主の神殿

2026年3月15日(主日)
主日礼拝
エレミヤ書 7章1~15節
牧師 常廣 澄子

 エレミヤ書は、必ずしも始めから年代順に書かれているわけではないことを以前にもお話しましたが、この7章に書かれていることも、エレミヤが預言者として活動を始めてから比較的後のことで、たぶん40歳くらいの時ではないかと考えられています。その頃にはエレミヤは預言者としてその名前を広く知られていて、預言者としての厳しい生活に耐えながら神に仕えていたと思われます。

 この7章に書かれていることは、後の26章と深い関わりがありますので、併せて読んでいきたいと思います。7章には主としてエレミヤが語った預言の内容が書かれており、26章の方は、その時に起こった出来事が書かれています。26章1節に「26:1 ユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムの治世の初めに、主からこの言葉がエレミヤに臨んだ。」とありますから、紀元前609年前後の事と考えられます。

 これは、おそらく秋の収穫を祝う祝祭日に起こった出来事のようです。イスラエルの民は、遠くからも近くからもエルサレム神殿に詣でるために集ってきました。2節でエレミヤが「主を礼拝するために、神殿の門を入って行くユダの人々よ」と呼びかけている言葉でそれがわかります。神はエレミヤに、各地から集まって来た大勢のイスラエルの民に向かって預言することを命じたのです。

 その預言の内容は、3節から10節のところに書かれています。「7:3 イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。お前たちの道と行いを正せ。そうすれば、わたしはお前たちをこの所に住まわせる。 7:4 主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない。 7:5 -6この所で、お前たちの道と行いを正し、お互いの間に正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく、自ら災いを招いてはならない。 7:7 そうすれば、わたしはお前たちを先祖に与えたこの地、この所に、とこしえからとこしえまで住まわせる。 7:8 しかし見よ、お前たちはこのむなしい言葉に依り頼んでいるが、それは救う力を持たない。 7:9 盗み、殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに香をたき、知ることのなかった異教の神々に従いながら、 7:10 わたしの名によって呼ばれるこの神殿に来てわたしの前に立ち、『救われた』と言うのか。お前たちはあらゆる忌むべきことをしているではないか。」

 このところをまとめるならば、「もしお前たち、イスラエルの民が不信仰と悪しき行いとを悔い改めるならば救われるが、それを拒んで異教の神々に従って忌むべき悪しきことをし続けるならば、滅ぼされる」ということです。何よりも、もし悔い改めないなら、彼らが一番心の拠り所としているヤーウェの神殿が、神の裁きによって破壊されてしまうぞ、という預言です。

 それを聞いたイスラエルの群衆はもちろん、神殿に仕える祭司たちも怒りに満ちて、エレミヤを捕らえて殺してしまおうとしました。そのことは26章8~11節に書かれています。[26:8 エレミヤが、民のすべての者に語るように主に命じられたことを語り終えると、祭司と預言者たちと民のすべては、彼を捕らえて言った。「あなたは死刑に処せられねばならない。26:9 なぜ、あなたは主の名によって預言し、『この神殿はシロのようになり、この都は荒れ果てて、住む者もなくなる』と言ったのか」と。すべての民は主の神殿でエレミヤのまわりに集まった。26:10 ユダの高官たちはこれらの言葉を聞き、王の宮殿から主の神殿に上って来て、主の神殿の新しい門の前で裁きの座に着いた。26:11 祭司と預言者たちは、高官たちと民のすべての者に向かって言った。「この人の罪は死に当たります。彼は、あなたがた自身が聞かれたように、この都に敵対する預言をしました。」]

 しかし、エレミヤも負けていません。自分は神の命令によってこのように預言しているのだと語ります。「26:12 エレミヤは高官たちと民のすべての者に向かって言った。『主がわたしを遣わされ、お前たちが聞いたすべての言葉をこの神殿とこの都に対して預言させられたのだ。 26:13 今こそ、お前たちは自分の道と行いを正し、お前たちの神、主の声に聞き従わねばならない。主はこのように告げられた災いを思い直されるかもしれない。26:14 わたしはお前たちの手中にある。お前たちの目に正しく、善いと思われることをするがよい。26:15 ただ、よく覚えておくがよい、わたしを殺せば、お前たち自身と、この都とその住民の上に、無実の者の血を流した罪を招くということを。確かに、主がわたしを遣わし、これらのすべての言葉をお前たちの耳に告げさせられたのだから。』」

