キリストにある命

2025年10月26日(主日)
主日礼拝
ローマの信徒への手紙 8章1~17節
牧師 常廣 澄子

 7章でパウロは、私たち人間の心と体(霊と肉)の分裂と戦いについて語りました。良いと分かっていることができずに、悪いと分かっていながらやってしまうという人間の中の矛盾や弱さを嘆いていました。ところがこの8章ではキリストの霊にある者の勝利と解放について語っています。登山に例えるならば、7章は頂上に向かっての急な坂道を登っていく苦しさに満ちていましたが、この8章では、やっと頂上に到達して周囲の山々や遠くに見える景色を眺めているような平安と喜びがあります。この8章は昔から多くの人に愛され、尊重され、その人生に深く影響を与えてきた個所です。しかしながら読んでお分かりのように、このところは順序を追った書き方ではなくて、話の主題が行きつ戻りつしているので、なかなかわかりづらいところがあります。しかし注目すべきことは、パウロが今まで述べたことを繰り返しているようでいながら、実際にはさらに新しい視点に立ち、主イエスを信じる信仰の頂点を示しているということです。

 「8:1 従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。8:2 キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。」この1-2節は、8章全体のテーマであり、要約とも言える個所です。ここで大事なのは「キリスト・イエスに結ばれている者」という言葉で、これは信仰によってキリストにつながり、キリストとの交わりに生きている者のことです。そのように生きているのであれば罪に定められることはないとパウロは断言しています。つまりキリストにつながって生きているならば良心の呵責を感じることもないし、死後の審判を恐れることもないというのです。何という有難いことでしょう。それは2節にあるように、キリストによって命をもたらす霊が、信じる者を生かしているので、私たちは罪と死に打ち勝って解放されていて、自由と祝福の中に入れられているからです。

 このことは7章でパウロが語った霊と肉との戦いの内容と、深く関わっています。パウロは自分の心では善をしたいと思っていても、行いがそれに伴わない苦悩を語っていましたが、実に律法は「何々せよ」あるいは「何々するな」と命じるだけで、それを実行する力を与えていないからです。律法はある面で人の神経を過敏にしたり引っ込み思案にしてしまいます。もっと大胆に積極的にならなければ、人が罪に打ち勝つこと等とうていできません。

 イエスはヨハネによる福音書で語っておられます。「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである(10章10節)。」イエスがこの世に来られた目的は、私たちに豊かな命、満ちあふれる御霊を与えることでした。そのことをパウロは2節で「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則」と言っているのです。キリストにつながって、この御霊を受けるならば、霊と肉の分裂や争いは解消し、御霊にある勝利と開放を体験することができるのです。

 では、キリストの命が私たちの中にあるならば、どうしてそのような生き方をすることができるのでしょうか。それはキリストが人間としてこの世に来られたことと、復活したことによります。そのことが3-4節に書かれています。「8:3 肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。 8:4 それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。」

 パウロは、神が地上に御子イエスを人間として送られたことを「罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです(3節後半)。」と表現しています。神の御子イエスは、人間の身体をもってこの地上に下り、苦しめられ、試みられ、辱められて、十字架の上で死なれましたが、決して罪を犯さなかっただけでなく、神の愛と真実を貫き通されました。つまり、罪ある人間と同じ肉体を持ちながらも、罪に汚されない例外的な人間であられたのです。そのことによって、私たちは自分たち人間の罪を悟ると同時に、この世にあって唯一罪に汚されていないお方がおられることがわかったのです。そしてその信仰に立つ時、私たちもまた罪から免れることができるのです。すなわちそれがキリストにつながっていることであり、御霊によって歩むということです。
 このことを哲学者キェルケゴールは「神の計略」と呼んでいます。罪のないキリストがこの地上の人間世界に、罪人である人間の姿をして入り込んで罪の処分をしてしまったのですから、確かに一種の計略と言えないこともありません。

 そして、キリストによる私たち人間の救いの完成はその復活です。パウロは5節から10節まで、私たちを復活へと導いていきます。「8:5 肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。 8:6 肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。 8:7 なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。 8:8 肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。 8:9 神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。 8:10 キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。」

 この救いの完成が11節で完全に言い表されています。「8:11 もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。」地上に来られた神の御子イエスは、罪ある人間世界で、人間の肉体を持って生活しておられましたが、唯お一人、罪を犯されない人でした。ですから肉体を持った人間として一度は死なれましたが、罪のない神の御子として復活されたのです。罪ある人間は死ぬべきものですが、罪のないキリストがよみがえられるのは当然です。復活という、人間の理性ではとうてい理解できない出来事も、キリストという神の御子の聖性(聖なる本質)と独自性がわかるならば、おのずと信じられるのではないでしょうか。
 復活とは、死んだ者が生きることです。それは人間の限界を突き破って神の無限の世界に飛び込むことです。キリストの復活によって、人間と神とを隔てていた障壁が壊され、神の満ちあふれる命が人間の上に注がれたのです。それが聖霊です。ですからペンテコステの日にぺトロは語りました。「それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです(使徒言行録2章33節)。」と。私たちもまた、キリストにつながって生きるならば、この御霊を受け、それによって今の世で罪に勝利するだけでなく、終わりの日にはキリストの復活に与る希望をも持つことができるのです。

