信仰による義

2022年10月23日 主日礼拝

ローマの信徒への手紙 3章21~31節
牧師 常廣澄子

 前回は「義人はいない」ということについてお話いたしました。人間は神から与えられた律法、あるいは一人ひとりの心にある良心によって物事の善悪を知るわけですが、人間はどんなに頑張っても神がお求めになられるような正しい生き方、つまり律法を完全に守って生きていくことはできないということです。しかしながら自分の力ではどんなに努力しても神の御心にそった生き方ができないと気づかされることによって、神の前に罪人であることを悟っていくのです。それが20節の「なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」ということでした。実に12節にありますように「皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。」というのが現実の人間の姿なのです。

 ところが、今朝お読みいただいたこの21節からは全く新しいテーマが展開されています。ここからは「神がイエス・キリストによって救いを提供しておられる。」ということが主題になっています。神は罪人としての人間を救おうと計画され、イエス・キリストによって人間の罪と負債を贖うという愛に溢れた救いを提供されたのです。

 20節に「律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」と記されていますが、人間が自分の罪を自覚するということは大変厳しく辛いことですが、これはどうしても必要なことです。神による救いを得るためには、自分が罪人であることを認めなければならないのです。人間は自分の罪を認めることができて始めて、救い主の必要性がわかるのです。

 自分が神の前に罪人であることに気づかない、つまり罪に対して盲目であるならば、救いについて考えることなどありえないと思います。しかし、いったん心の目が開かれ、人間が神から離れていること自体が罪だとわかった時には、どうしても救いが必要になります。聖書のあちこち(ヨハネによる福音書14章6節他)にはっきり書かれていますように、イエス・キリストによらなければ人間は父なる神のもとに行くことができないのですから、私たちはどうしても救い主イエスを必要としているのです。

 罪という言葉はあまり使いたくない言葉ですし、そのことについて考えることも避けたい事柄ではあります。しかし律法を与えられた聖書の民ユダヤ人はもとより、どんな人間でもその心には良心がありますから、人は誰であれ、頭で考えるようには正しく生きていくことができない自分の弱さや罪深さをよく知っているのです。つまり神の前では何の区別もなく、すべての人間は皆神の前では罪人だということです。そしてそういう人間の心の中には、生と死という生存に対する根本的な不安と心配があります。この不安や心配を抱えた拠り所のない生き方、土台のない生き方の中から、人間はいかにして神の前に義とされるのか、という非常に深遠で大切な問いが出てくるのです。

 では、神と人間の間にあるこの不安定な関係を、しっかりした正しいものにするにはどうしたら良いのでしょうか。人間に何かなすべきことがあるのでしょうか。人間の側に修復の可能性はあるのでしょうか。それとも私たち人間は永遠の滅びと裁きに服さなければならないという絶望的な状態なのでしょうか。この問いに対して、私たちに慰めを与えてくれる素晴らしい答えが21節です。「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。」この「ところが今や」という言葉は、まったく新しい時代が始まったことを表しています。

 今申し上げましたように、人間に罪があるのは否定しようもない事実です。そしてその罪に対して罰があることも事実です。そしてその原因として考えられるように、人間が命の源である神を忘れ、神から離れているということも事実です。しかし人間が、神が求めるような律法の行いを成し得ない存在だと気づいた時、つまり人間の力に絶望した時に、まったく思いもしないところに神の導きがあったのです。

 つまり人間から神への道がないと悟った時に、逆に神から人間への道が開かれたのです。それがイエス・キリストによって具体化した救いの出来事です。神が人間を義とする恵みの道は、イエス・キリストによって私たち人間にもたらされたのです。そしてこれはイエスを信じるすべての人に与えられました。それが神の義です。神の前にあっては、すべての人は罪人ですけれども、同時にすべての人は神の愛の対象であり、誰一人として神の愛からもれる人はいないのです。

「(23-24節)人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」ここでの「義とされる」という動詞は、文法的には現在分詞という形です。ですから一度だけ義とされるというのではなく、その後も絶えずずっと義とされ続けていくという意味があります。ここからは、私たちの信仰というのは、絶えずイエスの十字架を仰いで生きていくところに成り立っているということがわかります。

 旧約聖書レビ記25章には「安息の年」や「ヨベルの年」のことが書いてあります。安息の年は、7年目ごとにあり、その年は種をまくことも収穫物を刈り取ることも禁じられていました。その年は人間だけでなく土地も休ませなければならなかったのです。人間はこの戒めを守ることによって豊かな恵みに与ることができました。(ところが今日では土地を休ませるどころか反対に農薬や肥料を使って、できるだけ多くの収穫物を得ようと一生懸命になっています。これでは土地が痛んで固くなってしまいますし、現代の人間が健康でなくなってきたことの原因の一つかもしれません。)

 ここには「ヨベルの年」という言葉が出てきますが、これは喜びの年という意味で50年目ごとにやってきます。そしてヨベルの年には、それまでのすべての負債や債務などがすべて取り払われ、以前自分が所有していた土地がもとのように返されるという特別の定めがありました。奴隷もまたヨベルの年には解放されたのです。

