神が定めた支配者への従順

ローマの信徒への手紙13章1〜7節

 本日も、この礼拝に招かれましたことを感謝いたします。新型コロナウイルス感染防止のために、自宅待機、そして家庭礼拝を余儀なくされておりましたが、久しぶりに先週から教会での礼拝を持つことができまして、本当にうれしく感謝しております。
 2020年度が始まりましてから、会堂での礼拝は本日が二回目となります。会堂の前方講壇の横には、年間主題「主にあって日々新たに」と、聖句「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る」が掲げられておりますが、先週、礼拝が始まる前に、これを執筆してくださったかたが感慨深そうに、この貼り紙を眺めていたのが印象的でした。
 わたしたちは、どんな困難な時も、この主題および聖句が示すように、主に望みを置きつつ、日々新たにされて、この苦難から立ち上がり、鷲のように翼を張って立ち上がることができますように、と願っております。

 本日の説教箇所は、ローマの信徒への手紙13章の1節~7節からですが、先々週から12章以降に入っておりまして、キリストの福音によって「義」とされた者が、日々どのように生きていったら良いか、いわゆる“実践的生活”のことが記されている箇所です。参考までに前回、前々回の箇所を簡単に振り返ってから本日箇所に入っていきたいと思います。

 前々回、すなわち12章の初めでは、キリスト者の日々の生活そのものが、体ごとささげる“生きた礼拝”であり、またわたしたちがなすべき“霊的な礼拝”である、と示されておりました。そしてこのことは、12章以降の全体に係わるのです。
 前回は12章9節から終わりまで、わたしたちの日々の“生きた礼拝”で最も基本となるのは、“キリストの愛に基づく兄弟愛”である。愛には偽りがあってはならない、そして、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(12章15節)のみ言葉が示されておりました。この聖句は、わたしたちに馴染みの聖句でもあります。以上を受けて本日箇所13章に入ります。
 13章1節に入りますと「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。」と始まり、「神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。」と結んでいます。先ずこの聖句を読んだとき、わたしたちは「ううん──?」と緊張感、驚き、あるいは、躊躇(ためら)の念に駆られます。
 「上に立つ権威」とは字義的には、“すべての組織で、上に立つ人すべて”とも取れますが、ここはやはり、「国の上に立ち、権威の座についている人」と解釈されてきました。わたしたちがもっている、“上に立つ権威”またその“役割をもっている人たちへの印象”については、ひとまず置いておいて、聖書の本日箇所に入っていきたいと思います。

 先ず初めにこの箇所、1節からの数節に目を通して参りましょう。1節のbから2節「神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう。」とあります。すなわち、今ある権威はすべて、神によって定められ、神によって立てられたものである。だから、この権威に逆らい、背くものは、そのことによって、自分の身に裁きを招く、といいます。
 さらに3節へ進みますと、「実際、支配者は、善を行う者にはそうではないが、悪を行う者には恐ろしい存在です。あなたは権威者を恐れないことを願っている。それなら善を行いなさい。そうすれば、権威者からほめられるでしょう。」とあります。これはずばり、“勧善懲悪”であり、“信賞必罰”の考え方です。わたしは子どものころ、親から「悪いことをするとお巡りさんに連れていかれるよ」、とか、「嘘をつくと閻魔(えんま)さんに舌を抜かれるよ」などと教育されたものです。

 このローマ書が書かれている時代背景や、ローマ書の著者パウロの言葉に思いを馳せてみますと、このローマ書が執筆されたのは56年頃ですが、当時すでにイスラエルは、独立国ではなく、ローマ帝国の支配下にありました。また一方、宛先ローマの教会の人々は、と言いますと、いわゆる“散らされた民”イスラエル人も勿論いましたが、ローマの人々に加えて、他国から来た人々もいたことでしょう。このような、教会のメンバー構成に基づいて、パウロは「あなたがたは全て、上に立つ権威に従いなさい」、と言っているわけではありません。そうではなく、「お互に全ては、神に導かれ、神に生かされている、また一方、権威の座にいる者も然り、その役職も神によって定められたものです。ですから、あなたがたは、上に立つ権威には従うべきである。」と言っているのです。

