徴税人ザアカイ

2026年1月18日(主日)
主日礼拝
ルカによる福音書 19章1~10節
牧師 永田 邦夫

 本日も皆さんとご一緒にルカによる福音書からのメッセージをお聞きしていきましょう。
主なる神、そして主イエスさまからの多くの恵み、そして力をいただいて、主の尊いお働きに加えていただいていることに、わたくしは改めて感謝したいと思います。

 さて、この箇所の冒頭19章1節には「イエスはエリコに入り、町を通っておられた。」とあります。この1節の言葉の根拠となっています、主イエスの旅は、どのような旅で、その途上にあったのでしょうか、このことを先ず確認してから、本日箇所に入って参りましょう。

 先ず、ルカによる福音書9章51節には「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。」とあります。このときの主イエスのエルサレムへ旅とは、エルサレムで待っている、主イエスの十字架の出来事を受け入れるための旅だったのです。

 このときの決意のお言葉とは、9章22節のお言葉です。今までこれは何回か語ってきましたが、もう一度確認しておきましょう。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」との、十字架と復活の予告のことです。

 主イエスはこの地上での働きで、御国の福音を伝えて来られましたが、最後は天の御国へと召される主イエスにとっては、このことがさらに大きな役割を果たすときでした。それはご自身の十字架の死と、その死からの復活によって、世のすべての人に、罪の赦しと、さらにそれを信じる人に対して、新しい命、復活の命を与えるという大きな役割を果たされるときなのです。

 そして、さらにもう一つ大切なことは、「〇〇することになっている」と記されているように、このことは、主イエスに対して御父なる神が定めてくださった、自分が果たすべき役割であることを、主イエスはいつも自覚されていたのです。

 そして主イエスが、弟子たち始め世の人々に伝えられた、ご自身の十字架と復活についての予告は、都合三回にわたってなされました。それほどにこのことは、主イエスにとって重要なことを表しています。一般のことわざ(ないし格言)に「〇〇の顔も三度まで」とありますが、人が同じことを三度繰り返すということは、「それほどに大切なことである」ということを表しています。わたしたちも感謝をもって、このことを受け入れていきたいと願っております。

 では、本日の説教箇所19章へと戻ります。その19章1節にありますエリコの町とは、エルサレムから一日路にあり、さらに死海にも通じていて、約10数キロにある町です。また、このエリコの町は歴史的に見ますと、モーセに率いられて出エジプトを果たしたイスラエルの民が、ヨシュアによって初めてカナンの地に入植したのが、このエリコだったのです。(ヨシュア記2章~4章から)

 次の2節を見ていきましょう。「そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で金持ちであった。」と、ここにはザアカイについての簡単な紹介だけありますが、詳しいことは何も記されていません。

 参考までに、「ザアカイ」という名前の人について、旧約聖書のエズラ記の2章9節を見ますと、バビロン捕囚からエルサレムに帰還して来た人々の名簿があって、その名簿の中に「ザカイの一族、七百六十人」との記載がありまして、このザカイ一族の末裔(まつえい)が本日個所に出て来るザアカイであり、さらに「このザアカイは生粋のユダヤ人であることも示している」と、ある神学者のコメントもありますので紹介しておきます。

 この徴税人であるザアカイという人物について3節から見ていきましょう。「イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。」とあります。ここで、“背が低かった”とはもちろんザアカイのことです。彼はとっさの判断で4節にありますように「それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った、そこを(主イエスが)通り過ぎようとしておられたからである。」とあります。

 このときのザアカイは恥も外聞もなく、自分が背が低いことを考えて、走って先回りをし、そして、たまたまそこにあったいちじく桑の木に登ったのです。
人はいざという時に、いろいろと知恵が働くものです。またそんなときは、恥や外聞も体裁も考えません。これが大事です。目の前のことを一途に考えて実行に移すことによって、それが実現されていくことを本日箇所から教えられました。

 今日の教会の働きにおきましても、このことは大切なことです。今日の世界は、多文化、多民族、そしていろいろな考え方が錯綜しております。その中から、そのとき必要なもの適切に選び取っていかなければならないことを、この4節から教えられます。

 次の5節に入ります。「イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。『ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。』」とあります。このときザアカイは、町をお通りになる主イエスを一目見たい一心で、恥や外聞を一切捨てて近くにあった木に登り、主イエスを一目見ようと努力したのです。

 そのときのザアカイは、主イエスを見ることが出来たか否か、聖書には一切記されておりませんが、ザアカイの人目など一切気にしないその努力が報いられ、きっとザアカイは主イエスを見ることが出来たのだとわたくしは思います。そうでないとザアカイが気の毒です。

 以上のことは、今日のわたくしたちの教会の運営においても大変参考になります。教会の運営においては、現実に抱えている問題のこと、経済的なこと、法律や規則上のことなどいろいろなことを考慮しながら、最善の選択をしていかなければなりません。でもここで大切なこと、それは、皆が協力しながら、教会が一致団結してそのことに当たることです。そしてそこで最も大切なことは、先ず主なる神に祈ることです。わたくしたちの特権である、主なる神に祈ることによって、神は必ず善い知恵を与えてくださると信じます。

 このとき、ザアカイは急いで木から降りて来て、主イエスを家に迎え入れましたが、案の定、このとき、これを見ていた人たちは皆つぶやいたのです。(聖書には何の記載もありませんが、多分ここにも例のファリサイ派の人たちがいたことでしょう。)
7節に「これを見た人たちは皆つぶやいた。『あの人は罪深い男のところに行って宿を取った。』」とあります。

 次の8節、このときザアカイは毅然として、このつぶやきに立ち向かって行きました。
「しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。『主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだましとっていたら、それを四倍にして返します。』」とです。このときのザアカイの力強い言葉、そしてザアカイの変わりように、全く驚かされます。今までは私利私欲に動かされて行動してきたザアカイだったと思いますが、ここで彼は財産を貧しい人々に施すと言っています。
 主イエスに出会った時、その心や生き方は、大きく変えられたのです。それはザアカイの今までの生き方や考え方が、神の御心ではなかったと気付かされたからです。この時、ザアカイが変えられたように、わたくしたちも、それぞれ自分自身を吟味し、今ままでの考え方や生き方を神の御心に適うように祈っていきましょう。そして改めるべきことは改めながら、生きていきたいと思います。

 どんな弱い人でも、また困難を抱えている人でも、主イエス信じ、そして主イエスによって力をいただいている人は、その力によって、全く変えられます。このことは、日常わたくしたちが良く経験させられることです。そのような変化に遭遇するのは、わたくしたち自身であったり、また、周りの人であったりします。
 わたくしたちの志村教会におきましても、自分自身がそうであるように、高齢化していたり、その他の困難を抱えている方々がたくさんおられます。そのようなわたくしたちは、先ずみんなで力を合わせて、主なる神に祈ることから始めましょう。祈ることによってまた、新たな力を頂くことが出来ると信じます。

 このとき主イエスが言われました。9節「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。」とです。ここで「アブラハムの子」というのは、同じように神によって選ばれたイスラエルの民である、ということです。そして「選ばれたイスラエルの民」とは人種的なことではなく、同じようにヤハウェの神を信じている民であるということです。

 10節「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」
ここで主イエスは、わたくしたち一人ひとりを救うために来られたことをはっきり語っておられます。この言葉を受けて、わたくしたちもまた神から捜し出された存在であることを感謝して生きていきましょう。
 わたくしたちは、これからも主なる神から力と勇気とをいただいて、同じキリストにある者同士が協力しつつ、教会のため、この世界のために、力強く、共に生きて参りましょう。