 では、何のためにヨベルの年があったのでしょうか。主なる神は、自分の所有物や自由を失ったイスラエルの民が、もう一度もとどおりの状態に立ち返ることができるようにと、ヨベルの年を定められたのです。イスラエルの民は誰でもこういう逃れの道、あるいは解放への道があること、いつの日か新しい出発ができる時が来ることを知っていました。ヨベルの年はまさに主の恵みの年であったと言えます。そしてこのヨベルの年に与えられるような人間の本当の意味での解放は、主イエスがなされた救いの御業によって始まったとも言えます。イエスはそのお働きの始めにナザレの会堂で、イザヤ書の中のヨベルの年について書かれた個所をお読みになられました。(参照:ルカによる福音書4章18-21節)

 そのイザヤ書61章1-2節には「主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。私を遣わして貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために。主が恵みをお与えになる年」とあります。
パウロはコリントの信徒への手紙二 6章2節で「今や、恵みの時、今こそ、救いの日。」と語っていますが、私たちは今、恵みの年、ヨベルの年に生きていると言えるのです。

 今まで私たちは、罪を裁くお方として神を見て来ました。しかしその怒りの神が罪人を赦して義
とされる救いの道を提供しておられるのです。いったいそのようなことがどうして可能なのでしょうか。旧約聖書の中にはそのことを示す象徴的な出来事が書かれています(レビ記16章参照)。
旧約時代、神は契約の箱が置かれているところに御臨在なさいました。そしてその契約の箱の中には、石に書かれた律法が収められていました。そして大いなる贖罪の日には、民の罪を贖う祭儀としてこの契約の箱の上に、いけにえの動物の血が振りかけられたのです。それと同じように、神は、キリスト・イエスの血が流されることによって、罰を受けるべき人間に赦しを与え、恵みを与える神となられたのです。罪人に対する神の罰はイエスの上に下されました。これはすなわち、イエス・キリストが十字架の上で流された血潮によって、「罪の代価がすでに支払われた」ことを表しているのです。この出来事に基づいて、へブライ人への手紙の著者は次にように書き記しました。「それで、兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。」(ヘブライ人への手紙10章19~20節)

 人類の罪は主イエスの血によって覆われました。主イエスという救い主の血潮によって、人間が負うべき負債が支払われたのです。主イエスご自身が全人類のかわりにこの負い目を一身に受けてくださったからです。「(25節) 神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。」この御言葉のように、主を信じるすべての人は義とされ、永遠の命が与えられるのです。

 神の義は、人間の努力の結果ではなく、ただ信じる者に与えられる神の賜物「信仰による義」です。神の義については、あの有名な放蕩息子の話を考えると良くわかります。放蕩息子が父の家を離れて身を持ち崩し、罪を悔い改めて帰って来た時、待っていた父親は彼をかき抱いて喜び迎えました。これは完全な赦しの現れです。それだけでなく、父親である神は悔い改めた息子に上等な上着を与え、召使いとしてではなく、元通りの息子として、以前と同じ権利と自由を与えたのです。そして彼のために盛大な祝宴を開きました。神のもとに立ち返って来る人を、神はこのように愛を持って迎えてくださいます。「(26節)このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。」

 25節には「今まで人が犯した罪」という言葉があります。これは神を信じた者一人ひとりが、信じる前に犯した罪ともとられますが、むしろ、キリストがこの世に来られる前の人類全体の罪と受け取る方が適当ではないかと考えられています。人類が滅びを免れて存続してきたのは実に神の忍耐によるのです。しかし神の時が来て、神がご自身の義をあらわすために、人類の罪を罰する時がきたのですが、その時神は人類を罰する代わりに、考えつきもしないお方、御子イエスをお立てになって、彼を十字架の上に死なせて人類の罪を罰し、人類に赦しを与えたのです。

 ですから「贖い」というのは、神がキリストを十字架につけることによって、人類の罪を罰して、同時に人類の罪を赦されたことです。そして、そのことを信じる者が義とされる「信仰による義」の道が開かれたのです。信仰とは救いに至る道のことです。神から与えられた救いの贈り物は、それを受け取ることによってはじめて自分のものになります。信仰とは備えられた道を歩むことです。自分で救いの道を拓くことはできませんが、イエスが拓かれた救いの道を歩んでいくことなのです。イエスが成された救いが自分のものになることです。ですからパウロは27-28節で「では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。 なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。」と語っているのです。

 ここでパウロははっきりと、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただ信仰によるのであると言っています。神の前に義なる者とは、神が約束されたこと、成されたことを認め、神の提供された贖いの御業を素直に信じる者のことです。差し出された贈り物を受け取ること、あるいは備えられた道を歩むこと、すなわち神の救いの業を信じること、これは決して私たちの誇りとなることではありません。ただ神が成してくださった恵みなのです。私たちは今、感謝すべきヨベルの年、恵みの時を生きているのです。そのことを今一度思い起こし、救いの道へと招かれたことを感謝して、新しい一週間を歩んでいきたいと願っております。

 最後にローマの信徒への手紙8章1節をお読みいたします。「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。」

(牧師 常廣澄子)