2025年3月2日(主日)
主日礼拝『 主の晩餐 』
ヨハネの黙示録 21章1~8節
牧師 常廣 澄子
ヨハネの黙示録を読み進めています。このあたりは黙示録の最高地点ともいえるところです。難しいですがこの黙示録の御言葉には、おそらく聖書全体が言おうとしていることが書き込まれているのではないかと思います。ヨハネが見たり聞いたりしたことをしっかり受け留めていきましょう。
まず大事なことを復習しておきますと、このヨハネの黙示録には、キリストが示してくださった幻が書かれています。ヨハネは示された幻を手紙に書いて各教会に送りました。それは始めの方の2-3章に書かれています。ヨハネが手紙を送った七つの教会はどこも皆迫害の中で苦しんでいました。自分たちに降りかかってくる苦難の中で、悲しみ嘆き涙を流しながら、イエスの苦しみを思っていたかもしれません。十字架に架けられた贖い主のイエスは、自分たち以上に苦しまれた方ですから、自分たちの苦しみをわかってくださるに違いないと思って慰められ、励まされていたかもしれません。そしてこの21章にきて、やがて来る「新しい天と新しい地」を見ることができたのです。
「21:1 わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。」何かしら幻想的な場面を思い浮かべるかもしれませんが、いったいどういう光景でしょう。前回お話ししましたように、ここにある海とは死者が行く場所だと考えられていました。その海がなくなってしまいました。続いて「21:2 更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。21:3 そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、 21:4 彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。』」
この幻を見、玉座から語りかける声を聞いたヨハネはどんなに驚いたことでしょう。先ほど言いましたように、当時はキリストを信じる者たちが迫害され苦しんでいました。悲しみ、嘆き、日々涙を流している多くの教会があったのです。この著者ヨハネもまた迫害されてこのパトモス島に流されていたわけです。そのような中でヨハネは神から素晴らしい約束の言葉を聞いたのです。それがこの個所です。
ある人は、これは死んだ後の世界の事ではないかと考えます。実際この聖書個所は、葬儀の時によく読まれます。亡くなった方を偲びながら、生前の苦しい人生が終わり、今や天にあって、死も悲しみも涙もない新しい世界に移されたのだと理解するのです。それは決して間違いとは言えません。しかしここに描かれている新しい天と新しい地というのは、もっと身近にあるものです。
この21章1節には「天と地」という言葉がありますから、創世記1章1節を思い起こされた方もあると思います。それらはつながっています。この「新しい天と新しい地」というのは、別の物としてどこかよそにできるのではなく、いままであった「最初の天と最初の地」が新しくされるということなのです。そしてこの古い(最初)と新しい、の切り替え部分にイエス・キリストがおられるのです。罪に汚染されて死と滅びが支配していた「最初の天と最初の地」は消え去りました。私たちは間違いなくこの古い天と地にいたのです。私たちの運命は死と滅びであり、その中で呻きもがいていました。この古い天と地を支配するものは人間の知恵や力であり、律法主義と世俗主義でした。しかしイエスは行いによる古い律法の救いではなく、信仰による救いの道を開いてくださったのです。つまり、今までの基準が変わったのです。
フィリピの信徒への手紙3章7-8節には「3:7 しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。 3:8 そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。」というように、パウロの大きな心の変化が書かれています。
パウロをしてそれほどの言葉で言わしめたのは、イエス・キリストの絶大な価値を知ったからです。主の憐れみと慈しみにより、ただキリストの贖いを信じる信仰によって救いが与えられることを知ったからです。救いは人間の知恵や力や業績によるのではなく、ただ神の憐れみによることがわかったのです。ここにこそイエス・キリストによって始まった「新しい天と新しい地」があるのです。人間の努力や修行という律法による古い秩序は過ぎ去りました。「5:17 だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(コリントの信徒への手紙二5章17節)とあるとおりです。
2節の言葉は、神と人、キリストとキリストの民を、花婿と花嫁に譬えて語っています。ここでは、キリストによってすべての罪を赦され、汚れを清められた神の民である教会がうるわしい花嫁の姿として語られています。だれでもイエス・キリストにある者は罪の赦しの恵みを受け、汚れを清められて神の子として生きることができるのです。これは今現在の私たちの姿であり、かつ未来の姿でもあります。
本日はこの後、「主の晩餐」を執り行いますが、「主の晩餐」は、来るべき終わりの日、つまり神の国が来た時に、私たちは皆、イエスと一緒に食卓に着くことができる、その喜びの祝宴を先取りするものです。主の晩餐は未来のことを、今のこの時に先取りして行っているのです。
さらにここには、イエス・キリストの罪の赦しという贖いの御業が、遠い将来の事ではなく、現在の事として語られています。「21:3 そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、21:4 彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。』」何と素晴らしい約束でしょう。ここにイエス・キリストの福音の最高のメッセージがあります。
ヨハネによる福音書1章14節に「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」とあります。「宿られた」というのは、神が私たちと共に住まわれるということ、つまり神がインマヌエルの主であられるということです。イエスがこの世に誕生される時、ヨセフの夢に現われた主の天使は言いました。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」と(マタイによる福音書1章23節)。
今、私たちが住んでいる世界は、苦しみや悲しみ、痛みや叫び、とめどもなく流れる涙がなくなりそうもありません。そういう時代に生きている私たちですが、キリストによって始められた「新しい天と新しい地」は、私たちが絶望しなくてもよいと語っているのです。キリストが共にいてくださる限り、救いがあるからです。そこに勇気と力が与えられます。イエス・キリストにあるならば、何が起きても私たちは絶望的な呻きや悲しみから解放されて生きることができるのです。