 では、信仰を持ってキリストにつながり、キリストの御霊を受けて生きていくならば、それで完成であって、もうそれ以上何もすることはないのでしょうか。さらに訓練や修養はしなくても良いのでしょうか。その答えが12-13節にあります。「8:12 それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。8:13 肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。」

 パウロは12節で「わたしたちには一つの義務があります。」と語っています。御霊に導かれる生活というのは(それは人間世界の律法や道徳を超えているものですが)、ただ受け身の状態であって、(木や花が植えてある庭に例えるならば)自然のままで草は生え放題、枝は伸び放題といったような野放図なありさまではありません。人間は御霊を受けるまでは、自分の心や人間性を満足させるために、自分の力で自分を満足させようとしてきました。しかしこれは非常に難しく多くの場合次々とハードルが高くなって失敗に終わります。けれどもみ霊を受けた者は、神の栄光と神の国の発展のために、隣人を愛して生きていくようになるので、知らず知らずのうちにその心は広くなり、その人間性が豊かに進歩向上していくのです。すなわち、生まれながらの人間性を軸に生きて、ただ自分の心を満足させようとして、したい放題のことをする生活の最後は必ず死ですが、それに反して御霊に導かれて生きる者は永遠の命に至るのです。

 パウロのこのような言葉を読んでいくと、何かパウロが、霊を善とし、肉を悪とするような霊肉二元論者で禁欲主義者であるかのように思うかもしれません。しかし事実は決してそうではありません。禁欲主義者というのは人間性や人間の自然な性質そのものを悪として否定するのですが、パウロはむしろ身体(肉)が自発的に霊に従う生活を望んでいるのです。それこそがキリストにある節制の道です。

 さて私たちはいよいよ神の子としての信仰生活の頂点について学びます。14~17節には、キリストに結ばれている者の自由と栄光が美しく語られています。「8:14 神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。8:15 あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。8:16 この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。8:17 もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」

 これはキリストを信じる者にとって素晴らしい約束であり慰めの言葉です。まず、「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。」と断言しています。ところで、私たち人間は普通どのようにその人生が導かれていくのでしょうか。ある人は生まれてきた家庭の事情やその置かれている境遇によって、進むべき道が決められているかもしれません。ある人はお金を儲けることを目的に、ある人は思想や道徳を大事にして生きています。しかしそれらはすべて私たちの外側から私たちに働きかけてくるものです。パウロがここで語っているのは、キリストにある者は神の御霊に導かれて生きていくのだということです。神の御霊が私たちの心の内にあって私たちに語り、働きかけてくるのです。人間の外側から内側に向かって働きかけ、命令したり支配していくなら、そこには束縛と圧迫がありますが、内側から出てくるものには自由があるのです。神の御霊のあるところには自由があります。

 また、キリストにある者は、神の子とされる霊を受けています。「8:15 あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。」奴隷はその主人を恐れ、怖がります。しかし子どもは親に甘え親しんで寛ぐことができます。奴隷と主人の間は窮屈ですが、親と子の間には和やかな自由があります。御霊を受けたキリスト者はいつでも神に近づいて『アッバ、父よ』と祈ることができるのです。「アッバ」(「アバ」)とはヘブライ語で「お父ちゃん」という意味です。そのように、神の御霊を受けた者は、心の底から自分は神の子とされているのだという自覚が沸き起こってくるのです。

 さらにキリストにある者は、キリストの栄光と苦難に与る神の相続人でもあります。子どもが親の財産を受け継ぐように、私たちも神の遺産を受け継ぎます。神の遺産とは神の国です。ローマの信徒への手紙14章17節には「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。」とあります。キリストにある者は、神の御霊に導かれて、義と平和と喜びの中を生きていくのです。

 しかしキリストにある者は、キリストの栄光に与るだけでなく、その苦難に与ることも忘れてはなりません。今、私たちが生きている社会は大変不安定で、グローバル化した世界は政治も経済も先が見えません。科学の発達によって何でも便利になってきましたが、AIが人間を教えるようになり、人間の在り方そのものが問われています。私たちキリストを信じる者の信仰も問われているのです。御言葉にしっかり立って新しい日々を歩んでいきたいと願っております。