目が見えない人のいやし

2025年12月14日(主日)
主日礼拝『 待降節第三主日・誕生日祝福 』
ルカによる福音書 18章35~43節
牧師 永田 邦夫

 本日は、待降節第三週の主日礼拝です。そして次週は、いよいよクリスマス礼拝を迎えます。かつては、クリスマスの時期になりますと、教会では各年代層などに分かれてクリスマス劇を行なうなど、楽しい思い出が沢山あります。

 では早速、本日箇所に入りましょう。冒頭の35節には「イエスがエリコに近づかれたとき、ある盲人が道端に座って物乞いをしていた。」とあります。この節にあります「盲人」という言葉について、以降は「目が見えない人」と言わせていただきます。

 次は「エリコ」という町についてです。エリコの町は、旧約聖書の時代は「なつめやしの茂る町エリコ」と呼ばれていたとのことです(申命記34章3節参照)。この地名からは、“自然豊かな町”が想像させられます。また地理的にみますと、エリコの町は、エルサレムまで一日路(20数キロ程度)、また、塩の海(死海)までは9キロほどの位置にあります。エリコの町、エルサレム、そして死海は夫々、三角形の角にある位置関係にあります。
 さらにこのエリコの町は、かつて旧約聖書の時代には、イスラエルの民がヨシュアに率いられて出エジプトを果たしてから後、カナンの地に最初に入植した場所であるとも言われています(ヨシュア記2章1節以下参照)。

 エリコの紹介は以上として、35節以降に入ります。
 主イエスはこのとき、すでに本書の9章51節に記されていましたように、エルサレム行きの決意を固めてから、実際にエルサレムに向かっての旅の途上にありました。
そして、エルサレムに向かっての実際の旅は、主イエスにとりまして、この地上のご生涯においての最後の旅でもあり、またその目的地エルサレムには、ご自身の十字架の出来事が待っている、非常に厳しい旅でもありました。

 もう一つ注目していただきたいのは、本日の説教箇所の直前に、主イエスご自身による、十字架の死と、その死から三日目の復活について三回目の予告記事があります。このような配列になっているのは共観福音書の中でも、本書だけです。
 本書の著者ルカは、主イエスが三度にわたって、ご自身の十字架の死と、その死からの復活を予告された記録と、地上で病に苦しむ人の癒しのわざを、対照的に書いており、著者ルカの繊細な考え方や篤い思いが伝わってきます。

 では本日箇所に戻りましょう。ここでは「ある盲人が道端に座って物乞いをしていた」とありますが、「道端に座って物乞いをする」ということは、人によっては、恥ずかしい、と思うかもしれません。しかし、その人にとっては、日々生きていくための糧を得るために必要なことであり、日々を必死に生きている生活の証そのものです。この事を思いながら本日箇所を見ていきましょう。

 36節、「群衆が通って行くのを耳にして、『これは、いったい何事ですか』と尋ねた。」とあります。今日では社会福祉も進んでおり、社会の福祉体制も種々整っていると思いますが、この目の見えない人は、健常な普通の人以上に周囲に気を遣い、種々配慮ながら生きていたことでしょう。
 この日も、道端に座って物乞いをしていたとき、群衆が近くを通り過ぎるのを聞き分けて、「これはいったい何事か」と周りの人に問いかけたのです。この時期は本書22章にありますように、過越の祭りが近づいていた時期ですから、たぶん通りには多くの人が行き交っていたのではないかと思います。

 37節に入ります。目が見えない人の問いかけに対して、人々は「ナザレのイエスのお通りだ。」と知らせた、とあります。
 そのときの、目の見えない人の問い「これはいったい何事ですか」に対して、人々が知らせた言葉にある「ナザレのイエス」という表現には、主イエスに対する何の尊敬も信仰の心も表現されていません。それは“何処どこの誰だ”位の意味です。

