ローマの信徒への手紙 12章1〜8節
イースターが過ぎましたこの時期も、わたしたちはコロナウイルスの感染予防のために、家庭礼拝を余儀なくされています。どうか皆さまの上に主の豊かなお守りと祝福がありますようにお祈りいたします。
ローマ書からの「恵みのみ言葉」も、12章に入って参りました。この12章から15章までは、キリストの福音を信じて受け入れた者が、キリスト者として日々どのように生きて行ったらよいか、いわば実践的な生活のことが記されています。そしてここに至る前の部分(12章より以前)は、教え、すなわち教理の部分です。わたしたちは聖書に聞き、そしてこれを信じて受け入れ、日々の生活で、これを生かしながら生きて行く、これが信仰生活です。ですから「教理」と「実践」は切っても切れない関係にあるのです。
12章に入りますと1節に「こういうわけで、兄弟たち、云々」と始まっていますのは、今までの部分(“教え”の部分)に基づいて──、ということです。念のため、12章以前の教えの部分を簡単に振り返ってから、本日箇所へと進みたいと思います。
- イエス・キリストによって与えられる福音は、ユダヤ人、ギリシア人に関係なく、すべての人に一応に与えられており、信じる者すべてに救いをもたらす、神の力である(1章16節、17節)。
- しかし、キリストの福音を信じて受け入れるまで、天地創造この方、神よって祝福の内に創造されたはずの人間ですが、神に背を向けて生きてきている、という“罪びと”でした(3章9節以下)。
- しかし神は、独り子イエス・キリストを世に送り、十字架の死と復活をもって、人間を罪から救い、命を与えてくださったのです。これは神の義によってです(3章21節以下)。
- なお人は、罪許され義とされながらも、肉体的・内面的弱さのゆえ、自身の罪と闘いながら生きている、それが現実の姿でした(7章7節以下)。
- その弱さを抱えながら生きているわたしに、イエス・キリストは十字架の死と復活を通して与えてくださった、大きな愛と恵みによって、わたしたちは今、輝かしい勝利を収めており、もはやその愛から、わたしたちを引き離すものは何もない、との勝利宣言に至りました(8章37節、39節)。
- 続く、9章~11章では、いわゆる“ユダヤ人問題”がありましたが、神の愛の大きさ、忍耐強さによって、現在は福音を拒んでいるユダヤ人も救われる、として、8章の末尾同様の神賛美がありました。
早速本日箇所に入ります。その1~8節は、本書の実践的生活(12章~15章)の部分の、いわば総論的な役割を果たしている箇所です。さらに、1節・2節と、3~8節の、二つの段落に分けることができます。初めの段落は、“神の憐れみ”に基づく、実践生活の最も基本的な勧めであり、キリスト者とされた者が、神に従って生きて行く上で、とても重要なことが記されております。
1節、「──神の憐れみによってあなたがたに勧めます。」とあります。神がわたしたちに示してくださった“憐れみ”それは、前述の通り、神に背いていた人間、その罪のために滅びるばかりの人間を、御子イエスさまを十字架につけてまで、赦し、そして救ってくださった、その“憐れみ”をはじめとし、数え上げると限がない程の“憐れみ”です(なお、憐みの原語『エレオス』は複数形で示されています)。
その憐れみに基づいての勧めの内容、それは、「自分の体ごと、神に喜ばれる“いけにえ”(犠牲)として献げなさい」ということです。少々乱暴で怖い感じを受けますが、しかしそれは、極めて理に適ったことであり、「これこそあなたがたが成すべき礼拝である」、と言われる通りです。
考えてみますと、旧約の民は折に触れ、“自分の罪の贖い”のために“いけにえ”(犠牲)の動物を神に献げて礼拝をしていました。ところが時代が下って、聖書の預言通り、神は御子イエス・キリストを世に送り、わたしたちの罪の身代わりとして、十字架上に献げ、復活させられました。そのことによって、わたしたちがイエスさまを、贖い主、救い主として信じ、イエスさまと共に日々を生きていけるのです。その生き方、生活そのものが、わたしたちがなすべき礼拝であり、これこそ、理に適った(リーゾナブルな)礼拝であるといいます。真にその通りです。
次に、生きて行く上での“具体的な心がけの勧め”が二つ記されております。
(その1)あなたがたはこの世に倣ってはなりません、“世に倣って”は、口語訳聖書には「この世と妥協してはなりません」とあり、また新改訳聖書では「この世と調子を合わせてはなりません」とあります。要するに、キリスト者として、主体性を失った“移ろいゆくこの世に身を任せる生き方”ではなく、また“妥協して生きる生き方”も採らないように、と言っております。
(その2)“心を新たにして自分を(神に)変えていただくこと”、そして、神の御心を求め、善いこと、神に喜ばれることを知り、また、“なにが完全なことであるかを弁えるように”、との勧めです。
