2023年3月26日(主日)
主日礼拝
ローマの信徒への手紙 5章12~21節
牧師 常廣澄子
私たち人間が住むこの地球上で、今、国と国がいがみあい、人間同士が殺し合いをしています。理由がどうであれ、人が人を殺すということはやってはならないことです。一方的で独善的なこのような戦争は、誰が見ても誰が聞いても理不尽なことではないでしょうか。いったい人間の心には何があるのでしょうか。人間というものは、どうしてこのような行動を起こすのでしょうか。国と国の関係だけではありません。私たちはすぐ身近にいる人に対してさえ、妬みや憎しみという悪い感情を抱いてしまい、ついには殺人にまで発展してしまうことがあります。
パウロは5章前半で、神を信じ、神と和解した者の喜びと祝福について語りましたが、ここからは人間の始祖アダムと救い主キリストとを対比しながら人間の本性について語り、福音の真理を別の角度から明らかにしようとしています。
「(12節)このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。」ここでは「一人の人によって罪がこの世に入って来た」と語られています。この一人の人とは言うまでもなくアダムです。創世記によれば、神は最初に造られた人間をアダムと呼びました。ヘブライ語でアダムは人間または人類を表す言葉です。またアダムによって罪がこの世に入って来たというのは、アダムが神の命令に従わずに知恵の木の実を食べたということ、そしてそれ以来、人間は罪を犯すようになったのだと言っているのです。
このような話を聞くと、高度に科学技術が進んだ現代世界に生きている多くの人たちは、何かおとぎ話か古い昔話を聞いているように思うかもしれません。しかしパウロは、アダムとキリストの関係の中に、人間の本性や矛盾を解く一つの手がかりを発見しているのです。
ここで問題とされているのは、アダムという人物がはたして実在したかどうかとか、祖先の罪が子孫に遺伝するかどうかというような話ではありません。人類の祖先とされているアダムを一つの象徴として取り上げて、人間の本性について考えていこうとしているのです。
「(14節)実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです。」この「来るべき方を前もって表す者」とはどういうことでしょうか。「来るべき方」というのは、来るべきメシア、すなわちキリストのことだろうと考えられます。アダムという人間は、少なくともある点ではキリストに似たところを持っているということなのでしょう。この二人はどちらも大きな立場を表していて、アダムは罪と死の初めであり、キリストは恵みと命の初めだということで、互いにその初めであるという点では似通っています。そして一人の人間アダムから罪と死が全人類に及んだように、一人の救い主キリストから恵みと命が全人類にもたらされたのです。
アダムは生まれたままの人間、自然のままの人間を代表しています。ですからアダムの中に人間の本性がどんなものかということが象徴的に表されているのです。では、人間の本性はどのようなものなのでしょうか。人間の心に本来宿っているのは善なのでしょうか、悪なのでしょうか。これは古くからいろいろなところで取り上げられ、論争されてきた大問題です。
古い時代、文明が進んでいた中国(紀元前3~4世紀)では、孟子が性善説を唱え、荀子が性悪説を唱えました。二人は全く相反する立場を表明しています。つまり両方の考え方があるわけです。では私たちが信じている信仰はそのどちら側についているのでしょうか。それは性善説でも性悪説でもありません。その両方の要素を含んだ立場なのです。これがキリスト教で言われるところの「原罪説」という立場です。
原罪説の萌芽は、創世記にある人間の創造と堕落の物語に始まります。すなわち、アダムは神の形にかたどって造られた最高の被造物で、エデンの園に住んでいたのですが、悪魔の象徴である蛇に騙されて神の命令に背き、知恵の木の実を取って食べたためにエデンの園から追放され、苦しみつつ働き、かつ死を恐れて生きる者になったというのです。この物語の中には、人間はもともと善と幸福に生きるべきものでありながら、現実には罪と死のもとにあるということが言い表されています。パウロが言いたかったのは、まさにこの事実だったのでしょう。
「(12節)このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。」罪を犯すまでのアダムは、神に造られた時のまま、本当に天真爛漫で聖らかな人間でした。しかし罪を犯して以来、彼は罪と死の支配下に置かれてしまったのです。これはアダム一人のことだけではなく、アダムの子孫である全人類にも波及していきました。これはアダムの罪がその子孫である私たち人間に宿命的、機械的に及んだというのではなく、人間一人ひとりの罪責もまたこれに参与しているのだということです。パウロは「すべての人が罪を犯したからです」という言葉で、誰一人弁明してその責任を逃れ得る余地はないのだということを語っています。
実際、人間は善と幸福を願いながらも、罪と死に悩んでいます。人間の本性には、この二つの相反するものが宿っているのです。すなわち正直に生きよう、真実であるべきだと思いながらも嘘をつき、偽りの行動をしてしまいます。心では優しくしようと思っているにもかかわらず、冷たくきつい言葉が出てきてしまいます。これら二つの相反するものがアダムの末裔である私たち人間の中で絶えず争っているのです。すべての人間はこの二重性からのがれることができません。
しかしこれらの矛盾し相反する二つの思いを持つ人間に、新しい秩序と統一がつくり出されていくのです。天地が造られる前、地は形なく、むなしく、闇がその表にあったと言われていますが、神はそこから万物をつくり出されました。同じように、本来の人間には相反する心が同居し、矛盾に満ち、心の定まらない存在ですが、神はそのような人間の中に新しい人間をつくり出されるのです。それがキリストによる新しい創造です。
