2025年12月7日(主日)
主日礼拝『 待降節第二主日・主の晩餐 』
ローマの信徒への手紙 8章18~30節
牧師 常廣 澄子
前回もお話ししましたが、8章はこの手紙の頂点ともいえる個所です。今日の箇所は、パウロが信仰の頂に立ってその信仰の核心ともいえることを語っているところです。キリスト者を迫害していたパウロでしたが、復活のイエスに出会ってからは、キリストにある救いと喜びを証ししながら福音を語りました。しかしそれは自分だけが信仰の高みにいて幸福に浸っていることではありません。自分だけでなくすべての者が抱えている苦しみを思いながら、将来におけるその解決を望み見ているのです。
そして、パウロがその信仰の高嶺から、現実の苦しみと将来の栄光とを、同時に眺め渡して出てきたのが18節の言葉です。「8:18 現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。」ここにある「現在の苦しみ」とは、直接的にはパウロが生きていた紀元1世紀の半ば頃、パウロが体験した様々な苦しみを指しているのでしょうが、更に広がりを持って考えるなら、世界の終末が来るまでの歴史的時間を表しているとも言えます。当然私たちが生きているこの21世紀もこの中に入ります。
「現在の苦しみ」と言われているように、今の時代には様々な苦しみがあります。肉体を持つ私たち人間は病気になったり怪我をしたり、歳を取って肉体が弱っていき終には死に直面します。人間は心を持っていますから、職場や学校での人間関係で人との間が気まずくなったり、結婚や恋愛問題で悩むこともあるでしょう。人生の意味を問うような哲学的な悩みで煩悶することがあるかもしれません。また、私たちが生きているこの地球環境では、気候変動や地震や津波や火事、その他さまざまな災害で被害を被ることもあります。社会生活においては、景気不景気で失業したり給料が下がって苦労することもあります。さらにその上に信仰を持って生きようとすると、自分の霊性について悩んだり、神を信じることで世間や家族の誤解を受けることもあります。とにかく今の時代は、あらゆる種類の苦しみが山積みしているのです。
パウロはこれら現実の悩みや苦しみを思いながら、それらが解放される将来の光景を思い浮かべています。18節の「将来わたしたちに現されるはずの栄光」というのがそれです。今の時代が終わり、主の日が来て、神の最後の審判があって悪の力が砕かれる時のことです。聖書の預言ではキリストが再び地上においでになって万物が復興し、キリストを信じる者が霊の身体に甦って、すべてのものが神の栄光を讃える時のことを言っています。まとめるとこういうことではないでしょうか。 『確かに現実の悩みや苦しみは深く辛いかもしれない。しかし、来たるべき終末の時に受ける栄光と比べるならば、取るに足りないものである。目の前の悩みや苦しみだけを見ているならば、失望しかないかもしれないが、それが神によって解決される日が来ることを信じるならば、希望を持つことができる。』 このように、パウロは現実の苦しみのかなたに、終末の栄光を望み見て心が明るくなったのだと思います。しかしながら、まだ神からの究極の解決はありませんから、現実の世界は暗いし、その悩みや苦しみは深かったのです。
「8:19 被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。 8:20 被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。 8:21 つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。 8:22 被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。」
ここに出て来る被造物とは、人間を含めすべての造られたもののことです。そしてそれらの被造物が切に待ち望んでいるのは、「神の子たちの現れる」ことだと言います。これはどういうことでしょうか。これはキリストによって救われ、神の子とされた人々が、その真の姿を完全に表す時が来るという意味です。キリスト者は神の子とされていますが、弱い肉体をもって今の不完全な社会に置かれている以上、悪の力にさえぎられて、その真価は発揮できていません。キリスト者の真の姿は今の世ではまだ隠されているのです。けれども世の終わりの日が来て、キリストが再臨され、悪の力が打ち破られた時には、キリストを信じる者たちは真の姿を現わして、その真価を発揮するのだというのです。それが「神の子たちの現れ」ということです。その時が来ると、キリスト者だけでなく天地万物も悪の支配から解放されてその本来の姿を取り戻し、栄光に輝く自由の中で新しく完成するのです。すべての被造物はその日を待ち望んでいるのだとパウロは語っているのです。
