主が帰り給うときまで

2026年2月1日(主日)
主日礼拝『 主の晩餐 』
ルカによる福音書 19章11~27節
牧師 永田 邦夫

 本日も皆さんと共に、ルカによる福音書からのメッセージをお聞きして参りましょう。
 本日の説教箇所の冒頭、19章11節には「人々がこれらのことに聞き入っているとき、イエスは更に一つのたとえを話された。エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたからである。」とあります。
 ここで、「人々がこれらのことに聞き入っているとき」とは直前の段落の、徴税人ザアカイの話のことです。また、「イエスは更に一つのたとえを話された」とは、本日の聖書箇所で伝えようとしている中心的なメッセージで、その内容は、本日箇所の冒頭に「ムナ」のたとえ、という小見出しがついています。 

 さらに、この11節で重要なことを二つ、先に確認しておきましょう。
 その一つ目は、「このとき主イエスは、エルサレムに近づいておられた」ということです。これに関しては今までにも繰り返しお伝えしてきました。本書9章51節に「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かわれる決意を固められた。」とあり、その決意に従っての旅のことです。そして、本日箇所は、目的地であるエルサレムに近づいておられたときのことです。

 二つ目は、「人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていた」ということです。
これについては、主イエスがガリラヤでの福音伝道においても、また、その後の伝道においても、神の国の到来について、再三お伝えして来られたのです。人々もこのことを聞いてきて、主イエスが現在エルサレムに向かう旅の途上におられることと重ね合わせながら、「御国の到来が近い」という期待を強めたとしても不思議ではありません。

 次は12節13節に入ります。ここは、本日の中心箇所です。“イエスは言われた。「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった。そこで彼は、十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し、『わたしが帰ってくるまで、これで商売をしなさい』と言った。」”とあります。  

 十人の僕に十ムナを渡したということは、一人当たり一ムナずつとなります。因みに、一ムナの金額とは、当時の100日分の労働賃金に相当すると言われていますので、現在の金額に換算し、一日分の賃金を1万円と仮定すると、一人当たり100万円ずつ預けたことになります。これは、かなりの金額であることが分かります。

 続く14節を見ていきましょう。ここは、先の12節、13節とも関連し、当時の世情を表している逸話です。その逸話とは、ある立派な家柄の人で、王位を受けるために、遠い国へと旅立った、とのイントロに続いて、その人の留守中に起こったことが記されています。
 彼が所属する本国の人は、彼が国の支配者である王位に就くことを快く思っていませんでした。快く、どころか彼を憎んでいたので、後から使者を送り、王位への就任について反対を言わせた、とあります。(これは歴史上実際にあった出来ごとだと言われますが、詳しいことは省略します。)

 ある立派な家柄の人が、王位を受けるために旅立つに際して、僕十人に夫々一ムナずつ渡し、「わたしが帰ってくるまで、これで商売をしなさい。」と命令して旅立ったのです。これで商売をせよとの命令は、「これを最大限に用いて商売をし、さらに利益をあげておきなさい。」ということです。しかし、前述のごとく、人々が彼を憎んでいたこともあり、その商売がうまくいくかどうかは、極めて疑問です。

 15節以降では、その主人が王位を受けて帰国した後のことが記されています。主人は、王位を受けて帰国後、その僕たちに預けた一ムナをどのように用いて利益を上げたか、三人の僕を次々に呼んで報告させました。

その報告が以下の通りです(簡潔に記します)。
(1) 第一の人:預かった一ムナで十ムナを儲けました。(16節、17節)
(2) 第二の人:預かった一ムナで五ムナを儲けました。(18節、19節)
(3) 第三の人:その報告の言葉は「御主人様、これがあなたの一ムナです。布に包んでしまっておきました。あなたは預けないものも取り立て,蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです。」です(20節~24節) 

 以上、三人から報告を受けた主人が、その後三人に対しとった処遇が次の通りです。
 第一の人に対しては、「良い僕だ、よくやった。お前はごく小さなことに忠実だったから、十の町の支配権を授けよう。」とのお褒めの言葉をいただきました。このときの僕の気持ちは何も記されていませんが、さぞ嬉しかったことでしょう。

