2026年3月8日(主日)
主日礼拝『 誕生日祝福 』
ルカによる福音書 19章28~44節
牧師 永田 邦夫
本日も皆さんと共に、この礼拝に招かれましたことを感謝いたします。
2026年のイースターは4月5日ですが、2月18日から4月5日のイースターまでの約40日間は受難節〈レント〉と言われ、そしてその最後の一週間が受難週です。
さて、本日の説教箇所は、冒頭に示されていますように、主イエスがエルサレムに迎えられる時、つまりエルサレム入城についてですが、本日の説教箇所に入ります前に、前回(2月1日)の説教箇所の要点を確認しておきましょう。それは、日々のわたしたちの生活において、主がやがて再臨の主として来られることを約束してくださっていますが、再臨の主をどのような心がけで待ったらよいのか、この事とも関連しているからです。(聖書では19章11節~27節まで「ムナのたとえ」との小見出しの箇所)
ある立派な家柄の人が王位を受けて帰るまで、僕たちに財産管理を任せて旅立ったのです。その管理を任せられた僕の(三グループに分けることが出来ますが)第一のグループは、それを用いて、十倍もの利益を上げ、第二のグループは五倍の利益をあげたのです。しかし、第三の人は、損失を招かないように、預かりものを大事に保管して置いたのです。
主人は、帰宅後に、前記三者の報告を聞いて、初めの二者は大変なお褒めに与りました。しかし三番目の人は逆に、大変なお叱りを受けました。以上のことをわたしたちも、肝に銘じておいて、再臨の主を日々待ちたいものです。
さて、イエスさまの福音宣教は、ガリラヤで「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコによる福音書1章15節)と、御国の到来を告げる言葉から始まりました。
そしてしばらくのガリラヤでの伝道を終えて、ご自身が神から遣わされた最大の目的である十字架の死をもって、人々を罪から救い、命へと導く、そのことのためにエルサレムに向かわれます。
主イエスがその決心を固められた記事は、このルカによる福音書では9章51節にあります。「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。」と。このことを証しするかのように、同じ9章で二回にわたり(21節~、43節~)ご自身の死と復活を予告されております。
そして、いよいよ本日個所、エルサレム入城となります。「エルサレム入城」と申しましても、並行する共観福音書の如く、歓喜の入城ではありません。粛々と、そして優しく進んで行かれます。そしてそのエルサレム入城は、弟子たちとの正に「協働」による入場です。(このことは後程詳しく見てまいります。)
実は、イエスさまが十字架を目指してエルサレムに入られる最後に当たる部分は、御国の教えと徴(しるし)を完結させるかのように、18章の終わりから続いております。
18章35節から、エルサレム近くのエリコに来られましたイエスさまは、目が見えないでいる人を癒して見えるようにされました。
19章1節からは、(「徴税人ザアカイ」として知られております箇所)、徴税人のザアカイを回心させます。その本当のテーマは、「失われている者、一見強そうに見えても弱くされている人を捜しだし、イエスさまから近づいてきてその人の名を呼び」、「救いへと導いてくださる」そのことが記されております。
19章11節からは「『ムナ』のたとえ」となっておりますが、内容的にはいわば「主の再臨を待つ人の心得」が記されております。
イエスさまは、エルサレム入城を前にして、ご自身大変な緊張感を持っておられたことでしょう。その頃の人々はと申しますと、11節の後半にありますように、「……神の国はすぐにも現れるものと思っていたから」と「御国到来近し」の期待を持っておりました。しかし何回も触れておりますように、イエスさまはこれから十字架への道を進まれ、その死と復活を経て、神の身許に上られます。
以上の状況の中で、人々が主の再臨(御国の完成)の時まで、どのような心掛けでそれを待ったらよいかを、イエスさまは譬えを用いて教えている箇所です。
わたしたちは一様に(譬えの中では十人の僕が一様に一ムナずつ預けられて)主なる神さまから多くの恵みをいただいて(お預かりして)おります。それは、能力であり、時間であり、そして信仰であり、主を証しするチャンスであったりします。
「再臨の主」は、譬えの中での「立派な家柄の人」が、「遠い国への旅立ち」、「王となられて再び来られる」と言います。これはもちろんイエスさまの十字架と復活、そして昇天から再臨までのことを例えております。
