死に勝利する体

2025年3月23日(主日)
主日礼拝

コリントの信徒への手紙 一 15章35~58節
牧師 常廣 澄子

 今年のイースターは4月20日です。私たちは今、主イエスの十字架への歩みとその死を覚えながら、レント(受難節)の期間を過ごしています。そして遂にイエスの復活という喜びの時を迎えるのです。幸いなことに、私たちはコリントの信徒への手紙の中でちょうど復活について書かれている所を読んでいます。そのことを感謝したいと思います。

 ここまで(コリントの信徒への手紙一15章の前半)に語られてきたことは、キリストの復活が起こったということ、そして死人の復活も起こるであろうということでした。ここからは、それがどんなふうに、どんな体で起こるのかということが語られています。「15:35 しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません。」もしかするとこの質問は復活に反対する人からだったかもしれませんが、パウロは誠実に答えています。それはその人の単なる好奇心を満足させるというよりも、あくまで信仰の告白として語っているのです。

 パウロは先ず語ります。「15:36 愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。」死ぬことによって生を生み出すという事例は、私たちの周囲にたくさんありますが、パウロはここから、種とそれが蒔かれて育つ植物との関係について語ります。種が成長していくためには種は死ななければなりません。死んでもう一度新しく生きるということが、パウロが語りたかったことです。
 そしてこの「種」は、いろいろな種類の体になっていくことを語ります。「15:38 神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります。」その体には、獣や鳥や魚のようなものから、あるいは天体のようなものまであります。「15:39 どの肉も同じ肉だというわけではなく、人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉と、それぞれ違います。15:40 また、天上の体と地上の体があります。しかし、天上の体の輝きと地上の体の輝きとは異なっています。15:41 太陽の輝き、月の輝き、星の輝きがあって、それぞれ違いますし、星と星との間の輝きにも違いがあります。」パウロは、自分自身が復活したイエスによって福音に与る者とされ、新しい命に生きていることを自覚していましたから、神の新しい創造であるこの真理を一生懸命説明しようと試みています。

 パウロは、死者の復活もこれと同じなのだと語っていきます。「15:42 死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、 15:43 蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。 15:44 つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。」つまり、死んだ人間の体は朽ちていきます。そのように「肉のからだ」は卑しく弱いものであるのに対して、復活の体は朽ちないものになるというのです。またこの復活の体は「霊の体」であって、輝かしく力強いものだと語っています。
 45節からは、最初に造られた人間アダムは地に属する者、最後のアダムであるキリストは天に属する者として対比されています。「15:45 『最初の人アダムは命のある生き物となった』と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。15:46 最初に霊の体があったのではありません。自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです。15:47 最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です。15:48 土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天に属する者たちはすべて、天に属するその人に等しいのです。15:49 わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです。」死人の復活は、この最後のアダムであるキリストの復活の体、すなわち霊の体に似るのだというのです。
 ここまでは、「どんな体」で死人が復活するのかという問いに対してのパウロの答えですが、これは決して科学的な説明ではありません。むしろ詩的な感覚で語られた信仰的な答えと言えるかもしれません。しかしこれは復活が何を意味しているのか、信仰の本質を説明するものだと言うことができます。
 パウロはここで信仰者にとって大切なことを語っているのです。まず復活の体は、それが体である限り、自然界の生命体と共通しているが、その体の質が異なっているのだということです。つまり「肉の体」は罪のためにもたらされた「死」に絶えず脅かされているけれども、そのような問題をすべて取り除かれた体なのだということです。ここに復活の体の本質があります。

 そして50節に来ると、「15:50 兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。」ここでは「肉と血」という生身の私たちの体が出てきますが、私たちの肉の体はそのままでは神の国に入れないというのです。その理由はそれが朽ちるものだからで、そのままでは神の国を受け継ぐ資格がないというのです。つまり「復活の体」は肉と血でできている人間の体とは異質なものであるということがここではっきりわかります。肉と血でできている人間の朽ちる体とは異なる、朽ちない「霊の体」があるのです。

 ここには私たちの信仰にとって極めて大切なことが書かれています。先ず第一に、死者の復活ということではあくまで体の復活を前提にしています。決してギリシア的な霊魂不滅(霊や魂がずっと生き続けること)を説いているのではありません。第二に、この復活の体は、あくまで霊の体であって肉の体ではないということです。その体は人間が地上でまとっていた生命体としての体ではないのです。要するに復活体は「変革された体」だということです。この「変革」は根本的なものですから、それは無から有を生み出す創造の御業をなさった全能の神によってのみ可能なものです。