「(15節)しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。」アダムが罪を犯したことによって、その罪が全人類に及び、すべての人が罪と死の支配下に置かれたというのであるなら、第二のアダムとも言われるキリストが現れて、人類の罪を償われたとしたら、その恵みと命がすべての人に及ばないことがあるでしょうか。ここには、アダムから始まった自然の秩序と、キリストから始まった恵みの秩序とが比較されています。そして前者よりも後者の方がより強いことが指摘されているのです。
生まれたままの自然な人間には罪と死が支配していて、矛盾する心や相反する思いが付きまとっています。それが私たちすべての人間の精神的有様です。ところが、その人間世界に新しい方向性が示されたのです。それが恵みの賜物です。この恵みの賜物とは、人間の行為や資格や立場に応じて与えられる報酬のようなものではなく、神の一方的な愛と完全で自由なみ旨によって、すべての人に与えられる賜物です。つまり贈り物、ギフトです。「(15節)なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。」とある通りです。この恵みの賜物は、アダムの罪がすべての人に及ぼした力よりも、より一層大きな力があるのです。
恵みの賜物は、それを受け入れる人の心に満ち溢れるほどに豊かなものです。つまり神の恵みを受け入れる人は、かろうじて、やっと罪と死に打ち勝つというのではなく、罪と死に勝ち得て余りある人生を送る者になるのだということです。
また、この恵みの賜物は「一人の人イエス・キリスト」を通して与えられるものです。キリストは、神と人とを結ぶお方です。このお方から神の恵みが人間に降り、人間の中に新しい創造が始まるからです。しかしキリストを通して神の恵みがこの世に注がれているにもかかわらず、多くの人はそれを知らずにいます。多くの人はアダム以来の罪の悩みと死の恐れの中にいるのです。
そこから救われるためには、自分の知恵や力による自分の義によらず、キリストの恵みを信じてそこに飛び込む勇気が必要です。ただキリストによって私たち人間に与えられた神の義を受け取るほかに道はないのです。「(18-19節)そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。」
要するに、クリスチャンとは、イエス・キリストというお方を通して神とつながり、神の恵みをその身に受けて生きている者のことです。神の恵みは無限ですから、キリストを通して神につながっているならば、私たちもまた限りない豊かな恵みを受けることができるのです。しかし実際、私たちはその生活において神の恵みと命に満ち溢れているでしょうか。おそらく多くの人はなまぬるい生活に浸かり、神のみ心に添う生活とこの世の生活と、どっちつかずの生活をしている場合が多いのではないでしょうか。キリスト無しでも充分生きていけると思い、自分の知恵や力により頼んでいるならば、キリストを通して与えられる神の豊かな恵みを十分に味わえないのは当然です。神の赦しの言葉を聞いて絶えず神の命に与って生きていくなら、私たちの信仰はもっともっと生き生きしたものとなるはずではないでしょうか。キリストを神と自分との間に立つお方として、自分の生活の中心に置いて生きていきたいと心から願っております。
「(20節)律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。」信仰を持った後でも、律法的な思い、つまり正しい行いをしなければならないという脅迫的な思いで生きていくとしたら、逆に窮屈になって神の自由な恵みからこぼれ落ちてしまいます。しかし、キリストの十字架を仰いで生きていくなら、どんな罪でも赦されて余りある神の恵みの中に生かされることができるのです。神の恵みは私たちの罪よりも深く強いからです。例えていうなら、もし人間の身体に悪い細菌が入ってくると、血液の中の白血球が増殖するそうです。白血球は入って来た悪い菌をやっつける働きをしてくれるのです。同じように、人の罪が増せば増すほど、それを赦し清める神の恵みもまた強く働かれるのです。キリストの十字架を仰ぐ人には、たとえ罪の重荷がどんなに強くあろうと、神の赦しの恵みはそれを上回って満ち溢れています。信じる者には神の赦しを妨げるものは何一つないのです。
「(21節)こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。」神を知らずに生きている時、人間は死の恐れの中で、罪の力が私たちを支配していました。しかし神の恵みを知って生きるようになるならば、神の恵みが私たちを支配し、義とされた私たちには神との平和があります。罪の力は私たちの心を束縛し、固く不自由な思いにさせますが、神の恵みの支配は、私たちに自由と解放を与えます。神の恵みが私たちの心を支配しているならば、私たちは完全な自由を得ることができるのです。この自由は留まることなく絶えず前進し、発展し、神の聖さに与っていきます。それでパウロは神の恵みが私たちをイエス・キリストを通して「永遠の命に導く」と語っているのです。
私たちは今、救い主イエスの贖いによって、豊かな神の恵みと神の義という贈り物が与えられています。神の恵みは、救い主イエスを信じる者に値なしに与えられる神からの賜物です。ですから自分の内にアダムの罪の認めると同時に、それがキリストによって完全に贖われていることを信じ、感謝して受難節の日々を過ごしていきたいと願っております。
(牧師 常廣澄子)