 第二の人も、先の人とほとんど同じです。一ムナを用いて五ムナの利益をあげた人に対しては「お前は五つの町を治めよ」と言った、とあります。ここで注目したいのは、第一の人(一ムナで十ムナの利益をあげた人)への処遇と、第二の人(一ムナで五ムナの利益をあげた人)への処遇を比べて、決して、二番目の人の方が努力が足りない、とか、その能力が低い、というのではなく、人それぞれ初めから持っている能力や、置かれた環境が違う、ということを考慮しなくてはなりません。そのことを主人は初めから認めていたのです。

 以上のことを考慮しながら、主人は十ムナの利益をあげた人には、十の町を治めさせ、五ムナの利益をあげた人には五つの町を治めさせたのです。

 再度確認しますと、このたとえ話は、主イエスがエルサレムに近づいておられた時に、話されたことであって、これを聞いている人々も、神の国はすぐにも現れるものと思って聞いていたことでしょう。
勿論、このたとえ話に出て来る、「主人」と「僕」とは、それぞれ、「主なる神」、また「主イエス」を表し、僕とは、世の「すべての人」を表しているのです。

 主イエスは、既に地上のご生涯を終えられて、御国で神のもとにいらっしゃいますが、やがて神の国が完成するとき、再臨の主として、再びわたしたちのもとに来られることを、わたしたちに約束してくださっています。では、再臨の主イエスが再び世に来られたとき、どんなことが起こるのかを確認しておきましょう。

 再臨の主は、わたしたち夫々が神からお預かりした賜物を、どのように活かして用いたか、そしてどのような成果をあげてきたか、わたしたちの報告を期待し、かつ、待っておられるのです。わたしたちは、このことを確りと肝に銘じながら、この世での生を、命を精一杯生きていきたいと願っています。

 ここで、先に例にあげました、第三の人すなわち、「御主人様、これがあなたの一ムナです。布に包んでしまっておきました。あなたは預けないものまで取り立て,蒔かないものまで刈り取られる厳しい方なので云々と、」と答えた人のことに触れておきましょう。
 この第三の人が、主人に伝えた言葉そのものは、一理あるかも知れません。しかし彼は、主人のことを全く信頼していなかったのです。主人が自分に何を期待しておられたのか、預けたお金をどのように用いて欲しかったのか、全く考えていません。いわば“ダメ人間”の典型です。

 22節から24節に、第三の人に対して語られた主人の言葉があります。「主人は言った『悪い僕だ、その言葉のゆえにお前を裁こう。わたしが預けなかったものも取り立て,蒔かなかったものも刈り取る厳しい人間だと知っていたのか。ではなぜ、わたしの金を銀行に預けなかったのか。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きでそれを受け取れたのに。』そして、そばに立っている人々に言った。『その一ムナをこの男から取り上げて、十ムナ持っている者に与えよ』」とです。これは非常に厳しい言葉ですが、重要な言葉でもあります。

 それに対して25節から26節には、「僕たちが『御主人様、あの人は既に十ムナ持っています』と言うと、主人は言った。『言っておくが、だれでも持っている人は、更に与えられるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる。』」とあります。
 これはどういうことでしょうか。このご主人は何が言いたかったのでしょうか。このたとえ話は、今日のわたしたちに何を告げているのでしょうか、考えてみたいと思います。

 このとき主人が語った言葉は、今のわたしたちに求められている大切なことです。
主人とは、主なる神です。そして三人の僕とは、わたしたち全ての人を、端的に三つのグループに分けて、具体的に表しています。第一の人、第二の人は、それぞれに多少の違いこそあれ、神からいただいているその賜物を理解し、かつ大切に活用しながら、世の人々に仕えている人々のことです。わたしたちに与えられているのは、豊かな神の言葉です。日々み言葉をいただき、み言葉に養われている人は、そのみ言葉に支えられて生かされて、更に豊かな人生を歩んでいくと思います。

 重要なことは、わたしたちがそれぞれ神からいただいている能力や賜物を精一杯用いて世の人々に仕え、御国の福音伝道に励んでいるかが問われているのです。その求めにお応えしていくためには、先ず自分のことを率直に、ありのままを理解することから始まります。そしてさらにわたしたちが再臨の主イエスさまにお会いした時に、自分が歩んできた人生、また主なる神から預かった賜物を十分に活かして用いて来たかどうかを、胸を張って報告出来るでしょうか、この事を考えたいと思います。

 しかし、わたしたちには一方で、弱さもそれぞれにあります。その弱さを主なる神は、補ってくださり、さらに強めながら、力を与えてくださる神でもあります。その神に信頼し、感謝しながら、これからも皆で仕えて参りましょう。福音伝道のためにです。