2019年11月

主の名を呼び求める者の救い

この聖書箇所がわたしたちに伝える福音のメッセージは、大きくは、9章から11章の“全人類の救い”についてであり、さらに詳しくは、直前4節「キリストは律法の終わりになられた」、すなわち、「律法に終止符を打たれた」(原語のギリシア語の解釈)を受けて、律法による義と、信仰による義を別の角度から比較しつつ、さらにわたしたちが、イエス・キリストを救い主として信じる、“信仰による義”(ローマ書の中心的テーマ)へと至る道筋を示しております。そしてそこにはユダヤ人、ギリシア人の区別はなく、主を信じ、主の名を呼び求める者すべてが救われる、と告げております。

主と共なる人生

私たちは死をどのように捉えているでしょうか。ここではパウロが死んでいった人たちのことについて語っています。(13節)「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。」当時のテサロニケの信徒たちは、イエスの再臨は極めて近いと信じていて、その日を迎えることに大きな希望を抱いていました。ところが、イエスが来るのを待たずに死んでいく人が出始めたものですから、彼らはイエスの祝福と救いの完成に与かることができないのではないだろうかといった心配や、彼らのことを憐れんだり、悲しんだりする人が現われたのです。

内なる光

マタイによる福音書の6章には一貫した論理があります。それは隠れた所で見ておられる神さまの存在です。施しをする時、祈る時、断食する時、いずれの場合もそれを人の前でひけらかすようなことはせず、隠れたところで見ておられる神の前で行いなさいということです。しかし、この22-23節は何かちょっと分かりづらいところです。目と身体の関係を言っているのでしょうか。物の見方が正しくないと身体の器官がうまく機能しなくなるとでも言っているのでしょうか。

主に望みをおく人

私たち人間にとって望みを持つことは、生きていくための大きな力になります。旧約聖書の時代、バビロンに捕囚となったイスラエルの民は、紀元前587年から半世紀にわたって、苦難の生活を強いられていました。そこでは人々はもはや自分たちは神から見捨てられたと絶望し、希望がありませんでした。しかし神はイザヤにイスラエルの民を解放させようとしていることを伝えました。 そして神の言葉のゆるがない約束を語るのです。(6~8節)どんなに美しい花であっても、間もなく朽ち果てる。人間もそれと同様である。希望を抱いたとしてもその根拠はない上に、一時的なものに過ぎない。本当の希望というのは、我々を裏切らないものでなければならない。神の言葉こそが永続する希望であると。イザヤは、バビロン捕囚からの解放を確信します。