いよいよ本日個所です。28節には「イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。」とあります。エルサレム行きを決意されて(9章51節)から、イエスさまは何時も御国のことを念頭に置いて大切な教えと、しるしを行い、そしていま、正にエルサレムに入ろうとするときも、先頭に立って進んで行かれました。その後に従って進んで行くのは弟子たちです。(群衆や多くの人々がいたかも知れませんが、ルカによる福音書では、弟子たちに大きく焦点を当てているのが特徴的です。)
そして今、オリーブ山のふもと、エルサレムから約3キロ程のベトファゲとベタニヤに近づいておられました。オリーブ山はイエスさまが後に祈りの場所とされたところです。また旧約以来、“メシヤ(救い主)はオリーブ山から現れる”との言い伝えがある場所です。
次に29節をご覧ください。これから先には、イエスさまがどのようにしてエルサレムに入って行かれたか、その様子が詳しく記されております。大体、聖書が多くの章や節を割いて書き記しているときは、その内容に大きな意味合いを持つ時です。順番に見て参りましょう。
その一つ、主イエスのエルサレム入城は、イエスさまと弟子との、いわば“協働の働き”によって成し遂げられて参ります。弟子たちは何時もイエスさまの傍らにいて、大切な役割を果たして、イエスさまの足を整え、賛美をもって、目的の地エルサレムに入って参ります。
わたしたちの教会の働きも、イエスさまと、そして教会員同士が皆で“協働の働き”をしながら教会を建て上げていくことが必要です。
二つ目、イエスさまのエルサレム入城は“ろばに乗って”でした。ろばは、愚直なまでに優しく、そして一見、弱々しく思える動物です。カッコ良さを第一に求めるなら、俊足強健な馬、軍馬を選ぶでしょう。しかしイエスさまは、平和のシンボルであるろばに乗って、しかも“まだだれも乗ったことのない、子ろばに乗って”、エルサレム入城を果たされました。
ゼカリヤ書9章9節には「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声を上げよ。 見よ、あなたの王が来る。 彼は神に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ろばに乗って来る。」とあります。
このように、ルカによる福音書の伝えますイエスさまの入城は、勝利の凱旋や、栄光の道でもありません。平和のシンボルであり、優しさのシンボルである“ろばに乗って”文字道りメシヤの入場として書き表されております。
なお、先の「まだ誰も乗ったことがないろばの子」は、神聖なるメシアの登場を意味します。
三番目、そのろばの子を手に入れる方法にご注目ください。「向こうの村に行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。」(30節)
二人の弟子は、イエスさまの言いつけに従って、向こうの村に行き、果たしてイエスさまが言われました通りに、子ろばを見つけ、そしてイエスさまが示された合言葉「主がお入り用なのです。」を告げることによって、子ろばをイエスさまの許に引いてくることに成功します。
「主がお入り用なのです。」は、一見ぶっきらぼうで高飛車に思える言葉です。
なお、本日の聖書個所で、イエスさまがおっしゃった「主がお入り用なのです。」の主なる言葉はご自身を表す「主」ですが、子ろばの持ち主を表す「主」にも使われている「主」(キュリオイ)なのです。
幼少の頃のイエスさまが、神殿で律法学者の話を聞いていた時に言われた「わたしの父とはだれか」と言われた逸話を思い起こします。
さて、弟子たちは子ろばの背に、自分たちの服をかけ、イエスさまをろばにお乗せして、オリーブ山にさしかかった時、弟子の群れはこぞって声高らかに主を賛美し始めました。
今までみてまいりました「主がお入り用なのです。」の合言葉は、主イエスさまが十字架を前にして、まず、父なる神が、イエスさまご自身を人々の贖罪のために「お入り用とされ」そして、今弟子たちを「お入り用として」エルサレムに入るお膳立てをさせました。その弟子たちは「自分たちをお入り用とするイエスさまにお応えして」主を称え、主を賛美しながらエルサレムに入ってまいります。
さて、わたしたちはどのように、「主がお入り用とされる」ことにお応えしていくのでしょうか。「主の名によって来られる方、王に祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光。」と38節にありますように、今度はわたしたち自身が賛美して、主の祈りにあります「国と力と栄とは限りなくなんじのものなればなり」との祈りを祈りながら、今週も歩んでいきたいと願っております。