神がきよめたもの

2025年4月27日(主日)
主日礼拝
使徒言行録 11章1~18節
牧師 常廣 澄子

 お読みいただいたところには、10章に書かれていた出来事が繰り返して書かれています。つまり、カイサリアにいたイタリア隊の百人隊長コルネリウスが祈っていた時に神の天使が来て、ヤッファにいるペトロを招きなさいと語ったことと、一方、ヤッファにいたペトロにはお昼ごろに、あらゆる獣や鳥などが入っている大きな布のような入れ物が天から下りて来て、それを屠って食べなさいという声が聞こえた、という二つの出来事が発端となって、その不思議な幻について考え込んでいたペトロに対し、神の霊がためらわずに一緒に行きなさいと言ったので、ペトロはヤッファの兄弟たちを伴って、迎えに来たコルネリウスの部下たち三人と一緒にカイサリアのコルネリウスの家に行き、そこに集っていた家族や友人たち一同に福音を語りました。するとペトロから神の言葉を聞いた人々の上に聖霊が降り、神を賛美し始めたというのです。その人たちはすぐに洗礼(バプテスマ)を受けてクリスチャンになりました。

 前回もお話ししましたように、ペトロがコルネリウス家で人々に語った言葉は、主イエスはすべての人の主であられるということでした。異邦人であろうと誰であろうと、ただイエスを信じる信仰によって救われるということです。しかしコルネリウスたちとその家族たちに起こった出来事は、ユダヤ人キリスト者仲間にとっては革命的な出来事であり、いろいろな問題を含んでいたのです。

 「11:1 さて、使徒たちとユダヤにいる兄弟たちは、異邦人も神の言葉を受け入れたことを耳にした。」
異邦人たちが神の言葉を受け入れたというニュースは、神の力を表すものとして、いち早く四方の町や村に広がっていったようです。そしてそのニュースがエルサレムに届いた時、大きな驚きと同時に喜びをもたらしました。

 復活されたイエスは40日間人々に現われましたが、終に天に上げられる時、弟子たちに言われました。「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」(マタイによる福音書28章19節)また「あなた方の上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒言行録1章8節)イエスはこのように語って、すべての人の上に注がれる神の救いを保証されました。しかしエルサレムにいたキリスト者たちは、イエスの言葉を具体的にはイメージしていなかったのでしょう。異邦人がこんなに早く神の言葉によって救われるということは、予想していなかったのかもしれません。

 ところが、異邦人が悔い改めて神を信じた、という驚きと喜びのニュースが広がっていくにつれて、人々の心に一つの疑問が起こり、問題となっていきました。それは、いったい何か起きて、どのようにして異邦人が神の言葉を受け入れていったのか、とその経過を聞いていくと、彼らの方から会堂に来て求道したのではなく、ペトロが彼らの家に入っていって食事をも共にして伝道した結果なのだということがわかってきたからです。異邦人の家に行って外国人と交際し、食事まで共にしたペトロの行動は、ユダヤ人キリスト者たちの感情を損ねることになってしまったのです。

 10章28節にありますように、ペトロがコルネリウス家に行った時、先ず語った言葉があります。それは「10:28あなたがたもご存じのとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています。」ということでした。厳格なユダヤ人は、市場で異邦人に触れても汚れるし、当然異邦人の家に入ることは汚れることだと考えていました。しかも、律法では聖い獣と汚れた獣の区別が定められていましたから、汚れた獣の肉や偶像に供えた肉を食べることを禁じられていたユダヤ人にとっては、異邦人が作った料理を食べることは、非常に危険な行為だったのです。
 とにかくこの箇所には、ペトロが見た幻についての話が三度も(10章9-16節、10章28節、11章5-10節)繰り返されています。この幻は一見、食事の律法のようにも思えますが、実はそうではありません。ユダヤ人と異邦人との間にあった差別に関しての教えです。ユダヤ人だけが神に選ばれた民であって清い者であり、他の民族は皆汚れた民であるという教えを覆す教えがここに現われています。このようにペトロが見た幻のことを何度も何度も執拗に語っているのは、当時、異邦人をキリスト者として受け入れることには大きな抵抗があったからです。

 本日のみ言葉は、コルネリウス家でのそういう出来事があった後、ペトロがエルサレムに上っていった時に起きた事です。「11:2 ペトロがエルサレムに上って来たとき、割礼を受けている者たちは彼を非難して、11:3 『あなたは割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事をした』と言った。」ユダヤ人キリスト者のある者たちがペトロを非難したのです。ここでは割礼を受けている、いないが問題になっています。しかし割礼の有無で論争があったのではありません。ここには割礼を重んじるクリスチャンたちと、割礼を受けてはいるが割礼の有無にはこだわらないクリスチャンたち、二通りのグループがあったようです。割礼を重んじる人たちは、言うまでもなく割礼だけでなく律法の契約条項一切を重んじる人々でしたから、彼らは「異邦人が神の言葉を受け入れるのは結構だが、それなら旧約聖書の律法に従ってまず割礼を受けた上で洗礼(バプテスマ)を受けるべきだ」という考えを持っていたのです。

 まず、ここで彼らが持ち出した議論は、「異邦人が神の言葉を受け入れた」という結果についてではなく、その筋道に関係しているということに注目したいと思います。異邦人が救われるにはどういう順序を取るべきかということ、つまり、洗礼を授ける前に先ず割礼が必要ではないかと考える人たちがいたということです。(当時、割礼は神に選ばれた民としてのしるしであり、イスラエル人としての義務でした。)

