2026年1月4日(主日)
主日礼拝『 新年礼拝・主の晩餐 』
エレミヤ書 4章1~4節
牧師 常廣 澄子
皆さま、新年明けましておめでとうございます。
こうして新しい年を迎えて新年の礼拝ができますことを感謝し、これからの一年もどうか主に助けられ、導かれて歩んで行けますようにと心から願っております。
この頃は一年の始まりから終わりまでがあまりに速く過ぎていくので、年頭に掲げる「今年の目標」とか「今年の抱負」とかいうものがだんだん姿を消していきつつあるように思います。しかし新しい年になって街の中が華やぎ、年の始めの行事を見聞きすると、何か新鮮な感じがするのも事実です。皆さまは新しい年に何か期待することを考えておられるでしょうか。どうぞそのお気持ちを大事になさって良い一年になさっていってください。
私たちは今年も、日々神との出会いと交わりに生きる民として招かれています。本日の新年礼拝に選んだ聖書箇所はエレミヤ書ですが、「悲しみの預言者」と言われ、孤独の淵にたたずみ、一人泣く涙の味を知っているエレミヤの言葉や証しを通して、私たちに対する生ける神の語りかけを聞き、信仰の歩みを堅くしていきたいと願っております。
前回お話したことと同様、この個所でも、エレミヤはイスラエルの民に悔い改めて真の神に立ち帰ることを求めています。エレミヤだけでなく旧約聖書の預言者は皆、その時の政治を批判し、指導者を批判しました。そればかりでなく、その社会を批判し、その民を批判して改心を呼びかけていますが、中でもエレミヤはとりわけその迫り方が強かったようです。神が約束されたカナンの地にたどり着いたイスラエルの民は、エジプトからの旅を導き上ってくれた真の神を忘れて、カナンの土地の偶像の神に心惹かれていきました。ですからイスラエルの民が改心するということは、人間の行為や生活の問題であると同時に、彼らの心の問題であり、一人ひとりの信仰に関することでした。
ですからその改心は、政治や経済の改革とか、宗教上の儀式や制度の改革というよりも、個人個人の生活が問題になってきます。個人の心が改まらない限り、国全体が改まることはあり得ません。3節にある「4:3 まことに、主はユダの人、エルサレムの人に 向かって、こう言われる。『あなたたちの耕作地を開拓せよ。茨の中に種を蒔くな。』」という言葉がそのことを語っています。「あなたたちの耕作地を開拓せよ」という箇所は、口語訳聖書では「あなたがたの新田を耕せ」というように訳されています。エレミヤは、郷里のアナトトで農夫が畑を耕す様子を見ていて、そのように譬えたのでしょう。「新田」というのは、雑草の生えた、ことに茨の多い新地のことです。この様な土地がパレスチナには多くあり、そこを開墾するためには地中深く鍬を入れなければなりませんでした。適当に耕して種を蒔いても芽は出ませんから、種を損するだけだったのです。「茨の中に種を蒔くな」とはそのことを言っています。その労働がいかに困難で、辛抱強い精神を必要とするかは、創世記3章17-19節に、エデンの園を負われたアダムが、茨とあざみの生えた土地を耕して、顔に汗を流してパンを得る労働として書かれています。つまり、種を蒔くには、先ず茨を取り除き、土地を掘り起こし、土の塊を砕かねばならないように、イスラエルの民は自分たちの心を掘り起こし、頑固な心を砕き、神の言葉を素直に聞ける状態にしなさいという主の言葉です。
またエレミヤは、人間が徹底的に改心することを、「4:4 ユダの人、エルサレムに住む人々よ 割礼を受けて主のものとなり あなたたちの心の包皮を取り去れ。」と言っています。「心の包皮」とは、口語訳聖書では「心の前の皮」というように訳されています。これは言うまでもなく、割礼のことで、ユダヤ人の男子として生まれた者が八日目に行う儀式のことです。ここでエレミヤが語っている割礼は、単なる儀式上の肉体的なものだけでは不十分で、誰にも見えない「心の皮」が破られなければならないと語っているのです。この表現は申命記10章16節に「心の包皮を切り捨てよ。二度とかたくなになってはならない。」とあるように、頑なで強情な心を取り去り、鈍麻してしまった感覚を回復して敏感さを取り戻すという意味合いを含んでいます。今の私たちも同様です。神への信仰に目覚めた頃の私たちは、真剣に御言葉を読み、その一言一言に感動しました。私たちはそのことを思い起こし、生ける神の言葉に対する感性を回復して、神と親しく豊かな関係の中にいなければならないのです。もしそうしないならば、神の怒りの火が、いつまでもイスラエルに対して燃え広がるのだ、と語っています。「4:4さもなければ、あなたたちの悪行のゆえに わたしの怒りは火のように発して燃え広がり 消す者はないであろう。」
このように、「耕作地を開拓せよ(新田を耕せ)」とか「心の包皮を取りされ(心の前の皮を取りされ)」と語っているエレミヤの真意は、イスラエルの民が彼らの神ヤーウェのもとに立ち帰るということに他なりません。改心とは方向転換です。もう一度神の元に戻って出発しなおすことです。イスラエルの歴史の危機であるこの時、もう一度その出発点である神のもとに立ち帰れ、とエレミヤは語っているのです。問題はその心です。心の中が純粋であるか否かです。当時イスラエルの民は、形だけユダヤの神殿に行ってヤーウェの神を礼拝していれば、並行してカナンの偶像神を拝むことは何ら差し支えないであろうと考え、自分たちは何も罪を犯していないと強弁していました。しかし、そのようなイスラエルの民に向かって、エレミヤは神の怒りが速やかに来ると預言したのです。
