使徒言行録 2章1~13節 牧師 常廣澄子 本日はペンテコステ(聖霊降臨)を感謝する礼拝です。一般的に、このペンテコステ(聖霊降臨)は教会の誕生にあたると言われていますが、それは歴史的、年代記的な意味ではなく、信じる者の集まりである教会というものの成り立ちの根本的な意味で言われているのです。聖霊降臨という言葉だけを聞いていますと、なんだか大変古めかしい神話のように思われるかもしれませんが、使徒言行録の聖霊降臨の出来事には、今の私たち人間世界にとって、大変素晴らしい神の恵みが語られています。この出来事が今の私たちにどのような事を語っているのか、見ていきたいと思います。
聖書

44 使徒言行録
神の偉大な業

45 ローマの信徒への手紙
神の賜物は永遠の命
ローマの信徒への手紙 6章15~23節 牧師 常廣澄子 前回は、14節の御言葉「なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。」にありますように、私たち神を信じる者は、罪の赦しという恵みの下にいることを教えられました。そしてこの恵みの福音に秘められた神の力は大変力強くて、私たち人間を変革していく力があること学びました

46 コリントの信徒への手紙一
主の食卓につく者
コリントの信徒への手紙 一 10章14~22節 牧師 常廣澄子 コリントの信徒への手紙は、コリント教会に生じたいろいろな問題に対して、パウロが主の福音に基づいて適切に解答し、教え導いている実際的な手紙です。この手紙で扱われている問題は多岐にわたりますが、その一つひとつにパウロは率直に答え、指示を与えながら、福音の真理を明らかにしています。まさに福音の伝道者、また牧会者であるパウロの篤い思いがあふれている手紙だと思います。

66 ヨハネの黙示録
火と煙と硫黄
ヨハネの黙示録 9章12~21節 牧師 常廣澄子 このヨハネの黙示録に書かれている幻は理解できないことばかりで、非現実的な事柄としか思えないと言われる方がおられます。確かにここに書かれていることは不思議なことばかりです。しかしここに示されている幻から発するイメージは、現実に今世界で起きている状況を連想するほどに生々しく迫ってきます。今日の世界は非常に危機的な状況にあり、不安や恐怖に満ちていることを考えても、ヨハネが霊の導きによって見たこれらの幻をしっかり霊の目で見ようとすること、静まって霊の耳を傾けてみ言葉から聞くことは、今を生きる私たちにとって大変大事なことではないでしょうか。

45 ローマの信徒への手紙
新しい命に生きる
ローマの信徒への手紙 6章1~14節 牧師 常廣澄子 ローマの信徒への手紙を書いて来たパウロは、ここまで人間の罪と神の義ということについていろいろと語ってきました。つまり、人間が神の前で義とされるのは、律法を行うことによってではなく、キリスト・イエスの贖いの御業を信じることによるのである、ということを繰り返し語っているのです。そして5章の終わりでは、「(20節)律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。」というように、人間の罪が重ければ重いほど、神の恵みもまたいっそう強く働くのだと、いわば逆説的ともとれるような発言をしています。

66 ヨハネの黙示録
底なしの淵
ヨハネの黙示録 9章1~11節 牧師 常廣澄子 私たちは今、ヨハネの黙示録を通して、著者ヨハネの霊の目に映し出された天上の礼拝の様子を見ています。天の御座の中央に立たれるお方は、豪華な王者の衣をまとうお方ではなく、ほふられた小羊の姿です。それは虐げられ、苦しめられ、傷つけられたお姿でした。この方こそ、神の小羊としてご自分のお身体を捧げられたイエス・キリストに他なりません。このお方は天上にあるもの、地上にあるもの、地下にあるものが口をそろえて「王の王、主の主」として崇められるお方です。そしてこのお方が七つの封印で封じられた巻物を手に取り、その封印を一つひとつ開けていったのです。封印を解いていくことがおできになるのはこの方以外にいないのです。第七の封印を開いた時、神の御前に立っている七人の天使に七つのラッパが与えられ、次々と吹き鳴らされていきましたが、天使がラッパを吹き鳴らす度に、そこには恐るべき審きの光景が映し出されていきました。神の審きというのは、神を神として認めようとしない者に加えられるのです。

46 コリントの信徒への手紙一
永遠に存続するもの
コリントの信徒への手紙 一 13章8~13節 牧師 常廣澄子 先週、私たちはイエス様の復活を喜び、祝い、感謝するイースター礼拝をお捧げいたしました。 本日は、先に天に帰られた方々を偲び、私たちもまたいつの日か神の身許でそれらの方々とお会いする日を思いながら、感謝の礼拝をお捧げしたいと思います。

42 ルカによる福音書
主はよみがえられた
ルカによる福音書 24章1~12 牧師 常廣澄子 イースターおめでとうございます。本日は、イエス・キリストの復活を喜び感謝し、そのことをお祝いするイースター礼拝です。 このキリストの復活という出来事は、キリスト教信仰の最も中心にあるものです。毎週日曜日に行われる主の日の礼拝は、このイエスの復活を記念する礼拝であることは言うまでもありません。今では「復活」という言葉をいろいろなところで自然に使っていますが、「復活」つまり「死人のよみがえり」ということは、受け取りようによっては、不気味なことです。しかし、キリスト者ははっきりそのことを信じるという信仰告白をいたします。なぜならイエスの復活という出来事こそが人間の罪の贖い、つまり救いの完成だからです。けれどもこの復活ほど、私たち現代人にとって理解し難くて分かりにくいものはないのです。実を言えば、イエスの弟子たちでさえも、当初はイエスの復活を信じることができませんでした。

42 ルカによる福音書
十字架に向かって
ルカによる福音書 9章51~62節 牧師 永田邦夫 本日は2023年度に入りまして最初の主日礼拝です。そして、イースター前の受難節、わたしたちは、主イエスさまの十字架の受難のことに思いを馳せながら、この時を過ごしております

45 ローマの信徒への手紙
アダムとキリスト
ローマの信徒への手紙 5章12~21節 牧師 常廣澄子 私たち人間が住むこの地球上で、今、国と国がいがみあい、人間同士が殺し合いをしています。理由がどうであれ、人が人を殺すということはやってはならないことです。一方的で独善的なこのような戦争は、誰が見ても誰が聞いても理不尽なことではないでしょうか。いったい人間の心には何があるのでしょうか。人間というものは、どうしてこのような行動を起こすのでしょうか。国と国の関係だけではありません。私たちはすぐ身近にいる人に対してさえ、妬みや憎しみという悪い感情を抱いてしまい、ついには殺人にまで発展してしまうことがあります。