2022年7月17日 主日礼拝
ローマの信徒への手紙2章1~16節
牧師 常廣澄子
前回は、1章の後半部分から、人間の不義ということについて考えてまいりました。神の存在を無視し、神の御心を離れた人間の心は、羅針盤を失った船のように、どこまでも人間本来の道から反れていくのだということをお話ししました。1章29-31節には「悪の目録」とも言われている不義のリストが掲げられていますが、これらの不道徳な言葉の数々は不信仰の表われです。ところが人間は、こういうことを行っていても、神から来る福音の光に照らされないならば、それが悪いことだとは気づかないのです。
真の神を知らないでいると、人間はこのようなあらゆる悪や貪欲、性的な乱れ、欺き、不誠実、高慢、無慈悲、無情といった不道徳や不正の中で生きてしまうのですが、これは何もこの当時の人たちだけのことではありません。あらゆる時代の人間が持っている精神的態度です。ですから、すべての人が神の怒りのもとにあり、来たるべき時には神の裁きが行われるということが言えるのです。今朝お読みした個所ではそのことをさらに明確に表しています。
まず、はじめに、パウロは神の裁きがあることは当然であるということを語っています。「(1-5節)だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。神はこのようなことを行う者を正しくお裁きになると、わたしたちは知っています。このようなことをする者を裁きながら、自分でも同じことをしている者よ、あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか。あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。」
お読みしたところはあらゆる人間に向かっての呼びかけです。つまりこれは私たちに向かって語られているのです。私たちが生きている社会には、とかく自分のことは棚に上げて、他人の言動に口を出し、あの人がやったことは間違っているとか、この人がこんなことを言うのはけしからんと言って責め立てる人がいます。いろいろな場面でそういう人がいるのを見たり聞いたりしておられるでしょうし、実際に自分を含めて多くの人が何らかの形でやっていることです。しかし、他人を裁くということは自分を罪に定めていることなのだとパウロは語るのです。人の物を盗んだことはないにしても、ああいうものが欲しいと思ったことはあるでしょう。あるいはあんな嫌な人はいなくなれば良いのに、と思ったこともあるかもしれません。そういう心は人の目には見えませんし、誰にもわかりませんが、神の前では盗みや殺人と同じように罪なのです。
そうだとしたら、他人を責めながら、自分もまた同じことをしているのですから、裁かれるのは当然です。「(3節)このようなことをする者を裁きながら、自分でも同じことをしている者よ、あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか。」人を裁く人は、明らかに自分の方から神の裁きを招いているのです。しかし、神はすぐにはその人を裁きません。この世にあっては、人が何か悪いことをしたとしても、天罰てき面という事態になることはとても稀で、多くの場合、何の罰も受けないばかりか、悪い人がますます栄えていくということがよくあります。しかしこれは神がその人への裁きを止めたわけではなくて、「その豊かな慈愛と寛容と忍耐」の心で、その人が悔い改めるのを待っておられるのです。ところが、人間というものは、神の裁きが起こらないことを良いことにして、ますます頑なになり高慢になってしまうのです。5節にあるように、それはちょうど神の怒りを蓄えているようなものなのです。
この蓄える(積む)という言葉は、「天に宝を積む」という時に使う言葉と同じです。それを、宝ではなく、逆に神の怒りを蓄えている(積んでいる)というように用いているのは何とも皮肉なことです。天に宝を積んだ人がそれを受け取る日が来るように、神の怒りを積んだ人は、終わりの日にそれを受け取ることになるのです。私たちは神の裁きが猶予されている間に、悔い改めなければならないのです。もしそうしないならば、「(5節)この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。」やがてすべての隠れたものが顕わになる終わりの日に、蓄えていた神の怒りが裁きとなってくるとパウロは語っています。
その時、神がどのような方法で人を裁かれるのか、人間にはわかりませんが、ここでパウロは神の裁きの原則を明らかにしています。「(6-11節)神はおのおのの行いに従ってお報いになります。すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになります。すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、苦しみと悩みが下り、すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。神は人を分け隔てなさいません。」
ここで、「(6節)神はおのおのの行いに従ってお報いになります。」とあるように、神の裁きは各人の行為に応じて行われます。善を行う人にはそれにふさわしい報い「栄光と誉れと平安が与えられ」、悪を行う人にはそれに応じた裁き「苦しみと悩みが下る」というのです。パウロはガラテヤの手紙6章7節でも「思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。」と語っています。神の裁きの原則は変わらないのです。ユダヤ人とギリシア人という人種の違いも、自由人と奴隷という階級の相違も、男と女という性の区別も、すべて神の裁きの前では問題ではありません。人はただ人間として生きたことやったことを神の前で問われるのです。
しかしこれは、「人は信仰によって義とされる」というパウロの主張と矛盾しているかのように思われるのではないでしょうか。けれどもよく考えてみると、道理に適っているのです。確かに人は行いによらず、信仰によって義とされるのですが、信仰によって義とされた人は、神から新しい命を授けられて生きていますから、その結果おのずと良い行いができるようになってくるのです。神への正しい信仰を持って生きるなら、必ず正しい生活へと導かれます。
