本国は天にある

フィリピの信徒への手紙 3章17〜21節

パウロはあちこちで、神に受け入れられるために必要なのは律法を完全に守ることである、という誤った律法主義を批判しています。救いを得るには律法をしっかり守ればよいのだという律法主義はキリストの恵みの福音とは全く相反する考えです。しかし、パウロがここで「キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです(18節)。」と語っているのは、そういう律法主義者ではなく、キリストを信じて教会の仲間になっている人たちの問題なのです。そういう人たちの中に、キリストの十字架、その愛と赦しを否定するような生き方をしている人たち、キリストの十字架を無用とするような生き方をする人たちがいたことが問題となっています。

当時はグノーシス主義を信じる者がいました。グノーシス主義というのは、善と悪、霊と物質の二元論に立っています。神は霊ですが人間は物質ですから、人間の身体を軽蔑し、罪深いものであると位置づけているのです。このような人たちは「恵みが増し加わるために罪の中に留まろう」という考えを持つ者もいて、教会内に混乱をもたらしたりしました。又ある人たちは、信仰によって救われるという真理を一人歩きさせて、信仰者はキリストに受け入れられているのだから、個人的な行為はどうであってもよい、つまり何をやろうと関係ないのだと考える者さえいたのです。パウロは、そういう人たちは結果的にキリストの十字架に敵対している、キリストの十字架に反逆しているのだと言っているのです。キリストが何のために十字架に架かられたのかをしっかりわきまえなさいということです。

パウロは今までにもこういうことを繰り返し語ってきたと言っています。そして今パウロは目に涙をためてこういうことを語っているのです。彼はそういう生き方をしている人たちを憎んだり、彼らの悪口を言っているのではありません。自分自身もまたそういう人たちの仲間の一人であったことに思いを馳せているのでしょう。私はこういう所を読むと、本当にパウロは愛の人に造りかえられているのだと思います。パウロは人間を愛しているからこそ、悲しみの涙をたたえて、こういう発言をしていることに注目したいと思います。

キリスト教の歴史が始まって今に至るまで、大多数の人はキリストの福音に無関心です。自分には関係ないと思っています。私たちは日々の生活で時には親しい人のために涙を流します。苦しんでいる人やかわいそうな人、またそういう場面を見ると泣きます。しかしキリストの福音を拒否し、救いの教えから遠ざかっている人を見てパウロのように泣くことができるでしょうか。私たちはそのような高貴な愛の涙など流したことはないのではないでしょうか。イエスはエルサレムの町が、イエスの福音を受け入れず、滅亡に向かっていくのを見た時、愛のゆえに涙を流されました(ルカ19:41)。ここではパウロも涙を流しました。これは彼の深い人間愛の表われです。

パウロはここで、十字架に敵対して歩いている人たちの行き着くところは滅びだと断言しています。なぜならば(19節)「彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。」彼らは神に導かれた聖い生活に進むどころか、その努力を怠り、結局は快楽主義者になっているというのです。この「腹」というのは、英語では「アペタイト」つまり食欲とか人間の現実的な欲望を言う言葉です。つまり自分のエゴイズムや自分の不道徳な欲望が神になってしまっているのです。これは自分を喜ばせるものを第一としているのであり、結局、自分を神としていることになります。このような考えがクリスチャンの間にも入り込んでいたのです。

「恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。」この「恥ずべきもの」は割礼を指していると考える人もいますが、もっと広い意味にとれると思います。これは裸の王様みたいで、自分の恥を得意になってさらしているのです。神を信じていると言いながら、自分の目に見える、物質的なものだけに頼っているのですから、結局は自分の恥をさらしているのです。これは地上の物に価値を置いて生きている人です。そこから目を上げて、見えないお方に目を注ぐことをしない人です。神を信じていると言いながらも、この世の汚濁に流されて生きている人を見て「キリストの十字架に敵対して歩いているのだ」とパウロは語っているのです。それは彼らを滅びから救いたいためです。そういう状態の中にいてはいけないのだ、キリストを信じるというのはそういうことではないのだとパウロは言いたいのです。

「わたしたちの本国は天にある。」これはキリスト信徒であるということを既得権として受け取り、自分は天に国籍を持っている、もう天国に入るパスポートを手に入れたから安心してよいのだ、ということを言っているのではありません。以前、教会でバプテスマを受けた方が、そのようなことを言われたことがあり、しばらくして教会に来られなくなってしまいましたが残念なことです。「私たちの本国は天にあるのだ」これは、私たちの生まれ故郷であり、私たちの国籍があるのは天である。イエス・キリストがかつていまし、今いましたもう国、そこから再びおいでになる国、そこが私たちの本国なのだとパウロは語っているのです。

「わたしたちの本国は天にある。」この本国という言葉は、フィリピの人たちにとっては非常に効果的な表現でありました。フィリピはローマの植民都市でした。そして住民にはローマに住む者と同じような地位や権利が保障されていました。フィリピはローマから遠く離れていましたがローマの面影をとどめる都市であり、フィリピの住民はローマの市民権を持ち、それを誇りにしていました。そのように、つまりローマの植民都市であるフィリピがローマに所属していることを決して忘れないように、あなた方キリスト者は地上に住んではいるけれども、その国籍は天にあるのだ、天国の市民であることを決して忘れてはいけない。あなたがたの行為は天国の市民に相応しくなければいけないのだとパウロはここで語っているのです。

イエスは「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」(ルカ10:20)と言われました。私たちはキリストを信じると同時に、天の国に登録されているというのです。放蕩息子が帰って来たのを喜ぶお父さんのように、私たちがキリストを信じる時、天では宴会が開かれ、住む所が用意されています。天の国というのは完全と永遠の象徴です。私たちは罪と苦しみのあるこの地上に暮らしていますが、もはや天に属しているのです。もちろんまだ聖さと完全さとを十分には実現はしていませんけれども、それに向かって励み、そこに向かって前進しているのです。この罪の世にあって、聖さを願い、永遠を望みながら歩んでいるということは、とりもなおさず私たちが天に属している証拠です。

キリストがふたたび地上に来られた時に救いが完成するというのがパウロの信仰でした。その時キリストは「万物を支配下に置くことさえできる力によって(21節)」すなわち神の全能の力によって、人間の罪のために歪められた世界に新しい秩序をもたらされます。また罪を犯しやすく、病気に罹りやすく、死に定められている身体である「わたしたちの卑しい体」を「ご自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです(21節)。」すなわち私たちの救いを完成してくださいます。パウロがローマの信徒への手紙8:23で「体の贖われること」と言っていることです。

その栄光の身体がどのようなものかは、今の私たちにはわかりません。しかし一切のことを愛をもって行われる神のみ手によってなされることなのですから、私たちはただ安心して信じ、委ねるだけです。キリストの福音を信じる者は、今ある現在の生活を意味深く豊かに過ごすことができるだけでなく、万物の終わりの時に関しても、恐れることなく明るい展望を持つことができるのです。私たちは地上のことしか考えられない愚かな小さな者ですが、地上に生きている限り、旅人であり寄留者です。「私たちの本国は天にある」ということは、このような目先のことしか考えられない人間に対する神の恵みであり約束であり、大きな励ましなのです。

(牧師 常廣澄子)