2026年2月8日(主日)
主日礼拝『 誕生日祝福 』
ローマの信徒への手紙 8章31~39節
牧師 常廣 澄子
ローマの信徒への手紙は、手紙というよりもパウロの神学が語られている文書ですが、決して堅苦しい無味乾燥の書物ではありません。それはパウロが理性だけでなく情熱を込めて、全人格をもって書いているからです。手紙の大部分はもちろん論理的に書かれていますが、祈りや嘆きや歌も書かれています。今朝お読みした8章の最後の部分は、神の愛に感動したパウロが歌うように語っているところです。
「8:31a では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。」ここに書かれている「これらのこと」というのは、前回お話しした、8章18節以下で語られていた事柄です。とりわけ28節~30節「8:28 神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。8:29 神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。 8:30 神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。」ここに書かれていた「救いの完成の確信」を示しています。私たちが神を知る前に、神が私たちを知っておられ、キリストのみ姿に似せるために私たちを選ばれたとするならば、そのような大きな恵みに対して、私たちはどのように対応すればよいのでしょうか。パウロは私たちが神への信仰によって救われることは確実であって、最早疑うことも反対する理由も何もないと語っています。
その上で、「8:31bもし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。」という信仰の喜びの第一声をあげています。まずは神が私たちの味方であることは極めて明白です。神が私たちの味方であることの明らかな証拠は、神がご自分の御子をさえも惜しまないで、私たちすべての人間のために渡されたという事実です。天地の創り主であり支配者であられる神は、尊い御子をさえ惜しまずに、人間の救いのために手放されたのです。御子イエスは神の最大の宝物、分身、賜物です。その御子イエスをこの世に遣わし、十字架の死を遂げさせてまで、私たち人間を愛し救おうとされたお方、それが私たちが信じる神です。
その神が独り子なる御子をさえ惜しまずに、人間の救いのために手放されたというのであれば、このキリスト・イエスと一緒に、その他の必要なものをお与えにならないことがあるでしょうか。それに加えて万物をも与えてくださったことは当然のことだと言えます。そのことが32節に書かれています。「8:32 わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」とあるとおりです。万物は私たちのために神が備えてくださったものなのです。キリストを所有する者は彼と共に万物をも所有しているのです。キリスト・イエスによって示された神の恵みを感謝し、そのことを深く悟っていくならば、その他の小さいことに不平を言う必要はなくなります。私たちは本当に小さく弱い存在ですが、神は大きくて強くあられます。私たちは無に等しい者であっても、神は無限大のお方です。それが神を味方とする者の強さです。それがわかってくると、最早私たちに敵するものは誰もいませんし、私たちを恐れさせるものもありません。
しかし、ここで私たちはしっかり自分たちの立場を確認しておかなくてはなりません。私たちキリストを信じる者たちはもともと罪人でした。罪を問われている者です。群がる敵は私たちの罪を探し出して告発し、葬り去ろうと待ち構えているのです。実際、初代教会時代、迫害に遭ったキリスト者たちは法廷に引き出されて尋問されたのです。しかし、今パウロがここで語っているのは、天上の神の法廷であり、裁判官は神です。そして神は私たちを義とされたお方です。神が私たちに罪を宣告されないことは、キリストが神の傍らにあって私たちのために執り成しておられることから明らかです。「8:33 だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。8:34 だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」
この33節に「神に選ばれた者たち」という句が出てきます。マタイによる福音書の22章14節には「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」とありますように、招かれる人とは、福音を聞き、福音に接する人のことであり、選ばれる人とは、福音を信じて受け入れる人のことです。そのように、「神に選ばれた者たち」つまり福音を信じて受け入れている人たちに対しては、誰も訴えることはできないのです。神の敵であるサタンも、内なる良心も、外部に連なる迫害者も、信仰者を責めることはできません。なぜならば神ご自身が信じる者の罪を赦し、その人を義と認めておられるからです。
まして「神に選ばれた者たち」を訴えて罪に定めることなど、誰にもできません。もしこの世に、生者と死者とを裁き得る人があるとしたら、それは、罪のないキリストただお一人ですが、そのキリストは私たちの罪のために十字架で死んでくださり、私たちを新しく生かすために復活されて、今は神の右に座して、私たちのために執り成しておられます。ですから、キリストを信じる者の罪が赦されているという確信を脅かし揺るがす者は、この世には誰ひとりいないのです。
この34節は、キリストについての教会の信仰告白です。キリスト・イエスは「死んで」「復活させられ」「神の右に座っておられ」「わたしたちのために執り成していてくださる」お方です。このキリスト・イエスが執り成していてくださることほど、私たちの救いに対する有効な保証はありません。キリストを信じる者は、キリストの愛に支えられて、この信仰の土台の上に立って生きているのです。この愛と真実の信仰の土台に立っているならば、私たちはどこまでも安全です。