この黙示録は、私たちに終末的な救いを見せてくれるものです。そこには救いが完成された時の姿が映し出されています。それは前方にある、来るべき完成の予告です。4節に書かれているのは、キリストによって与えられる平安と祝福、慰めと自由の世界です。「新しい天と新しい地」の真ん中におられる神の小羊に目を注ぎたいと思います。神の御子イエスは、その十字架の死と復活によって罪と死と滅びに決着をつけてくださったのです。
私たちはイエスを既にこの世に来てくださったお方として、過去形で表わします。また、今私たちと共にいてくださるお方、すなわちインマヌエルの主として信じています(現在形)。そしてそれと同時に、これから先に起こる未来に、前方におられて私たちを迎えてくださるお方としても見ることができます。過去、現在、未来、すべての時を通じて、私たちの救いはこのお方において確立し、保証され、その担保とも言われる御霊を与えられているのです。
「21:5 すると、玉座に座っておられる方が、『見よ、わたしは万物を新しくする』と言い、また、『書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である』と言われた。」ここにある「玉座に座っておられる方」というのは神ご自身です。「万物を新しくする」というのは、部分的なものではなく本質的な新しさです。それは神だけがおできになることです。神は無から有を生み、死から命を生み出されるお方です。そしてここには「書き記せ」という命令があります。私たちは普段どうしても記憶しておかなくてはならないことや、絶えず心に覚えておかなくてはならないことは、忘れないようにノートに書いておきます。同じように、神が与えてくださった恵みの約束は心の碑に記し、魂に刻みつけなさいというのです。書き記しておくのは、5節にあるように「これらの言葉は信頼でき、また真実である」からです。神を侮ってはなりません。神は真実であって、偽ることがないのです。偽ったり不信実なのは私たち人間であることを忘れてはならないと思います。
「21:6 また、わたしに言われた。『事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。』」「事は成就した」事は既に成っているのです。イエス・キリストによる「新しい天と新しい地」つまり「信仰によって救われる」という驚くべき事は既に実現しているのです。それは何と力強く、ありがたいことでしょうか。そしてそこには確かさがあります。それは「わたしはアルファであり、オメガである。」「初めであり、終わりである」という言葉です。
もっとわかりやすく言うならば、初めと終わりではなく、初めから終わりまでという一貫したものです。少しの隙間もなくずっと続くものです。「121:1目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。 121:2 わたしの助けは来る、天地を造られた主のもとから。121:3 どうか、主があなたを助けて、足がよろめかないようにし、まどろむことなく見守ってくださるように。121:4 見よ、イスラエルを見守る方は、まどろむことなく、眠ることもない。」のです(詩編121編1-4節)。この詩編にあるように、神は眠ることがないのです。神は信じる者たちに手を差し伸べ、見守り続けておられます。終始一貫変わらず、初めたことを終わりまで貫き通すお方なのです。
イザヤ書46章3-4節には「46:3 あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。46:4 同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」というように、断固とした神の決心があります。
私たちは長年使っていたものが壊れると修理に出します。あまりに費用がかかるとわかれば、買い替えます。もう使えないとわかるとさっさと廃棄処分にしてしまいます。手間や時間をかければ修復するかもしれないのに。ところが、神はそういう私たちをリサイクルされるのです。壊れて使い物にならないような私たちを何とかしようと惜しまれるお方なのです。
イザヤ書の預言では「わたしが造ったのだから、わたしが担い背負い救い出す」と言われるのです。そのような愛のお方によって、私たちは今ここに召されています。その事を忘れないようにしたいと思います。この世でもあの世でも、神は断固として私たちを守ってくださいます。信仰というのは、私たちが生きている時だけだと思っているかもしれませんが、私たちは生者も死者も支配しておられるお方を信じているのです。生きている時だけの神ではありません。今の世でも死んでからも、健やかな時も病む時も、終始一貫して守っていてくださるお方が私たちの主です。ですから「渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。」と言われます。これはイエスが言われた言葉でもあります(ヨハネによる福音書4章13-14節参照)。わたしが命の水だと言ってくださったイエスは、私たちに無代価で、ただ信じるだけで救いを与えて受け入れてくださり、愛してくださり、惜しみなく命の水を与えて生かし養ってくださるのです。私たちはこのお方のものとされていることを心から感謝したいと思います。
「21:7 勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる。21:8 しかし、おくびょうな者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、みだらな行いをする者、魔術を使う者、偶像を拝む者、すべてうそを言う者、このような者たちに対する報いは、火と硫黄の燃える池である。それが、第二の死である。」第一の死というのは私たちの地上の命の区切りであり、肉体の生活が終わった時です。私たちが恐れるべきものは第二の死である魂の死です。神から引き離されることです。しかし、キリストにある者は第二の死は適用されません。しかしこんなにも手を尽くしてくださるお方に顔を背け、屈辱を与える者、つまり8節に書かれているようなことをする者は第二の死に投げ入れられるというのです。私たちは神の計り知れない慈しみと憐れみを感謝して生きて行きたいと思います。ただ幼子のように何のためらいもなく、救いを信じてその胸に飛び込んでいくことこそが神に最も喜ばれることです。
(牧師 常廣澄子)
聖書の引用は、『 聖書 新共同訳 』 (C)1987,1988 共同訳聖書実行委員会 日本聖書協会による