以上はとても難しいかもしれませんが、日々の生活において、いつもこのことを考えながら生きて行く、このことこそ、わたしたちのなすべき礼拝なのです。
二番目の段落、3節以降に入ります。3節に「わたし(パウロ)に与えられた恵によって、あなたがた一人一人に言います。」とあり、ここからは、パウロ自身の体験、すなわち“証”として一人一人に伝えている言葉です。
使徒パウロは、かつて、キリストの迫害者から、キリストの伝道者へと変えられ、それも人一倍活動的な働きをして参りました。その体験記の一つが、第一コリント書の15章8節から11節にあります。「そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。わたしは神の教会を迫害したのですから使徒たちの中でもいちばん小さい者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。――今日わたしがあるのは神の恵みによってです」とあります。この言葉は、ひたすら神が与えてくださった恵みを讃えながら生きることを示す言葉です。 わたしたちが“主のために働く”こと、そのようにしてくださるのも“主の恵み”なのです。そして次は三つのことを伝えております。
- まず、「自分を過大評価しないように」、と言います。口語訳聖書はここを「思うべき限度を越えて思い上がらないように」としています。多少違うイメージで伝わってきますが、逆にわたしたちは、あれもこれもと考えてしまいがちですが、それぞれに神がいま与えてくださっている、信仰の度会いに応じて、慎み深く(自分を)評価すべきです、と言います。いかにも日本的な勧めの言葉です。要は、落ち着いて、自分の置かれている立場、与えられている恵を知ったうえで、祈りを持って、積極的に恵にお応えしていくことが大切であることを示されます。
- 次に考えておくこと、それは、人それぞれに、ほかの人とは違う賜物を神からいただいている、ということです。聖書では、それを、体の部分、部分(肢体)に例えており、それぞれが、形も違えば、働きも違うと教えています。ですから、他人と比較して、自分はどう、こうと考える必要はなく、要は、自分がいただいている、その賜物と役割に応じて、それを最大限に生かし、活用することが大事です。
- 先ほどは、個々人に神から与えてくださった賜物のことを見てきましたが、今度は、キリストのからだ全体、共同体全体の働きに注目していきます。
5節「わたしたちは、数は多いが、みながキリストに結ばれて、一つの体を形づくっている」、と記されています。なお、この部分は、コリントの信徒への手紙一12章12節以降にも同様の記事がありまして、そこでは、「一つの霊によって、わたしたちは、--(中間省略)皆一つの体となるためにバプテスマを受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。」とあります。すなわち、教会に連なる一人一人は、①御霊なる神、神とキリストの霊によって、統一されて一つの体とされている、そして、②わたしたちそれぞれが、バプテスマを受けて教会の群れに加わるときは、皆一つの霊を飲ませてもらったといいます。すなわち神の霊をわたしたちの体の中に宿らせてくださった、と言っており、まことに当を得た表現だと思います。
次、6節b 以下に入ります。ここでは、それぞれ神からいただいた賜物を用いての、教会の中での具体的な働きが記されています。その働きは、もちろんこのローマ書が執筆された一世紀の中ごろ、55~56年ごろの教会の役割にしたがって書き記されております。
「預言」、「奉仕」、「教える人」、「勧める人」、「施しをする人」、「指導する人」、「慈善を行う人」、等々全部で七つ記されていますが、一応に勧めていることは、それぞれの働きを、精一杯、そして快(こころよ)く行うように、とのことです。
そして当時の社会は今ほど豊かではありませんでしたので、教会は社会で貧しくされている人達のことを思いながら、「施し」、「慈善事業」も行っている姿を見ることができます。
それぞれの役割を見ますと、「預言」、「教え」、「指導する人」などいわゆる表舞台で活躍している人がいる一方では、「奉仕をする人」、「施し」、また「慈善の行い」など、一見、裏方的な働きのように思われがちな役割もあります。主イエスさまが社会の隅々まで足を運んで、病を癒し、社会では決して表舞台に出ることの少なかった人々のところにも行って、手取り足を取って、神の憐れみを届けてくださっていた、その“憐れみ”を「あなたも行ってその通りしなさい」と言われている、そのご命令を実行に移している人々のように思いを馳せることができます。そしてこのことは、今日のわたしたちにとっても参考となります。
多くの恵み、憐みをいただきながら、わたくしたちも、日々の働きである霊的な礼拝へと遣わされて参りましょう。
(牧師 永田邦夫)