 こうした議論が教会内に起こったということは、大変示唆に富んでいます。教会の頭は主イエスです。その主イエスを信じる者の集まりである教会の中にも、議論は起こるのです。神を信じる人たちの中には、教会は神の赦しに与った人たちばかりがいるのだから、神聖な平和なところであるのが当然であると思っていて、それらの人たちの間に議論や論争が生じると、それだけで教会が嫌になって躓く人がいます。しかし、キリスト教の歴史はいつの時代においても論争がありました。

 人間が集まっているところでは、いろいろな考えがあることを認めなくてはなりません。議論することは争いではありません。互いの意見を持ち寄ってさらにより良いものにするために必要なことなのです。パウロもコリントの信徒への手紙一 11章18-19節で言い切っています。「11:18あなたがたが教会で集まる際、お互いの間に仲間割れがあると聞いています。わたしもある程度そういうことがあろうかと思います。11:19あなたがたの間で、だれが適格者かはっきりするためには、仲間争いも避けられないかもしれません。」いろいろな考えがあるのを、当たらず触らずで無視してしまうのではなく、本当にあるべき形に発展させていくためには、議論し合うことは大切なことだとパウロは語っているのです。

 しかし、そのやり方が大切です。「11:4 そこで、ペトロは事の次第を順序正しく説明し始めた。」ここには、ペトロの落ち着いた冷静な様子がうかがえます。ペトロは事の次第を順序正しく説明していったのです。ペトロは後に手紙の中で語っています。「3:15あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。3:16それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。」(ペトロの手紙一3章15-16節)ペトロはこの勧めにあるように、穏やかに慎み深く語っています。

 ペトロは、自分がやったことが神の前に正しいことであったということを、いくつかの根拠をあげて語っていきます。まず5-10節にあるように、“11:5 「わたしがヤッファの町にいて祈っていると、我を忘れたようになって幻を見ました。大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、天からわたしのところまで下りて来たのです。11:6 その中をよく見ると、地上の獣、野獣、這うもの、空の鳥などが入っていました。11:7 そして、『ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい』と言う声を聞きましたが、11:8 わたしは言いました。『主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は口にしたことがありません。』11:9 すると、『神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない』と、再び天から声が返って来ました。11:10 こういうことが三度あって、また全部の物が天に引き上げられてしまいました。」”ペトロが神から幻を見せられ、み言葉を賜ったことが三度も繰り返されたことを語ります。

 ここにある「11:7ペトロよ、身を起し、屠って食べなさい。」この「屠って食べなさい」というのは、神殿でいけにえの動物を殺して神に捧げる儀式用語です。全世界のあらゆる民族を、神に捧げるいけにえとしてささげなさいということなのです。パウロはそのことをローマの信徒への手紙の中ではっきり語っています。「15:15-16それは、わたしが神から恵みをいただいて、異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を務めているからです。そしてそれは、異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれる供え物となるためにほかなりません。」これこそが福音伝道の働きです。「10:28けれども、神はわたしに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました。」神はすべての人を清い者とし、すべての人が救われることを望んでおられるのです。

 またペトロが幻を見たその時に、カイサリアにいるコルネリウスのところから来た使者たちが到着したという摂理によって、み霊が語ったことが立証されたことを語ります。「11:11 そのとき、カイサリアからわたしのところに差し向けられた三人の人が、わたしたちのいた家に到着しました。」
 それから「11:12 すると、“霊”がわたしに、『ためらわないで一緒に行きなさい』と言われました。ここにいる六人の兄弟も一緒に来て、わたしたちはその人の家に入ったのです。」ペトロと一緒に、ヤッファからは六人の兄弟がカイサリアのコルネリウス家に同行したので、今語っている一部始終については自分を含めて七人の証人がいることになるのだということです。完璧な数です。

 一方のコルネリウスのところにも天使が現れ、み告げがあったことも証拠として語りました。「11:13 彼は、自分の家に天使が立っているのを見たこと、また、その天使が、こう告げたことを話してくれました。『ヤッファに人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。11:14 あなたと家族の者すべてを救う言葉をあなたに話してくれる。』」この時、天使はコルネリウスに、救われるための儀式ではなく、あなたと家族の者すべてを救う言葉を期待しなさいと告げています。救いとは神の約束の言葉を信じることから始まるからです。

 そして、ペトロがコルネリウス家で福音を語り出すと、聖霊ご自身が降って来られたのだと語りました。「11:15 わたしが話しだすと、聖霊が最初わたしたちの上に降ったように、彼らの上にも降ったのです。」このように、コルネリウス家の人たちは、神から直接的な働きかけを受け、恵みの賜物を受けました。つまり彼らは神のみ旨に適う者として受け入れられたのだということです。聖霊を受けるのに、割礼は必要ではありませんでした。「11:16 そのとき、わたしは、『ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは聖霊によって洗礼を受ける』と言っておられた主の言葉を思い出しました。11:17 こうして、主イエス・キリストを信じるようになったわたしたちに与えてくださったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったのなら、わたしのような者が、神がそうなさるのをどうして妨げることができたでしょうか。」この出来事を見たペトロは、彼らの救いを妨げることは誰にもできないことである、神による救いのみ業の前進は誰も止めることはできないのだと語ったのです。

 「11:18 この言葉を聞いて人々は静まり、『それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ』と言って、神を賛美した。」ペトロの答弁は、神のみ業に焦点を当てて語り、最も明快な答え方でした。反対者も沈黙を余儀なくされました。そればかりでなく「神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださった」と言って神を賛美したのです。
 私たちは神が清めたものを清くないなどと言ってはならないのです。「10:34-35神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。」神の大いなる救いのみ業が全世界に及んでいることを感謝して、新しい週もこの愛の主と共に歩んでまいりたいと願っております。