これら一連の恵みの約束を踏まえて、パウロは大胆な問いを投げかけます。「8:35 だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。」
このところのパウロの論法は、立て板に水を流すかのように、よどみなく語られています。パウロはまず31節で、「だれが私たちに敵対できますか」と問いかけました。続いて33節では、「だれが私たちを訴えるのでしょう」と言い、その次の34節では、「だれが私たちを罪に定めることができましょうか」と尋ねた後、最後に来て、「だれが、キリストの愛から私たちを引き離すことができましょう」いったい誰が、このように素晴らしいキリストの愛からわたしたちを引き離すことができるでしょうか、とたたみかけて質問し、考えさせているのです。
ここでいう「キリストの愛」とは、キリストに対する私たちの愛ではなく、私たちに対するキリストの愛です。私たちが神を知らず、神に敵対している罪人であった時に、私たちを救うために十字架の苦しみを忍ばれたキリストの愛です。この愛を知った者はもはやキリストの愛から離れることはできません。この愛は、私たちがどんなにそこから離れようとしても私たちを離さないからです。
普通一般の人間関係は、もしそこに何か困難や問題が発生すると、その関係は破綻し、破れ、壊れてしまいます。しかし、キリストと私たちの関係は、そこに何が起ころうとも、キリストの愛から私たちを引き離すものはどこにもないのです。この35節には「艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。」というように具体的な語りかけがありますが、これらはたぶんパウロが体験した出来事の一部ではないでしょうか。コリントの信徒への手紙二11章23-28節には、復活のイエスに出会って福音のために生きるようになったパウロが遭遇した苦難の数々が書かれていますが、すさまじいまでの迫害と困難に満ちた人生です。しかし、キリスト者にとっての恵みは、外から襲い掛かる苦しみも、内から湧き上がる悩みも、信仰のために受ける迫害も、それらに伴う食物の不足や衣服の欠乏も、命の危険とか殉教の死さえも、キリストの愛から私たちを引き離すことはできないということなのです。それらは私たちの持ち物や地位や名誉や、肉体の命を奪うことはできるかもしれませんが、キリストの愛から私たちを引き離すことはできないのです。反対者や迫害者は私たちのものを奪うだけで、私たち自身の魂や心はどうすることもできません。愛によってキリストに結ばれた魂は永遠に生きるのです。新生讃美歌538番4節でマルチン・ルターは歌っています。「わが命も わが宝も 取らば取りね 神の国は なお我れにあり」
36節で、パウロは詩編44編22節の御言葉を引用しています。「8:36 『わたしたちは、あなたのために 一日中死にさらされ、 屠られる羊のように見られている』と書いてあるとおりです。」この詩編で詩人が歌っているのは、たぶんキリストの苦難についての預言の意味があるのでしょうが、キリストの苦難は同時に信徒の苦難でもあります。私たちもまた神のため、キリストのためにいつ殺されるかもわからないような危険な状態に追いやられることがあります。あるいはそういう苦難を受けるのがキリスト者の定めといえるのかもしれません。そういうことを語りながら、パウロは大胆に言い切るのです。「8:37 しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。」この「輝かしい勝利を収めています。」というところは、口語訳聖書では「勝ち得て余りがある。」という訳になっています。自分自身の力によってではなく、「わたしたちを愛してくださる方によって」勝利するだけでなく、それ以上の恵みが与えられるのだということです。
ここにある「わたしたちを愛してくださる方」がイエス・キリストであることは言うまでもありません。信仰者が勝利するのは、その人自身の力によるのではなく、キリストの力によるのです。
そしてキリストの力に与るためには、自分の力を空しくしなければなりません。けれども、自分は強いと思っている人は、キリストの力を祈り求めたり、キリストの力に頼ることをしませんから、キリストによる勝利を得ることはできません。自分の弱さを知り、キリストの力を受ける人だけが勝利を得るのです。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。」(コリントの信徒への手紙二12章9節)というパウロの逆説的な表現を思い出します。
このようにキリストの愛を知った者は、どんな時にも勝利を得ることができます。その勝利は私たち自身の力によるのではなく、キリストの力によるのです。「8:38 わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、8:39 高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」
この圧倒的な神の愛を知ることが、信仰生活における勝利の秘訣です。他の宗教や道徳的な教えでは、努力して自分の力を拡大するか、自分の力に神仏の力を加えて、罪や欲望に打ち勝とうとします。しかしキリストの愛を信じる私たちは、自分の弱さを知ってキリストの力を受ける時に、勝利を得ることができるのです。私たちが弱い時に神は強く、私たちが空しくなる時に、神はすべてのすべてとして大きく立ち上がってくださるからです。神の勝利は自分の弱さがわかる人に与えられるのです。これがキリストを信じる者の強さでもあります。キリストの愛を信じて自然体で生きていくならば、苦難をも耐え忍び、笑顔をもって死に臨むことができることでしょう。それは、キリストによって苦難や死を超えた命が与えられるからです。新しい週もこの圧倒的なキリストの愛を信じて歩んでまいりたいと願っております。