから遣わされた使いの人たちに会いました。そして彼らの話を聞いて、自分が見た幻の意味が理解できたのです。ペトロは彼らを家の中に入れて泊まらせました。その晩、ヤッファの町の片隅でひっそりと生計を立てていた革なめし職人シモンの家は、大変にぎやかだったことでしょう。シモンの家族だけでなく、異邦人コルネリウスから遣わされた二人の召し使いと側近の部下であるローマの兵卒、ペトロたち主の使徒たちが共に夜を過ごしたのです。どんな会話が交わされたのでしょうか。これはやがて作られる神の教会のひな型とでも言えるような集まりではなかったでしょうか。

 「10:23 翌日、ペトロはそこをたち、彼らと出かけた。ヤッファの兄弟も何人か一緒に行った。
 10:24 次の日、一行はカイサリアに到着した。コルネリウスは親類や親しい友人を呼び集めて待っていた。」ヤッファからカイサリアまでは約50キロメートル程離れていましたから、徒歩で移動した彼らが次の日にカイサリアに到着したのは納得できます。
 コルネリウスは、家族や親しい友人やその他大勢の人たちと共に、ペトロたち一行を丁重に迎えました。コルネリウスはペトロの足もとにひれ伏して拝むほどでしたから、ペトロは彼を起こして、「お立ちください。わたしもただの人間です。」と注意しなければならないほどでした。ペトロたちにとっては、今までならば、異邦人と交際して、家を行き来することなどはとてもできないことでしたが、今ペトロはすっきりした気持ちでいました。それはあの幻を見て、ユダヤ人も異邦人も何の差別もないことを教えられていたからです。

 それで、ペトロは自分に神からの幻があったことを語りました。「10:28あなたがたもご存じのとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています。けれども、神はわたしに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました。 10:29 それで、お招きを受けたとき、すぐ来たのです。」こう言ってから、ペトロは「10:29お尋ねしますが、なぜ招いてくださったのですか。」と尋ねました。するとコルネリウスは、やはり自分にも神が幻を見せられたことを話してくれたのです(30~33節)。

 ペトロとコルネリウスは、お互いの体験を語り合い、そのことを照らし合わせてみて、不思議な、けれども確かな神の導きを悟っていきました。別々に祈っていた二人でしたが、すべてを導かれる神が幻を通して、御自分の計画を押し進めるために、二人をここで引き合わせたのです。
 ペトロを迎えたコルネリウスは、感激して言いました。「10:33 よくおいでくださいました。今わたしたちは皆、主があなたにお命じになったことを残らず聞こうとして、神の前にいるのです。」
 実際に、彼らはペトロの前に出ているのですが、「わたしたちは皆、神の前にいるのです。」という姿勢があるのです。この姿勢、この心の有り様こそが、キリスト教徒が礼拝に参加して御言葉を聞く時の態度ではないでしょうか。コルネリウスはまだこの時にはバプテスマを受けていませんが、神の前にあるその信仰姿勢は大変立派で、見倣わなくてはならないと思います。またコルネリウスは、ペトロが到着する前に、家族や友人など多くの人を集会に招いていたのです。とても伝道熱心です。コルネリウスの招きに応えてたくさんの人が集まって来たことから考えても、実によく整えられた家庭であったと言わねばなりません。

 私たちはカイサリアの異邦人教会の初穂として、このような信仰篤く、家庭の整った素晴らしいコルネリウス一家が選ばれたことに注目したいと思います。一つの教会の始まりは、一つの家庭からスタートすることが多いのです。この後、使徒言行録を読んでいくと、フィリピの町に教会が建てられた時には、「神をあがめるリディアという婦人」とその家を選んで初穂とされました(使徒言行録16章14-15節)。テサロニケでは「ヤソンの家」を選ばれました(17章6-7節)。コリントでは「プリスキラとアキラの家」(18章2-3節)や、「神をあがめるティティオ・ユストという人の家」(18章7節)や、「会堂長のクリスポの一家」(18章8節)等を用いられました。このように将来発展していった各地の教会は、キリストを信じる人の家庭から始まって行ったのです。(私たちの身近にもそういう例がたくさんあります。)

 私たちもまた、神の愛と平和に満ちた家庭を築いていくことを真剣に祈り求めていきたいと思います。自分の家を整えることが、ひいては神の家である教会を建て上げることにつながっていくのです。聖書には(使徒言行録16章31節)「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」という言葉があります。コルネリウスが家族全員を集めてペトロを迎え、家族もろとも救われたのはその見事なお手本だと思います。
キリストの救いを信じる信仰の恵みは、あなただけではなく、必ずあなたの家庭にも影響を与えていきます。あなたとあなたの家庭を祝福して救いへと導かれるのです。救い主イエスを信じる私たちはもっと勇気をもって行動し、その大きな愛の力に支えられ、導かれて生きていきたいと願っております。

(牧師 常廣澄子)

聖書の引用は、『 聖書 新共同訳 』©1987,1988共同訳聖書実行委員会 日本聖書協会による