イエスはすべての人の主

2025年3月16日(主日)
主日礼拝

使徒言行録 10章34~48節
牧師 常廣 澄子

 私たちは今使徒言行録を読み進めていますが、前回までは、カイサリアに駐屯していたイタリア隊の百人隊長コルネリウスが、天使のお告げによって使徒ペトロを自宅に招いたところまで、読んで来ました。
本日はその続きです。コルネリウス家に招かれたペトロは、「(34節)ペトロは口を開きこう言った。」腹話術で話をしている人でない限り、誰であっても口を開かないと物を言えないのですが、ここにある「口を開き」という表現は、特に荘重な演説などを語り出す時に使われる慣用句でした。つまり大勢の人が集まって待っているコルネリウス家に招かれたペトロが、ここで正式の演説を始めたということです。

 しかし、ここに書かれているペトロの説教は、ユダヤ人のキリスト者仲間が聞いたなら、天地がひっくり返るくらい驚くべき内容でした。それは、ユダヤ人が長い間持ち続けていた誇り高い民族意識の壁が崩壊したことを認める言葉で始まっていたからです。「10:34 そこで、ペトロは口を開きこう言った。『神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。 10:35 どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。』」

 ユダヤ人が持っていた選民意識(つまり自分たちユダヤ人こそが神に選ばれた民族であり、ユダヤ人以外の民族は汚れた民、異邦人であるという考え)は、何世紀にもわたって世界のあらゆる民族を向こうに回すくらいの大きな壁として存在していました。それが今、コルネリウスとの出会いによって取り払われたのだとペトロは告白しています。それはペトロ自身も神からの啓示を受けたことですが、具体的にはコルネリウスとの体験を通して現実となったのです。ペトロはまず始めに「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。」と語っています。理屈の上では神には不公平がないことはわかっていましたが、実際の出来事として、ペトロはいまここでキリストの福音の豊かさが深くわかって来たのです。

 37~43節はペトロが語った短い説教ですが、イエスが救い主としての活動を開始されてから、死んで復活されるまで、イエス・キリストの救いの福音の内容が要領よく紹介されています。ペトロは、悔い改めのバプテスマを施していたヨハネの宣教活動から始めて、イエスのガリラヤ伝道、続いてユダヤやエルサレムでの伝道、そしてイエスの十字架と復活について語っていきます。イエスが復活して人々の前に現われてくださったことは、まさに自分たちが体験したことだと確信をもって語っています。

 ペトロはアラム語かヘブライ語を話すユダヤ人ですが、もともとはガリラヤの漁師でしたから、普段は発音があいまいで粗野なガリラヤ弁で話していたのではないでしょうか。コルネリウス家で語った時は、もしかしたらギリシア語の通訳を介して話したのかもしれません。

 コルネリウス家の人たちは、主人であるコルネリウスの影響もあって神の御言葉を知っており、当時世間を驚かせていた出来事も知っていたようです。「10:36 神がイエス・キリストによって――この方こそ、すべての人の主です――平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送ってくださった御言葉を、 10:37 あなたがたはご存じでしょう。ヨハネが洗礼を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です。」

 イエスを信じると言うことは、イエスが成し遂げられた事柄を信じることです。集まっていた人たちは、ペトロの話を聞きながら、イエスがなさった御業やイエスに起こった出来事についていろいろ思いめぐらし考えていたことでしょう。

 イエスは神の言葉を取り次がれ、神について教えられたのですから、真の預言者です。またイエスは祭司の働きをなさいました。つまり方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべて癒されたのです(38節)イエスは汚れた者を清め、悩む者を憐み、神を礼拝する者としてくださいました。しかし人々はこの方を木に架けて殺してしまったのです(39節)。

 申命記21章23節には「木に架けられた死体は、神に呪われたものだからである。」とあります。イエスは神に呪われた者として死刑にされたのだというのです。ガラテヤの信徒への手紙3章13節でパウロも語っています。「3:13 キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです。」

 では、神の呪いを受けて死んでくださったイエスの行為は成功したのでしょうか。イエスは確かに死んで葬られました。しかし死んだままではありませんでした。復活されたのです。私たちの身代わりの死、贖いの死は成功しました。ですからもはや私たちが罪のために神に呪われて死ぬことはなくなりました。その確実な保証はイエスの復活です。イエスが復活されて今も信じる者と共に生きておられること、それこそがイエスが救い主であることの決定的な証拠です。

