新約聖書

善いサマリア人

ルカによる福音書 10章25~37節 牧師 永田邦夫     わたしたちが今過ごしておりますこの8月は、わたしたち日本人にとりまして、原爆記念日、そして敗戦記念日があり、「平和についての思いを一層深くするとき」です。テレビや新聞では、そのことが連日、伝えられてきました。わたしたちキリスト者にとっては、主なる神、そして、キリストにある平和に思いを深くしていくときです。

平和をつくる

マタイによる福音書 5章9節 牧師 常廣澄子         8月は夏の真っ盛りで大変暑い時期ですが、夏休みに入っている子ども達が路地や近くの公園で楽しそうな声を響かせていて、散歩している高齢の方々もつい足を止めてにこにこしておられます。青空の下のこのような平和な日常が突然破られたのが78年前の出来事です。8月6日と9日、広島と長崎に相次いで恐ろしい原子爆弾が投下され、一瞬にして多くの命が奪われました。命が助かった人達もこの世の地獄を体験しました。皆さんも写真や映像でその恐ろしさをご覧になったことがあると思います。その上にその後何十年も後遺症で苦しんでおられる方々がおられるのです。戦争は何という惨い残酷なことを引き起こすのでしょうか。

天の神殿が開かれた

ヨハネの黙示録 11章15~19節 牧師 常廣澄子      8月に入りました。8月は平和を思う月です。それは78年前の8月6日と8月9日に、恐ろしい原子爆弾が広島と長崎に投下され、一瞬のうちに数えきれない多くの人の命が奪われ、数えきれない多くの人が悲しみと苦しみを背負って生きていかねばならなくなったという事実があり、戦争の悲惨さや愚かさを思うからです。私達は二度と同じ間違いをしてはならないと慰霊碑の前で平和を誓っています。しかし、世界では今も各地で争いが続いています。昨年2月に勃発したロシアとウクライナの戦争は、一年半を経過した今も終わりが見えない状況です。遠く離れた日本に暮らしている私達にとっても本当に心痛む日々であり、そのニュースは今も連日世界中をかけめぐり、一日も早い終息を願う祈りに満ちています。

イエスは神が遣わされた方

使徒言行録 2章14~36節 牧師 常廣澄子         5月のペンテコステ(聖霊降臨)礼拝では、2章の前半部分の御言葉から聞いてまいりました。聖霊が降った時、その場は本当に前代未聞の騒然とした状況だったのです。その驚くべき出来事に遭遇した人々の中には、自分の国の言葉で神の御業が話されているのを聞いて、感動した人達もいたでしょうが、逆に言葉のわからない人達や、真の神を信じようとしない人達は「彼らは新しいぶどう酒に酔っているのだ」と嘲り、ののしるような人達もいたのです。そういういろんな人達を相手に堂々と語ったのがペトロでした。今朝はペトロが弟子達を代表して語った長い演説から聞いていきたいと思います。これはキリスト教最初の説教とも言うことができると思います。

霊に従う生き方

ローマの信徒への手紙 7章1~6節 牧師 常廣澄子      ローマの信徒への手紙を少しずつ読み進めています。この6章から8章にかけての大きなテーマは、真の神を信じる信仰を与えられた人が新しい人生を歩んでいく、つまり、神の御心に添うように聖なる者となっていく「聖化」ということです。6章では、罪からの自由について書いてありました。この7章には律法からの自由、律法からの解放が取り扱われています。

わたしの記念として行え

コリントの信徒への手紙 一 11章17~26節 牧師 常廣澄子 多くのプロテスタントの教会がそうであるように、私達の教会でも「バプテスマ」と「主の晩餐」という二つの礼典を大切に守っています。そして「主の晩餐」の礼典を執り行う時には、必ずこのコリントの信徒への手紙一の11章が読まれます。「主の晩餐」の場面は各福音書に書かれていますが、「主の晩餐」の礼典はこの御言葉に基づいて守られてきたからです。今朝は、この御言葉について学びながら、私達はどれだけの重みをもってこの御言葉を受け止めて「主の晩餐」に与っているのか考えていきたいと思います。

聖霊による喜び

ルカによる福音書 10章17~24節 牧師 永田邦夫     本日も、ルカによる福音書からのメッセージをご一緒にお聞きして参りましょう。 主イエスさまのご生涯での伝道は、御自身の十字架と復活の予告を分岐点として、その前後で、大きく変わっていきます。そして、十字架と復活予告後の福音伝道に関する記事は、ルカによる福音書だけの独自記事としても、その多くが記されております。それは、このルカによる福音書が世界伝道を視野に入れながら、執筆され、ローマの高官テオフィロあてに献呈されている(本書の冒頭に記されています)ことからも理解できます。

神の力によって

ヨハネの黙示録 11章1~14節 牧師 常廣澄子        ヨハネの黙示録はよく解らないところがたくさんあって大変難しいものです。しかし、ある意味でこの黙示録は神の啓示の書ともいえるのです。私たちには覆いがかけられていて見えなくなっていることがたくさんありますが、その覆いを取り払って見えるようにしてくれる書物だともいえるということです。ヨハネに示された幻を通して、神はそれを私たちに告げています。 さてここまでのところでは、著者ヨハネは自分が見たことを、つまり天上の礼拝の様子や、ラッパを吹く度に繰り広げられる様々な出来事を語ってきました。しかし、この11章からはただ見ているだけでなく、ヨハネ自身が何らかの役割を担うことを命じられています。彼自身の行為が求められているのです。「(1節)それから、わたしは杖のような物差しを与えられて、こう告げられた。『立って神の神殿と祭壇とを測り、また、そこで礼拝している者たちを数えよ。』」

すべてを神の栄光のために

コリントの信徒への手紙 一 10章23節~11章1節     牧師 常廣澄子  2018年の秋に、特別音楽礼拝(賛美:澤田ルツ子さん、ピアノ伴奏:玉川早苗さん)があり、その時、ラテン語「ソリ・デオ・グローリア!」日本語に訳すと「ただ神にのみ栄光!」という言葉を教えていただきました。神を信じる信仰によって数多くの素晴らしい音楽を世に出した、ヨハン・セバスチャン・バッハは、自分の作った曲の最後にその頭文字の「S・D・G」を書き残しているそうです。これは今日お読みした聖書個所で、パウロが語っている言葉に通じるものです。「(31節)だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。」これは神を信じるすべての人が、その人生のモットーにしている言葉かもしれません。

待つ、父

ルカによる福音書 15章11~32節 シンガポール国際日本語教会牧師 伊藤世里江       昨年11月に伊藤が志村教会に来てから、半年余りの間に、教会の大切な方々を続けて、天に送る経験をされたことを思います。シンガポールでも、訃報の連絡が入るのですが、その時に、なになにさんは、天の家にお帰りになりましたというように書かれてきます。Went back to Home 家に帰る、地上の仮の住まいから、永遠の天の住まい、家賃の心配も、雨漏りも心配しなくていい、契約更新の必要もない、天の永遠の住まいへと居を移す。クリスチャンの地上での別れのとらえ方は、悲しく寂しいけれども、ポジティブです。辛いけれども絶望ではない。地上では辛いことも次々と経験する。しかし、どっこい、それは絶望で終わることはない。その先の永遠の希望へと導かれていく。天に帰ると考えるときに、わたしが思う聖書の箇所は、いわゆる放蕩息子の帰郷の箇所です。