使徒言行録 2章37~47節 牧師 常廣澄子 前回は主の御霊を受けたペトロが、堂々と説教するのを聞いてまいりました。ペトロが語った説教は、人間は罪深い者だから神を信じなさいというような一般的なことではなく、一つの明確な告知でした。ペトロはまず、今目の前で起きている聖霊降臨の現象を、これはヨエルが預言していたことの成就なのだと説明しました。そして、ナザレのイエスは、数々の力ある業や奇跡やしるしによって、御自身が神から遣わされた者、つまりメシアであるということを繰り返し示したにもかかわらず、人々はイエスを十字架につけて殺してしまったということ。しかし神はこのイエスをよみがえらせたのだということを伝えました。そして詩編16編を引用して、このことについてはダビデも予見していたことであったと語り、詩編110編の御言葉を通して、今やイエスは神の右の座に高くあげられたのだと語ったのです。
新約聖書
使徒言行録
ひたすら心を合わせて
コリントの信徒への手紙一
霊の働き
コリントの信徒への手紙 一 12章1~11節 牧師 常廣澄子 前回は、主の晩餐の持ち方で混乱していたコリント教会の人達に対して、パウロはその基本的な心構えを説いて正しく晩餐に与るようにと語りました。引き続いて今朝お読みした12章から14章にかけては、教会の中の秩序の問題、特に御霊の働きについてその根拠と意味を明らかにしようとしています。
ルカによる福音書
善いサマリア人
ルカによる福音書 10章25~37節 牧師 永田邦夫 わたしたちが今過ごしておりますこの8月は、わたしたち日本人にとりまして、原爆記念日、そして敗戦記念日があり、「平和についての思いを一層深くするとき」です。テレビや新聞では、そのことが連日、伝えられてきました。わたしたちキリスト者にとっては、主なる神、そして、キリストにある平和に思いを深くしていくときです。
マタイによる福音書
平和をつくる
マタイによる福音書 5章9節 牧師 常廣澄子 8月は夏の真っ盛りで大変暑い時期ですが、夏休みに入っている子ども達が路地や近くの公園で楽しそうな声を響かせていて、散歩している高齢の方々もつい足を止めてにこにこしておられます。青空の下のこのような平和な日常が突然破られたのが78年前の出来事です。8月6日と9日、広島と長崎に相次いで恐ろしい原子爆弾が投下され、一瞬にして多くの命が奪われました。命が助かった人達もこの世の地獄を体験しました。皆さんも写真や映像でその恐ろしさをご覧になったことがあると思います。その上にその後何十年も後遺症で苦しんでおられる方々がおられるのです。戦争は何という惨い残酷なことを引き起こすのでしょうか。
ヨハネの黙示録
天の神殿が開かれた
ヨハネの黙示録 11章15~19節 牧師 常廣澄子 8月に入りました。8月は平和を思う月です。それは78年前の8月6日と8月9日に、恐ろしい原子爆弾が広島と長崎に投下され、一瞬のうちに数えきれない多くの人の命が奪われ、数えきれない多くの人が悲しみと苦しみを背負って生きていかねばならなくなったという事実があり、戦争の悲惨さや愚かさを思うからです。私達は二度と同じ間違いをしてはならないと慰霊碑の前で平和を誓っています。しかし、世界では今も各地で争いが続いています。昨年2月に勃発したロシアとウクライナの戦争は、一年半を経過した今も終わりが見えない状況です。遠く離れた日本に暮らしている私達にとっても本当に心痛む日々であり、そのニュースは今も連日世界中をかけめぐり、一日も早い終息を願う祈りに満ちています。
使徒言行録
イエスは神が遣わされた方
使徒言行録 2章14~36節 牧師 常廣澄子 5月のペンテコステ(聖霊降臨)礼拝では、2章の前半部分の御言葉から聞いてまいりました。聖霊が降った時、その場は本当に前代未聞の騒然とした状況だったのです。その驚くべき出来事に遭遇した人々の中には、自分の国の言葉で神の御業が話されているのを聞いて、感動した人達もいたでしょうが、逆に言葉のわからない人達や、真の神を信じようとしない人達は「彼らは新しいぶどう酒に酔っているのだ」と嘲り、ののしるような人達もいたのです。そういういろんな人達を相手に堂々と語ったのがペトロでした。今朝はペトロが弟子達を代表して語った長い演説から聞いていきたいと思います。これはキリスト教最初の説教とも言うことができると思います。
ローマの信徒への手紙
霊に従う生き方
ローマの信徒への手紙 7章1~6節 牧師 常廣澄子 ローマの信徒への手紙を少しずつ読み進めています。この6章から8章にかけての大きなテーマは、真の神を信じる信仰を与えられた人が新しい人生を歩んでいく、つまり、神の御心に添うように聖なる者となっていく「聖化」ということです。6章では、罪からの自由について書いてありました。この7章には律法からの自由、律法からの解放が取り扱われています。
コリントの信徒への手紙一
わたしの記念として行え
コリントの信徒への手紙 一 11章17~26節 牧師 常廣澄子 多くのプロテスタントの教会がそうであるように、私達の教会でも「バプテスマ」と「主の晩餐」という二つの礼典を大切に守っています。そして「主の晩餐」の礼典を執り行う時には、必ずこのコリントの信徒への手紙一の11章が読まれます。「主の晩餐」の場面は各福音書に書かれていますが、「主の晩餐」の礼典はこの御言葉に基づいて守られてきたからです。今朝は、この御言葉について学びながら、私達はどれだけの重みをもってこの御言葉を受け止めて「主の晩餐」に与っているのか考えていきたいと思います。
ルカによる福音書
聖霊による喜び
ルカによる福音書 10章17~24節 牧師 永田邦夫 本日も、ルカによる福音書からのメッセージをご一緒にお聞きして参りましょう。 主イエスさまのご生涯での伝道は、御自身の十字架と復活の予告を分岐点として、その前後で、大きく変わっていきます。そして、十字架と復活予告後の福音伝道に関する記事は、ルカによる福音書だけの独自記事としても、その多くが記されております。それは、このルカによる福音書が世界伝道を視野に入れながら、執筆され、ローマの高官テオフィロあてに献呈されている(本書の冒頭に記されています)ことからも理解できます。
ヨハネの黙示録
神の力によって
ヨハネの黙示録 11章1~14節 牧師 常廣澄子 ヨハネの黙示録はよく解らないところがたくさんあって大変難しいものです。しかし、ある意味でこの黙示録は神の啓示の書ともいえるのです。私たちには覆いがかけられていて見えなくなっていることがたくさんありますが、その覆いを取り払って見えるようにしてくれる書物だともいえるということです。ヨハネに示された幻を通して、神はそれを私たちに告げています。 さてここまでのところでは、著者ヨハネは自分が見たことを、つまり天上の礼拝の様子や、ラッパを吹く度に繰り広げられる様々な出来事を語ってきました。しかし、この11章からはただ見ているだけでなく、ヨハネ自身が何らかの役割を担うことを命じられています。彼自身の行為が求められているのです。「(1節)それから、わたしは杖のような物差しを与えられて、こう告げられた。『立って神の神殿と祭壇とを測り、また、そこで礼拝している者たちを数えよ。』」