 しかしその後、目が見えない人が発し叫び続けた言葉は、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください。」でした。
 この「ダビデの子イエス」という言葉は、本来は「ダビデの子なる王」と言う意味の言葉でもあった、と言われています。これは、イスラエルの民がその時代に、“政治的メシア”の到来を待ち望んでいたことを表しております。
以上の言葉の遣り取りから、私は当時のイスラエルの歴史を思いました。

 では、その後の38節、39節から見ていきましょう。
 人々はこの目の見えない人を黙らせようとしましたが、この人はますます「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けました。この目が見えない人は、周りの人が叱りつけるのを素直に聞き入れて、叫ぶのを止めようとはしませんでした。この人は“チャンス到来”とばかり、叫び続けたのです。また、彼の叫びの言葉からは、普段から主イエスのことを知っていたのかもしれません。もしかしたら、主イエスを信じていた人だったのかもしれません。
 わたしたちも、このように、自分の人生において、またとないチャンスが来たと思わされる時には、あまり恰好をつけずに、また、周りの人にも遠慮せずに、そのチャンスを的確に捉えることが必要です。そのことをわたしたちは心掛けておきましょう。

 次の40節、41節を見ましょう。「イエスは立ち止まって、盲人をそばに連れて来るように命じられた。彼が近づくと、イエスはお尋ねになった。『何をして欲しいのか。』盲人は、『主よ、目が見えるようになりたいのです』と言った。」とあります。

 この二節には、主イエスを中心に起こった出来ごとの要点が簡潔に記されています。以下にその要点をまとめます。
①「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と、その盲人の叫びが続いた。
②すると、イエスは立ち止まって、盲人をそばに連れて来るように命じられた。
③その盲人が近づくと、イエスはその盲人に「何をしてほしいのか。」とお尋ねになった。
④すると、その盲人はイエスに「主よ、目が見えるようになりたいのです。」と自分の願いを必死にお伝えした。

 そして、いよいよイエスの癒しのわざが始まります。
次の42節には「そこで、イエスは言われた。『見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。』」とイエスの言葉があり、続いて43節に「盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従った。これを見た民衆は、こぞって神を賛美した。」とあります。

 ではここで、主イエスが癒しのわざをなさった時の出来事から考えてみましょう。
 主イエスは何時も、病の人の癒しをされる時、始めにその人の信仰を確認されます。今回もまず本人に向かって「何をしてほしいのか」との問いを発して、その人が、信仰的にその病をどう考えているのか。正しい信仰を持っているか否かを確認されているのです。
 主イエスは決して医者ではありません。医者ではなく、神の福音の教師なのです。
また、先の病の人の癒しのわざも、その福音伝道のための一環として、主イエスがなさっているわざなのです。

 以上、この二節の遣り取りについて要点をまとめます。
41節では、主イエスから、その盲人の病に対する願いの確認と、その人の信仰の確認、の二点が行われています。
42節では、その確認の結果に基づいて、主イエスの癒しのわざが実行されています。
その実行とは「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」でした。

 では、主イエスが行われた、癒しのわざの結果を見てみましょう。
43節に「盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従った。」とあります。本当にめでたしめでたしです。わたしたちも、この記事を読みますと、ほっとさせられます。
 およそ、人間の病が癒される、元の通りになる、ということは、万人に共通の喜びの出来事です。そのような“病の癒し”の記事を読む時には、病の癒しを喜ぶと同時に、もう一つ大事なことがあります。そのことを聖書には必ず、癒しの結果と同時に記されています。その言葉は42節で、「あなたの信仰があなたを救った。」という言葉です。

 主イエスは医者ではありません。主イエスがなさる病の癒しは、その人が神を信じる信仰が土台となっているのです。ですから、聖書において主イエスが癒しのわざをなさった直後には必ず「あなたの信仰があなたを救った」と記されているのです。
 このことを、わたしたちはよく覚えていたいと思います。わたしたちキリスト者にとっては、何時も信仰に基づく考え方、そしてものの見方をしていくことが大切です。