2026年2月15日(主日)
主日礼拝
エレミヤ書 6章13~17節
牧師 常廣 澄子
エレミヤ書はイスラエル民族の歴史に深く根差した預言書ですが、それら預言の言葉は過ぎ去った歴史に埋もれてしまって、死んだ文書になってしまったのではありません。エレミヤ書は、紀元前6世紀頃、滅びの坂を転げ落ちるようにして国を失い、故郷を失い、神の約束を見失ってさまよっているイスラエルの民に対して、忍耐強く語りかける神がおられたことを証しているのです。そしてその言葉は、時を超えて今に至るまで、現実世界に生きている私たち一人ひとりに、生きた言葉として語りかけています。
エレミヤは繰り返して、北からの災いについて預言し、エルサレムの市民に向かって避難を勧告しました。6章1-2節にはこのように書かれています。「ベニヤミンの人々よ エルサレムの中から避難せよ。テコアで角笛を吹き鳴らし ベト・ケレムに向かってのろしを上げよ。災いと大いなる破壊が北から迫っている。美しく、快楽になれた女、娘シオンよ わたしはお前を滅ぼす。」と。
エレミヤは、神の怒りがこのエルサレムの町に注がれていることを伝えて警告するのですが、彼らはそれに対して耳を閉ざし、聞こうとはしません。10-12節にはこのように書かれています。「6:10 誰に向かって語り、警告すれば 聞き入れるのだろうか。見よ、彼らの耳は無割礼で 耳を傾けることができない。見よ、主の言葉が彼らに臨んでも それを侮り、受け入れようとしない。6:11 主の怒りでわたしは満たされ それに耐えることに疲れ果てた。『それを注ぎ出せ 通りにいる幼子、若者の集いに。男も女も、長老も年寄りも必ず捕らえられる。6:12 家も畑も妻もすべて他人の手に渡る。この国に住む者に対して わたしが手を伸ばすからだ』と主は言われる。」エレミヤを通して民に語りかけている神でさえも、彼らの心の頑固さ、かたくなさにあきれ、その罪や悪を忍耐する限界に近づいているかのようです。
エレミヤが彼らを攻撃する言葉は次第に激しくなり、その矛先は預言者や祭司たちに集中していきます。「6:13身分の低い者から高い者に至るまで 皆、利をむさぼり 預言者から祭司に至るまで皆、欺く。6:14 彼らは、わが民の破滅を手軽に治療して 平和がないのに、『平和、平和』と言う。」
神殿に仕える祭司たちや神の言葉を語る預言者たちは、本来、民を正しく指導すべき立場にあるにも関わらず、その語っていることや行っていることは、民を欺いて自分たちに利益が舞い込むような行動であり、偽りに満ちていたのです。すなわち、国の一大危機ともいえるこのような時期においてさえも、民が破滅するという預言を軽く見なして、その目を反らし、平和がないにも関わらず、「平和だ、平和だ」と言って、彼らの心を眠らせていたのです。預言者や祭司たちの役目は、人々の目を覚まさせることにあるのですが、彼らが行っていることはまさにその反対でした。
6章14節の言葉は、8章11節にも出てきます。ここにある「手軽に」という訳は、「少し」「ちょっと」というくらいの意味です。それは表面をとり繕っているだけの言葉であって、実質が伴わないということです。彼らが言う平和は、本当の平和ではなく、偽りの平和だったのです。以前にも述べてきましたように、エレミヤ書では、偽りの預言者に対する批判は非常に厳しく、それが繰り返されているのですが、エレミヤ自身は民に対して楽観的なことを伝えるよりも、伝えるのをためらうような災いを預言してこそ真の預言者というべきであると考えていたようです。また、平和を預言する場合には、もしそれが実現しないならば、やはり偽りの預言者とされました。28章9節に「平和を預言する者は、その言葉が成就するとき初めて、まことに主が遣わされた預言者であることが分かる。」とありますが、偽りの預言者が語る言葉が実現することは、到底あり得ませんでした。
エルサレムの民は、今や民族の歴史の分岐点「分かれ道」に立っています。真の預言者に聞くべきか、あるいは偽りの預言者に聞くべきか、神の戒めに従って進むか、神の戒めを拒み続けるか、大切な選択の場面に立たされています。分かれ道に立っているのです。
「6:16 主はこう言われる。『さまざまな道に立って、眺めよ。昔からの道に問いかけてみよ どれが、幸いに至る道か、と。その道を歩み、魂に安らぎを得よ。』しかし、彼らは言った。『そこを歩むことをしない』と。6:17 わたしは、『あなたたちのために見張りを立て 耳を澄まして角笛の響きを待て』と言った。しかし、彼らは言った。『耳を澄まして待つことはしない』と。」
「さまざまな道に立って、眺めよ。」というのは、「(目の前にある)道(複数)に立って、よく見なさい。」ということです。イスラエルの民の前にあるいずれの道を選ぶのが良いのか、考えなさいと神は語っているのです。
分かれ道に立っているエルサレム市民は、まず何をしたら良いのでしょうか。それはそれぞれの道を「よく見る」ことです。彼らは平和がないのに「平和だ、平和だ」という偽りの預言を聞いて安心してしまい、どこに平和があり、それが何故であるかを自分で見ようとはしませんでした。ただ人の言葉を聞いて、それを鵜呑みにしていただけで、判断を人任せにしていたのです。