ところが今現在はどうかというと、「被造物は虚無に服しています」とあります。虚無とは、その存在の目的や意味を失っていることです。今は、自然も人間もすべての被造物はその本来の目的を見失って全く無意味な在り方をしているのだと言うのです。どうしてそうなってしまったのかというと、それは被造物が自分たちの遺志でそうしているのではなく、服従させた方(すなわち神)の意志によるのであると言います。これは、はじめの人間アダムが罪を犯して以来、その罪が全人類に及び、更に天地万物にまで及んで、すべての被造物が存在の意味を失って虚無に服するようになったことを指しています。つまり人間の罪が万物を虚無に落とし入れてしまったのです。
では私たち人間はこのような状況に絶望する以外、何もできないのでしょうか。そうではありません。「8:21 つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。」虚無に陥っているものたちにも救いの希望はあるのです。今の世に生きているということは、実際罪の世界ですから悩みと苦しみに満ちていますが、そこに救いの可能性があるのです。それは、終わりの日が来るまで、神がすべての人に対して救いの手を差し伸べておられるからです。ですから「8:22 被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。」とパウロは語っているのです。
ここでパウロは、全宇宙だけでなく、既にキリストを信じて、その救いに与っている人たちの心にも深いうめきがあることを告白しています。「8:23 被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。 8:24 わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。 8:25 わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」
ここではキリスト者のことを「“霊”の初穂をいただいているわたしたち」と呼んでいます。私たちはキリストを信じた時に、その心に神の御霊が与えられました。その意味ではキリスト者は既に神の子とされた者です。しかしその救いは始まったばかりで、その完成は将来に残されているのです。神の子とされてはいるけれども、その実質を備えるのは将来のことであって、今はその完成の保証として、聖霊という「“霊”の初穂」が与えられているだけだと語っているのです。
従ってキリスト者には、救いの完成を待ち望む深いうめきがあるのです。そのことをパウロは「神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。」と語っているのです。「神の子とされること」とは、神の子としての実質を持ってその真価を発揮することです。そのためには霊だけではなく、身体もまた贖われなくてはなりません。今の私たちは心も身体も弱いので、心ならずも罪(神の御心に添えない行為)を犯してしまうことが多々あります。マルコによる福音書14章38節にあるように、「心は燃えても、肉体は弱い」のです。これは多くのキリスト者共通の嘆きではないでしょうか。
さらにパウロは、全宇宙とキリスト者がうめいているだけでなく、何と神の御霊ご自身さえもがうめいて執り成しておられるのだと言います。「8:26 同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。 8:27 人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。」
キリストを信じる私たちは、この世に生きている限り、キリストを信じていない人たちとあまり変わりません。弱さを持ち、悩みを抱えて生きています。しかし信じていない人たちと唯一違うことは、私たちは自分一人で悩んでいるのではなく、神の御霊が共に悩んでいてくださるということです。神の御霊は信じる者を内側から助けて支え、私たちと共に重荷を負っていてくださるのです。御霊は私たちがうろたえ戸惑いどう祈ったらよいかわからない時も、言葉に表せないうめきで私たちのために執りなしていてくださるのです。うめきにも似た祈りというのは、人にはわからないかもしれません。しかし人の心を見抜くお方、主なる神は、霊の思いが何であるかを知っておられ、その祈りを受け入れてくださるというのです。
人間は悲しい時や寂しい時、何か問題を抱えて悩んでいる時、その心を打ち明ける友がいるととても慰められます。しかし一緒に悲しんでくれる人が一人もいないとしたらそれはとても不幸です。しかし、キリストを信じる者は感謝です。キリスト者には、その弱さを知って助け、その人のために切なるうめきをもって執り成してくださる御霊が共におられるのです。御霊は私たちの内にいて、私たちを助け、労り、慰めてくださいます。この内なる助け主によって私たちは苦しみの中にあっても毅然として立つことが出来るのです。