 すると、エレミヤの預言を聞いていた高官たちと民のすべての者が「エレミヤには死にあたる罪はない、ただ神の名によって語っただけだ」と言い出しました。「26:16 高官たちと民のすべての者は、祭司と預言者たちに向かって言った。『この人には死に当たる罪はない。彼は我々の神、主の名によって語ったのだ。』」そして「 26:17 この地の長老が数人立ち上がり、民の全会衆に向かって言った。」その中にいた、長老たち数人が立ち上がって言いました。

 長老たちが語ったことは26章18-19節に書かれています。「26:18 モレシェトの人ミカはユダの王ヒゼキヤの時代に、ユダのすべての民に預言して言った。『万軍の主はこう言われる。シオンは耕されて畑となり エルサレムは石塚に変わり 神殿の山は木の生い茂る丘となる』と。26:19 ユダの王ヒゼキヤとユダのすべての人々は、彼を殺したであろうか。主を畏れ、その恵みを祈り求めたので、主は彼らに告げた災いを思い直されたではないか。我々は自分の上に大きな災いをもたらそうとしている。」

 長老たちが語ったのは、当時から100年ほど前に起こった出来事でした。ミカという預言者がやはりエレミヤと同じように都や神殿の破壊を預言したことがありましたが、当時の人たちはそのようなミカを殺しませんでした。長老たちはその出来事を思い起こさせて語ったのです。「たしかにエレミヤは神聖な神殿を冒涜するような預言をしているけれども、彼は神に遣わされた預言者である。

 神によって遣わされた者を殺すことによって、自分たち自身に災いを招くようなことをしてはならない。」と言って、興奮して騒いでいる群衆をなだめたのです。エレミヤはこうして辛うじて死を免れることができました。

 しかし、エレミヤはどうしてこのような預言をしたのでしょうか。それはもちろんイスラエルの民が真の神を離れた不信仰な生活をしていたからであり、彼らの罪や悪の行状が見逃し難いためでした。「彼らは神聖な神殿を強盗の巣窟にしている。だからいずれ神殿には神の裁きが下るのは間違いない。」ということです。

 しかし、神殿が滅ぼされる理由はそれだけではありませんでした。もっと歴史的な事があったのです。当時イスラエルの国は政治的に大変不安定でした。宗教的にも社会的にも改革の先頭に立っていたヨシア王はエジプトと戦っている最中にメギドの戦いで討ち死にしてしまいました。その後を継いだ王ヨアハズは三か月でエジプトによって廃位され、その後には、ヨヤキムがエジプトの傀儡政権として即位しました。ヨヤキムはエジプトがバビロニアに敗れたのを見て、バビロニア側に寝返りました。ところがバビロニアがエジプト攻略に失敗すると、また反旗を翻すのです。イスラエルは実に不安定な状況にいました。そしてついにバビロニアはエルサレムを包囲し、神殿は破壊され宝物は持ち去られ、祭司や役人や軍人、また手に技術のある者たちはバビロンに連行されていったのです。これがバビロン捕囚です。

 エレミヤは、これから先、イスラエルの民が滅びの坂を転げ落ちていくことを神に示されて説教したのがこの個所です。まだバビロン捕囚には至っていませんが、そういう不安定な激動の時代ですから、イスラエルの民にとっては何とか自分たちの不安を鎮めたい、落ち着きを取り戻したいと、祭りのたびに人々は大勢エルサレム神殿に集まってきたのです。4節に「7:4 主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない。」とありますが、「主の神殿、主の神殿、主の神殿」という言葉には、我々にはこの神殿がある、この神殿があれば大丈夫だという彼らのすがるような必死の気持ちが現れています。神のご臨在の場所であるこの神殿があれば、都も国も決して滅びることはないという間違った安心感です。しかし、神は自由な方です。例え神殿と言われていようとも、神をその場所に縛り付けておくことはできません。