ところで、今、社会で起きていることや人々の生活を考えてみると、信仰を持って生きていくということは容易なことではありません。現代社会は今、本当に刹那的な快楽や過ぎ行くもので満たされています。そういう物質社会にあって、神から与えられる「栄光と誉れと不滅のもの」を求めて生きていくのは、大変な忍耐が必要です。
「(7節)すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり」ここでは、神はそういう人に永遠の命を与えられると書かれています。永遠の命とは、単に時間的に永続するという命ではありません。神の永遠の祝福につながる霊的な命です。しかし、この世の多くの人たちは、神を認めて素直にそれに従うのではなく、それとは反対に、世間の多くの人たちや周囲の仲間たちがしていることに追従するだけです。パウロが8節で「反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者」というのはそういう人たちのことです。
「(12-13節)律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます。律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。」神が人を裁くのは、画一的ではありません。ユダヤ人のように、モーセの律法を与えられ、それによって善悪を知った民族はその律法を基準として裁かれるし、ギリシア人やローマ人のように律法を持たない民族は、それぞれの道徳律によって罰を受けるというのです。
しかし、律法を持たない異邦人でも、律法に定められているようなことを生来の直観をもって行うことがあります。そういう場合は、たとえ律法を持っていない民族であろうと、彼ら自身が律法の働きをしているというのです。「(14-15節)たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。」彼らはモーセの律法のような成文化された律法は持っていないけれども、彼らの心に「律法が要求する事柄が記されている」のだと言うのです。「(15節)彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。」パウロはユダヤ人と異邦人の間には何らの差別も認めなかったのです。
ここには良心という言葉が出てきます。パウロは異邦人伝道を自分の使命としてきましたから、律法を持たない異邦人は、何によって自分の行為を律してきたのかと考えざるを得なかったのでしょう。そこでパウロは人間の良心ということを考えたのです。異邦人にとって律法は良心という形で与えられるということです。ここで展開されている良心についての解釈は、大変重要なことを教えています。「(15節)また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。」とあるように、良心は二面性を持っているということです。その一面の「互いに責めたり」というのは、例えば検事のような役割であり、他方の「弁明し合って」というのは弁護士のような役割です。人間社会では検事と弁護士は、一方は攻める側、他方は守る側というように、全く対立するものです。人間の一つの心の中に、一面では検事、他面では弁護士の役割をするものがいるというのですから、同じ良心が二役を演じているというわけで、良心とは大変複雑なものです。
良心は英語でコンシェンスと言います。コンは共にとか一緒にという意味で、シェンスはサイエンスのことですから、科学、学問、知識などの意味があります。従って「共に知る、一緒に知る」というのがコンシェンスの本来の意味であり、良心の本質です。そこで、良心を理解する時に大事なことは、私が誰と一緒に知るのか、ということです。一般的には、私が他の人と共に知る、それが良心の働きだと解釈されています。道徳や法律はどのようにしてできたかと言えば、人間同士が約束して決めたのです。例えば、私は殺されるのが嫌だ、あなたも嫌でしょう、では私とあなたが約束して、殺すのは悪いことだと決めましょう、というようにして、「殺人は悪い」という道徳や法律ができあがります。人々が約束しあって道徳や法律を決めていく考え方です。だいたいこういう考え方で社会は治まっているのです。
ところが、ドストエフスキーの「罪と罰」のラスコーリニコフの心を襲った苦悩を考えてみましょう。ご存じのように彼は「殺人は悪である」という罪の概念を踏み越え、良心を納得させて、金貸しの老婆を殺して宝石などを奪います。確信犯です。ところが思いがけずそこに帰って来た妹までも殺してしまったのです。それでその直後から猛烈な苦悩が彼を襲ったのです。良心が彼を弁護しますが、一方である力が彼をさいなみます。彼は自分の良心は手なづけていたのです。ところがこの良心が検事の役割をし始め、責め、訴えるものになってしまったのです。良心が自分を責めるということは、つまり自分自身の良心ではあるけれども、良心には自分を超えたところがあるということです。自分の良心だから、自分の味方でいてくれると思ったら大きな間違いだったのです。超越したところから良心に声が送られてくるのです。それが16節です。「そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。」これによると、良心の声は、福音の光の下で、キリスト・イエスによって隠れた事柄を裁かれる日に明らかになるのです。
つまり、罪の本当の裁き、つまり解決は、律法とか呵責の念とかではなく、罪の赦しの福音によってはじめて与えられるということです。罪というものは赦されて初めてわかるものであって、責められてわかるものではありません。最後の場面でのラスコーリニコフの自白は、ソーニャという女性がラザロの復活の記事を読む時に決意できたのです。罰で脅かされて罪を認めるのでなく、罰すべき神が、罰せられるべきラスコーリニコフを赦してくださるというソーニャの言葉が彼を罪の告白に至らせたのです。罰という裁きではなく、赦しと愛の神のお働きを心から感謝いたします。私たちもまた彼のような罪深い人間の一人であることを自覚する時に、福音信仰への道が開かれていきます。主を信じて生きる道は決して楽ではありません。しかし私たちは困難を覚悟し、忍耐を持ってこの一筋の道を歩んでいきたいと願っております。
(牧師 常廣澄子)