 次は、パウロ自身に目を向けますと、ローマ書の執筆は、前述の通り、56年頃ですが、その後、エルサレム行きを果たして、64年ごろ(60年という説もあり)には、ローマでの殉教の死を遂げております。13章に戻りますと、1節から7節で、“支配者への従順”を説いたのち、次の段落では、“隣人愛”について語っております。
 すなわち、この“隣人愛”は、キリスト者のこの世の生活(“生きた礼拝”)において、最も基本的なものである、と告げております。なぜなら、「あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。今やわたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。」と、いわば、パウロの“研ぎ澄まされた終末論的感覚”をここに見ることができます。
 本日箇所4節に戻ります。「権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。しかし、もし悪を行えば、恐れなければなりません。」、そしてさらに、「権威者はいたずらに剣を帯びているのではなく、神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いるのです。」。

 神は天地創造のとき、「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、云々」、これは、創世記の1章1節、2節からの言葉からです。神は、「闇」の中に「光」を送り、「混沌」、「深淵」を整えて、「陸」、「海」、「空」、そのほかを造りました。またさらに神は、御自分に似せて「人」を造られ、人の世界を秩序立ったものとされました。長く歴史が降って、今日の社会において、人が、秩序立って生きていけるように、いわゆる“三権分立”の制度が整えられております。
 このことによって、社会には、何も問題ないように思いますが、実は、日々、支配者と被支配者との間に、国と、国の間に、人種と人種の間に、問題や争いが絶えません。これがまた現実の姿でもあります。

 冒頭の1節、「人は皆、上に立つ権威に従うべきです」をお読みしました時、わたしは言いました。「この1節のみ言葉から、わたしたちは、“驚き”や、“緊張”そして“躊躇(とまど)い”を禁じ得ない、」とです。人類の歴史の中で、特にわたしたちの記憶には新しい、20世紀の歩みの中にです。第一次世界大戦、そして第二次大戦で、悲惨、そして不幸な経験をいたしました。
 国のトップに立つ支配者の考え方、采配、によって世界は、「善」ではなく、「悪」によって、「平和」ではなく「剣」によって世界は脅かされ、翻弄され、そして多くの犠牲者を生みだしたりしております。

 16世紀、フランス人の宗教改革者にジェーン・カルヴァンという人がいました。カルヴァンはルターに20年遅れて生まれた人で、スイスのジュネーヴで活動した宗教改革者です。彼の著書に「キリスト教綱要」がありまして、プロスタント神学を体系化した書(組織神学:人の生き方などを神学的に見ていく)ですが、その中に「神と国家」のことが記されておりますのでこれをご紹介します。
「国家もその為政者(上に立って政治を行う人)も神によって定められたもので、民はこれを尊重し、従わなければならない。しかし、為政者が、神の意志に背くような行為を民に強いるようなときは、これに抵抗しなければならない。」として、国家に対しての、教会の自由な立場を主張しております。そしてさらにカルヴァン言います、「教会は、国の上に立つ権威の座についている者が、誤りのない道を歩むように絶えず祈り、そして勇気をもって警告していくべきである。」と記しており、キリスト者の中には、本当に勇気をもってこれを実行した人も沢山います。

 聖書に戻りまして、5節には「だから、怒りを逃れるためだけでなく、良心のためにもこれに従うべきです。」とあります。“これに従う”ということの中身には、カルヴァンが言うように、為政者のために祈り、神のみ心にそぐわないときは、そのことを、積極的に伝えていく勇気と行動力が必要であることを含んでいるのは、前述の通りです。
 この後聖書には、国に対する「貢」、「税」のことが記されておりますが、これについては、すでに、主イエスさまが言っております。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」(マタイによる福音書22章15節、ほか共観福音書)とです。このみ言葉は、ファリサイ派の人々がイエスを試みようとして「皇帝に税金を納めるのは律法に適っているか否か」と尋ねた問いに対するイエスさまの答えです。
 要する、“キリストにある者も、現実に生活するこの社会に在って、その果たすべき責任を果たし、さらに、敬うべきは敬いなさい。これも律法の掟に含まれる”、と言っているのです。

 本日わたしたちは、ローマ書13章の1~7節から、まず、「上に立つ権威には従うべきである」とのみ言葉がまず示されました。この言葉に、わたしたちは大きな戸惑いを覚えさせられるのも事実ですが、この「上に立つ権威」「支配者」も神が定めたもう、権威であり、その人たちもまた、神に仕える身であることを教えられました。この、上に立つ人たちが神のみ旨に沿った業が果たせるように、わたしたちは、神に祈り、また意見を発していくことができるように、またその方法を模索していくことが求められています。
 そのことを覚えながら、日々の“生きた礼拝”を送っていけますようにと願っております。

(牧師 永田邦夫)