ところで、私たちもまた新しい年を迎えた今、自分自身の信仰を顧みて新しい出発をしなければならないのではないでしょうか。そのためにはまず自分自身と対話し、自分を見出さなくてはなりません。私たちは自分自身を知っているでしょうか。私たちが自分を正しく理解したいならば、私を造ってくださった創造者、また救済者である神との対話が欠かせません。エレミヤが語った「新田を耕せ」というのは、そのこと語っています。先ずは自分の心を深く探って自分を知ることから始まるのです。
私たち人間は、ともすれば日々変化する時代の流れに飲み込まれ、周囲に埋没してしまいます。そしてそれが一番気楽で平和で幸福だと思うようになります。しかし、私たちの信じる神は、私たちを自分だけの安寧を求める者とはせず、隣人や社会と対話させようとしています。それがどこから起こって来るのかと言えば、私たちが毎日祈る神との対話からです。天地の創造者、歴史の支配者、人間一人ひとりの個人的な神であられるお方は、私たち一人ひとりを大事にされると共に、人類全体の事を考えておられる神なのです。
旧約聖書に出て来る多くの預言者の中でも、エレミヤは特に「一人」という言葉に力を入れ、一人を大事にした預言者です。5章1節で「5:1 エルサレムの通りを巡り よく見て、悟るがよい。広場で尋ねてみよ、ひとりでもいるか 正義を行い、真実を求める者が。いれば、わたしはエルサレムを赦そう。」ここには、エルサレムに一人でも義人(ここでは正義を行い、真実を求める者)がいるならば、エルサレム全体が救われると言っています。また、2節で「4:2 もし、あなたが真実と公平と正義をもって 『主は生きておられる』と誓うなら 諸国の民は、あなたを通して祝福を受け あなたを誇りとする。」と、一人の信仰が、諸国の民全体の祝福になるのだと語っています。
エレミヤが活動していた時代、イスラエルの人たちの信仰は、異教の神々に心惹かれて、道徳的にも非常に堕落していました。しかもその頃は歴史的にもイスラエルの危機だったのです。1章13節以下では「煮えたぎる鍋が北から傾いている幻」という予告がありました。6章の冒頭でも災いと破壊が北から迫っていることが語られています。本日はお読みしませんでしたが、4章5節以下で、エレミヤはイスラエルの人々に、「北からの災い」を告げて、様々な警告の言葉を発しています。「剣が喉もとに突きつけられている」(10節)「山々の熱風が吹きつける」(11節)「激しい風が吹きつける」(12節)「「雲のように攻め上る」「その戦車はつむじ風のよう」「その馬は鷲よりも速い」(13節)「戦いの喚声をあげ」(16節)「角笛の響き、鬨の声を聞く」(19節)等々。それらは6節にあるように、「北からの災い」を指しているのです。
「北」という言葉が何を指しているかについては、スキタイ人やバビロニアといった具体的な敵を想定することもできますが、聖書ではあえてそれを特定していません。しかし「北」という言葉には「諸国の民を滅ぼすもの」といった象徴的な意味があり、「北」が「神の激しい怒り」を現わすものであることは間違いありません。「北からの敵」という言葉は、単に古代近東世界の政治勢力を指すだけではなく、「神の裁きの道具」と言う意味で理解されていたのです。
神から託された預言の言葉を語りながら、エレミヤの心は愛する国土が「北からの敵」の襲来によって蹂躙されることを思うと断腸の思いでした。エレミヤは声の限りに叫んで国民を偶像礼拝の罪から立ち返らせようと必死に働きました。イスラエルの腐敗や堕落をそのままに捨てて置いてよいものではないと、エレミヤは痛切に感じていたのです。しかし、イスラエルの民は彼の預言を一笑に附して言いました。5章にはこのように書かれています。「5:12 彼らは主を拒んで言う。『主は何もなさらない。我々に災いが臨むはずがない。剣も飢饉も起こりはしない。 5:13 預言者の言葉はむなしくなる。《このようなことが起こる》と言っても 実現はしない。』」と。
さてその結果はどうだったでしょうか。このエレミヤの「北からの災い」についての預言は、幸か不幸かそのようには実現しませんでした。恐れられた北からの敵スクテヤ人は、実際南下してきて、ユダヤの国土から遠い海沿いの道をエジプト国境まで達しましたが、そのままもと来た道を引き返して北上し、自分の国に帰ってしまったのです。これはその敵国内の政治的な出来事があったためでしたが、そのためにイスラエルの民は襲撃と略奪を免れたのです。エレミヤの大敗北でした。国民は彼を嘲笑いました。偽預言者だと言って嘲弄しました。エレミヤは預言者としての権威も失ったほどでした。
しかし、エレミヤはこの時、イスラエルの国の危機を切実に感じとったのです。エレミヤは神の声を聞きました。その言葉が5章1節以下に書かれている神の命令です。「エルサレムの通りを巡り、よく見て、悟るがよい。広場で尋ねてみよ、ひとりでもいるか、正義を行い、真実を求める者が。」何のためにエルサレムの通りを巡るかと言えば、一人の正義を行い、真実を求める者を探すためです。神は公平なお方です。ですから不正をそのままにしておくわけにはいかないのです。イスラエルの民は罪と腐敗の中で眠っていてはならないという神の愛から出た言葉です。これらの預言の言葉は、神の審きというよりもその赦しに重点が置かれています。たとえ大多数の者が堕落していたとしても、一人の義人、一人の真実な者がいるならば、全体が赦され救われるであろうという、考えられないくらい寛大な神の愛の言葉なのです。なぜならば私たちが信じている神は、すべての人が悔い改めて神のもとに立ち帰っていくことを待っておられる真の愛の神だからです。