 この後、パウロは復活の現象について語っていきます。これは死者の復活というキリスト教信仰の核心に基づく現象ですから、パウロはそれを神秘(奥義)と呼んでいます。「15:51 わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。15:52 最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。」

 ここで「最後のラッパが鳴る時」というのは、「神の国が来る時、終わりの時」のことです。その時には、まだ地上での生を続けている者もいるでしょうし、既に地上の生を終えてその体は地下で眠り続けている者もいることでしょう。その時、つまり終わりの時、キリストの再臨の時は、まず地上の生を終えて地下で眠っていた者たちが先に復活し、その後でその時まで生き続けていた者たちが続くのです。この場合には復活とは言わずに「変えられる」という表現が使われています。

 テサロニケの信徒への手紙一4章15-17節に、この最後の時の様子が書かれています。
「4:15 主の言葉に基づいて次のことを伝えます。主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません。4:16 すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、4:17 それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。」

 死んで眠っていた者は復活し、まだこの世に生き続けている者は変えられる、とありますが、この「変えられる」というのはどういう事でしょうか。コリントの信徒への手紙二5章1-4節を見てみましょう。「5:1 わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。5:2 わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。5:3 それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません。5:4
 この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。」

 ここでパウロは、天から与えられる住みかについて語っています。「人間の地上の体は必ず滅びるものだが、神はこのような人間のために、滅びず朽ち果てることのない体を与えてくださる。私たちはこの地上に生きている限り、地上の幕屋にあって重荷を負って苦しみもだえているが、この体が朽ち果てた時には、天から与えられる住みかを着せられるのだ」と。私たちの死ぬべき体は、神の救いを信じる時、神の永遠の命に征服されるのです。「15:53 この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。」とあるとおりです。

 そしてパウロは、ここからまた復活の意味を深めていきます。「15:54 この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。『死は勝利にのみ込まれた。15:55 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。』」これはホセア書13章14節から引用されている言葉です。ここに復活の意味が何であるかが端的に語られています。それは死が勝利にのみ込まれてしまったということ、死への勝利ということです。地上の肉の体は死に服しているものですが、その体が根本的に変えられる時は、死から解放されます。復活した体は死とは何の関係もない存在であるということです。

 パウロはさらに復活信仰の厳密な意味をしっかりと押さえています。「15:56 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。 15:57 わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。」死はまだ事柄の本質ではありません。「死のとげは罪である」つまり死の根底には罪があるのです。罪こそが究極の本質なのです。「罪の支払う報酬は死である。」(ローマの信徒への手紙6章23節)とありますように、死は罪という商品につけられている値札のようなものです。罪が解決されない限り「死」という値札は取れません。罪が解決されて初めて、罪の結果としての死が解決されるのです。

 そしてパウロはさらにその後に「罪の力は律法である」という言葉をつけ加えています。死からの復活について語ってきたパウロは、罪の問題に及んで、さらには律法の問題にまで言及してきました。「律法は怒りを招く」(ローマの信徒への手紙4章15節)という言葉がありますが、律法はそれに違反する者に対して神の怒りを招くのです。この神の怒りの具体化が死です。従って、死の問題が解決されるためには罪の問題が解決されなければならず、罪の問題が解決されるためには律法による神の怒りの問題が解決されなければなりません。そしてこの神の怒りを解決するのは神の御子イエス・キリスト以外にはおられないのです。従ってイエス・キリストこそが、これらの問題の究極的な解決者です。キリストが律法を成就し、律法が私たちに降す呪いから私たちを贖い出してくださった(ガラテヤの信徒への手紙3章13節)ことによって、私たちの死の根底にあるあらゆる問題が解決されたのです。感謝以外にありません。「15:57 わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。」

 さて、復活に関するこの章の最後はこのように書かれています。「15:58 わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」
これはキリストを信じる者の基本的な姿勢であって、大変慰められる言葉です。私たちが生きているこの社会はキリストの教えがわかっているとは言えませんから、日々様々な誘惑や困難があります。そういう中で、動かされないようにしっかり主の御言葉に立って主の業に励もうとしている苦労を主はすべてご存じです。決して無駄になることはないのです。そのことを感謝しながら、新しい週も主を見上げながら歩んでまいりたいと願っております。

(牧師 常廣澄子)

聖書の引用は、『 聖書 新共同訳 』(C)1987,1988 共同訳聖書実行委員会 日本聖書協会による