それだけではありません。苦しみの中にあっても、神を信じてその召しに応えていくならば、不思議な祝福が与えられているのです。「8:28 神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」 私たちは「神を愛する者たち」の一人であり、神から御覧になれば「御計画に従って召された者たち」の一人です。その私たちにとっては、この世におけるいっさいのこと(万事)が益となるように働いているのだとパウロは言うのです。健康や病気、成功や失敗、喜びや悲しみ、私たちには様々なことが起こりますが、今はそれらがどんな意味を持つのかわかりません。しかし終末の光に照らされた時、すべてのことは私たちの救いを完成し、神の国を実現するために必要であった、それが神の摂理であったとわかってくるのです。被造物のうめきも、キリスト者のうめきも、御霊のうめきも、究極の救いに向かって進んでいる神の偉大な計画の中にあるのです。
「8:29 神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。 8:30 神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。」ここには二つの重要なことが示されています。一つは神のみ旨は人の遺志に先立っていて、人の救いは神のみ旨に基づいているということです。私たちは自分の遺志で神を求め、努力して信仰に入ったと思いがちですが、実際は神に前もって知られていて、そのように定められてそうなったのだというのです。つまり人の遺志よりも神のみ旨の方が先にありますから、そこに信仰の確かさの根拠があるということです。
人がキリストを信じる動機は皆それぞれ違っています。友人に誘われたり、讃美歌に心引かれたり、あるいは聖書を知りたい、現実の苦しみから逃れて魂の救いを得たいと教会の門をたたいてキリスト教に近づくこともあるでしょう。これらはあくまでも自分の要求が中心です。神について知ろうとするのではなく、神は自分の要求を満たす限りにおいて価値があったのです。ところが、信仰心が成長していくと別の真理がわかって来ます。自分が教会に来るようになり、神に心を向けるようになったのは、神がまず自分を招いてくださり、神が自分を引き寄せてくださったからだという真理がわかってくるのです。
パウロはそれを、コリントの信徒への手紙一8章3節で「神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです。」と言っています。ここに信仰の転機があります。自分が神を求めて、神を知るようになったと思っている間は、信仰の主体は自分ですから大変不安定です。そうではなく、自分が神を信じるようになったのは、神が自分を知っておられたからだということに気づくと、信仰は神本位となって安定し確実なものになります。「8:29 神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。」これがまさにこのことです。人が神を信じるようになるのは、その人の思いつきでも運命のたわむれでもなく、神のみ旨と御計画がその人の上に実現したことに他なりません。
パウロはさらに進んで、人が福音に接してキリストの救いを信じ、罪の赦しを得て義とされ、霊と肉の救いが完成する栄光を待ち望むようになるという信仰の進歩や成長は、すべて神の予知と予定に基づいているものであり、すべて神のみ旨の現れであると語っています。しかしそうであるならば、救われる人とそうでない人が始めから決まっているという一種の決定論になってしまいます。しかし決してそうではないのです。ここでは私たちの救いの根拠は、私たちの気分や意志にあるのではなく、神の永遠のみ旨にあるということを明らかにしているのです。パウロが語っているのは、神の絶対的な恵みに対する感謝の告白に他なりません。
また、ここで示されているもう一つのことは、神は何のために人間を救われるのかということです。これについても、私たちは人間本位に考えてしまいます。神が人を救われるのは、その人格を完成するためであるとか、社会を改革するためであるとかいろいろ言われています。しかし、パウロはそのような人間的な見方とは全く違うことを語っています。「御子の姿に似たものにしようと」「御子が多くの兄弟の中で長子となられるため」という言葉がそれです。人生にはさまざまな生き方があります。しかし神を信じた人はたとえ道は違っても皆同じ方向や目的に向かって進んで行きます。それは「御子キリストの姿に似る」ということです。キリスト者はいろいろな体験を重ねながらキリストの姿に似通っていくのです。御子イエスを長兄として愛し、彼に倣って生きるところにキリスト者の共通の目的があり、全宇宙の究極の目的があります。天地万物が「イエスは主である」と告白するようになる日を実現するために、私たちは今神に召され、神を信じる者とされているのです。そのことを覚え、感謝して日々を歩んで行きたいと願っております。