エレミヤが真実を尊ぶ預言者であることは既に学んできましたが、それはエレミヤがまず事実を事実として受け止め、行動したことによります。その事実がいかに厳しいものであっても、そこから目を反らさずにしっかり見ることによって、はじめて自分自身の正しい判断ができるからです。しかしエルサレム市民はそうではなかったようです。自分たちがまずしっかり事実を見て判断するという、一番大事なことを始めから放棄していたのです。
エレミヤの場合、真実というのは、今目の前で現実に起きていることですから、そこに信仰を働かせて行動します。理性や知性の目を塞いで、ただ頭から闇雲に信じるようなことはしませんでした。エレミヤは、知恵を大事にしています。信仰と知性は、もちろん質的に異なるものですが、事実を事実として見ることなくして、信仰は真の信仰とはならないからです。人の声だけを聞いている者にとっては、神の声は聞こえません。また反対に、人の声に耳を塞いでいる者もまた、神の声を聞くことはできないのではないでしょうか。
ですから、自分がどの道を選んで進んでいくかは、自分で見極めなくてはならないのです。人に教えてもらうだけではだめなのです。自分が歩むべき道は、自分の目を使い、自分の耳を使い、自分の理性や知性を働かせて、神への信仰に立って自分自身で判断する他はないのです。
では、イスラエルの民はどの道を選んだら良かったのでしょうか。エレミヤは「昔からの道に問いかけてみよ」と語っています。「昔からの道」それは新しい道ではなく、古い道です。歴史的に言えば、エジプトから救い出されたイスラエルの民が歩んだ砂漠の道のことです。それはエレミヤの言葉によれば、「若い時の真心、花嫁の時の愛、荒れ野での従順」です(2章2節参照)。その時、神とイスラエルの民は新婚の夫婦の関係にあり、他の何ものも入り込まない純粋な関係でした。それこそがかつて歩んできた昔からの道であり、将来もそのように歩むべき道であるというのです。
この道は、遠い昔、モーセを通して神から示された道でした。昔も今も将来も、永遠に変わることのない神と共に歩む道です。イスラエルの民にはそういう道が与えられているにも関わらず、その道を歩もうとはせず、昔からの道を軽蔑して新しい道を歩もうとしていたのです。
過去の歴史を学ぶという事は、大事なことです。現在を知り、将来を見通すためには、私たちは一度過去に戻って、過去に起きたことから考えなければなりません。過去から断ち切られた現在というものは、大事な中心を見失っていて無意味というほかなく、またそこから未来を考えることは危険としか言えません。
エレミヤは昔からの道だから、直ちにそれが正しくて良い道だとは言っていません。昔からの道にもいろいろあります。モーセの時代がすべて良かったわけではありません。「どれが、幸いに至る道か、と。その道を歩み、魂に安らぎを得よ。」と注意深く断っています。昔からの道の中に良い道があるかどうか、自分でその道を歩んで調べてみなさい、それが本当に幸いに至る道であるならば、魂に安らぎが与えられるのだ、と言っているのです。
ここで、道の広さのことを考えてみたいと思います。16節の「さまざまな道(分かれ道)に立って」の「道」は幅の広い道のことで、「昔からの道」の「道」は「小道」とでも訳せる幅の狭い道のことです。イエスはマタイによる福音書7章13-14節で、このように話されました。「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」「昔からの道」は、良い道であり、幸いに至る道ですが、狭くて細いのです。ですからその道を見いだす者が少ないと言います。イエスが語ったことはまさしく、このことを語っておられます。
私たち一人ひとりの人生には、人が一時に一人しか通れない道が置かれているのです。そういう道をある時は困難に耐え、ある時は孤独の悲しみを抱えて歩き通す人だけが魂に安息を得るのです。この安息は、肉体の悩みの中にあろうと、生活の嵐の中にあろうと、あるいは時代の暴風雨に当たろうとも揺るがず、奪われない霊魂の安息です。この安息は偽りの預言者が語る平和とはまったく異なります。門は狭く、道も狭くて細い。しかしそこにあるのは、主にある確実な安息です。
エレミヤの戒めの言葉にも関わらず、エルサレムの民は「その道を歩むことはしない」(16節)と言います。北からの襲撃が近いことを告げても、自分たちに関係ないかのように、そっけない態度をとっています(17節)。
この後、エルサレムがバビロン軍に囲まれ、滅亡の瀬戸際に立たされた時、エレミヤはイスラエルの民に向かって、「あなたはこの民に向かって言うがよい。主はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの前に命の道と死の道を置く。」(エレミヤ書21章8節)と語り、「命の道」をとるのか、「死の道」をとるのか、と、その分かれ道に立っていることを告げています。
私たちの前にもいろいろな道があり、命の道と死の道があります。私たちが日々、それぞれの道を正しく選択して「幸いに至る道」を歩んでいけますようにと心から祈り願っております。