 「10:40 神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現してくださいました。 10:41 しかし、それは民全体に対してではなく、前もって神に選ばれた証人、つまり、イエスが死者の中から復活した後、御一緒に食事をしたわたしたちに対してです。」救いの完成であるイエスの復活は、キリスト教信仰の土台です。41節でペトロが語っているように、「復活のイエスと一緒に食事をした」という証人はたくさんいて、確実な証拠と証言がそろっているのです。

 さて、イエスの復活によって、生きとし生ける者すべての人の罪、死んでいったものの罪も皆イエスの十字架で完全に贖われることがわかりました。「10:42そしてイエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。」このように、復活のイエスは、生きている者と死んだ者との審判者として神から定められたお方なのです。

 神と人間との関係を考えてみましょう。人間の罪(神を神として崇め、神の前に生きていないこと)に対する神の呪いと怒りは、イエスの死で十分に受け入れられました。そのことはイエスが復活されたという事実で立証されています。もう神は罪深い私たち人間を呪っておられないことがわかります。では私たちは何をすべきでしょうか。それはイエスを信じることです。ペトロが教えています。「10:43 また預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています。」

 救いの信仰は特定の限られた人だけのものではありません。御子イエスを信じることによって誰にでも与えられるものであり、限りなく広く豊かです。神による救いや赦しは、特別な資格や条件なしに、すべての信じる者に与えられているのです。そのことをペトロが43節で語っているのです。そしてこの差別のない無条件の福音こそが、割礼を受けていない異邦人コルネリウス一家に対する救いの言葉となったのです。

 すると何ということでしょう、驚くべきことに、ペトロがそのように熱くキリストの福音を語っている最中に、それを聞いていた人たち一同に聖霊が降ったのです。「10:44 ペトロがこれらのことをなおも話し続けていると、御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降った。10:45 割礼を受けている信者で、ペトロと一緒に来た人は皆、聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれるのを見て、大いに驚いた。10:46 異邦人が異言を話し、また神を賛美しているのを、聞いたからである。」聖霊は目に見えませんが、「(45節」聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれ」「(46節)異邦人が異言を話し、神を賛美しているのを聞いたから」それがわかったのです。

 人々は「彼らが異言を話し、神を賛美していることがわかった」というのですから、この言葉はわけがわからない言葉ではなく、ヘブライ語かギリシア語かイタリア語か、その他いろいろな国の言葉であったのでしょう。彼らはそういう諸々の言葉で神を賛美したのです。ちょうどペンテコステの日に、集まって祈っていた人たちがいろいろな国の言葉で神の大きな御業を語ったのと同じ現象です(2章1-4節参照)。カイサリアにはユダヤ人よりも他の国から来た人たちがたくさんいましたから、これは主の御霊である聖霊がここに降って来られ、いまここで働いておられることがはっきり分かる出来事でした。
 
 要するに、ここにいた人々が異言で神を賛美し始めたということは、彼らが皆、神を信じて救われていたことを表しています。まさしくペトロが語った説教が救いを語る言葉として用いられたのです。これは異邦人世界に起こったペンテコステともいえるできごとです。コルネリウス家の人たちは五旬節の時に祈っていた弟子たちが受けたことと同じような聖霊体験をしたのです。まさに信仰は聖霊によっておこされるのです。

 そこでペトロは「10:47 『わたしたちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、水で洗礼を受けるのを、いったいだれが妨げることができますか』と言った。 10:48 そして、イエス・キリストの名によって洗礼を受けるようにと、その人たちに命じた。それから、コルネリウスたちは、ペトロになお数日滞在するようにと願った。」

 聖霊が与えられたことによって、彼らに洗礼(バプテスマ)を施さない理由はなくなりました。即刻、彼らはバプテスマを受けてキリスト者になりました。コルネリウス家の人たちは喜びと共に、もっと神のみ言葉を聞かせてほしいとペトロたちを引き留めたので、ペトロたちはさらに数日滞在することになりました。

 神を求める心も福音を聞く喜びも、すべて聖霊によって与えられます。信じることは神のみ業です。神の御霊が働くところに信仰が生まれ、喜びと感謝があります。そして43節にあるように、誰でもイエスを信じることによって救いが与えられるのです。割礼を受けているかいないかは問題ではありません。ユダヤ人か異邦人かの差別もなく、どこの国の人であろうと、ただ神を畏れ敬う気持ちがあれば、誰でも救われるのです。「この方こそ、すべての人の主です」と宣言されているとおりです。この救いに与った私たちは日々感謝をもって主の後に従ってまいりたいと思います。

(牧師 常廣澄子)

聖書の引用は、『 聖書 新共同訳 』(C)1987,1988 共同訳聖書実行委員会 日本聖書協会による