 以前、神殿はシロという地にありました。7章12節や14節に「シロ」という地名が出てきます。 「7:12 シロのわたしの聖所に行ってみよ。かつてわたしはそこにわたしの名を置いたが、わが民イスラエルの悪のゆえに、わたしがそれをどのようにしたかを見るがよい。」「7:14 わたしの名によって呼ばれ、お前たちが依り頼んでいるこの神殿に、そしてお前たちと先祖に与えたこの所に対して、わたしはシロにしたようにする。この御言葉には、エルサレム神殿とシロの神殿が対照的に語られています。このシロは、かつてはイスラエルの宗教や政治の中心地であり、シロの神殿には神の契約の箱が安置されるほどの由緒ある街でしたが、祭司エリの時代にペリシテ人によって神の箱は奪い去られ、街も神殿も破壊されてしまいました(サムエル記上4章参照)。エレミヤは、神が繰り返して語っている言葉に従わないイスラエルの民に対して、例えエルサレムに神殿があって、そこにヤーウェの名があろうとも、シロにしたように南ユダの人々(イスラエルの民)をもエルサレム神殿をも「投げ捨てる」と預言しているのです。「7:15 わたしは、お前たちの兄弟である、エフライムの子孫をすべて投げ捨てたように、お前たちをわたしの前から投げ捨てる。」

 エレミヤが語っているのは、そこに神殿があろうとなかろうと、もし人々が罪を心から悔い改めないならばその国は滅亡し、人々は救われないということです。では、人々が救われるために何をなすべきでしょうか。「7:5 -6この所で、お前たちの道と行いを正し、お互いの間に正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく、自ら災いを招いてはならない。」5節にあるように、その道と行いを正し、正義を行うことです。彼らは本来真っ先になすべきことを後回しにして、ただ神殿という形あるものだけを頼みとしていたのです。

 「7:8 しかし見よ、お前たちはこのむなしい言葉に依り頼んでいるが、それは救う力を持たない。7:9 盗み、殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに香をたき、知ることのなかった異教の神々に従いながら、7:10 わたしの名によって呼ばれるこの神殿に来てわたしの前に立ち、『救われた』と言うのか。お前たちはあらゆる忌むべきことをしているではないか。7:11 わたしの名によって呼ばれるこの神殿は、お前たちの目に強盗の巣窟と見えるのか。そのとおり。わたしにもそう見える、と主は言われる。」

 9節の言葉はモーセの十戒を思い出させる言葉です。十戒は律法の中心にあり、イスラエル人の宗教と倫理や道徳生活の基本を定めているものです。エレミヤがここでイスラエル人の罪を非難していることは注目すべきことです。偶像礼拝や隣人に対する罪を犯し、律法に反するあらゆる恥ずべきことをしていながら、ただ神殿にやってきて、悔い改めることもなく、ただ儀式を行って「救われた」と言い、出て行ってまた同じことを繰り返している。これではまさに本末転倒ではないか。私の名によって呼ばれている神殿は、いまでは私の律法を破った者たち(強盗)の隠れ家のように見られているではないか。この私にもそのように見える、と神は痛烈に語っておられるのです。(皆さまもご存じのように、この言葉はイエスがエルサレムに入城され、神殿で商人たちを追い出した時に引用されています。「わたしの家は、祈りの家でなければならない。ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。」ルカによる福音書19章46節他)エレミヤは、人々が神を礼拝していることが、彼らの毎日の生活と結びついているかどうかを問うています。これは私たちの信仰生活についても言えることです。

 当時のエルサレム神殿での礼拝に対するエレミヤの批判は、今日の私たちの信仰生活や礼拝生活に対しても大切なことを教えています。ただ形式的に流されていないかを吟味しながら、心から神を崇め、神の栄光を求めながら礼拝をささげたいと思います。また、イエス・キリストという土台の上に建てられている教会は必ずしも集団としての教会だけではありません。パウロが「私たちは神の神殿である」と語っているように、私たち一人ひとりがその信仰を自分の生活や行為を通して証していくことが何よりも大切なことです。そして、私たちは昔も今もとこしえに変わらない神の言葉を聞きながら、今も共に生きておられる神を信じ、神の御心に従って生きていきたいと願っております。