2023年7月23日(主日)
主日礼拝
ローマの信徒への手紙 7章1~6節
牧師 常廣澄子
ローマの信徒への手紙を少しずつ読み進めています。この6章から8章にかけての大きなテーマは、真の神を信じる信仰を与えられた人が新しい人生を歩んでいく、つまり、神の御心に添うように聖なる者となっていく「聖化」ということです。6章では、罪からの自由について書いてありました。この7章には律法からの自由、律法からの解放が取り扱われています。
前の6章には「知っています」とか、「知らないのですか」というように、「知る」という言葉が4回も出てきて(6章3節、4節、9節、16節)、「知る」ことの大切さを語っていました。今朝お読みした7章1節にも「知らないのですか」という言葉があります。「(1節)それとも、兄弟たち、わたしは律法を知っている人々に話しているのですが、律法とは、人を生きている間だけ支配するものであることを知らないのですか。」
先ず始めに「兄弟たち」と言う呼びかけの言葉がありますが、この手紙を読んでいるあなた方と私は兄弟なのです、私達は主にあって互いに家族なのですということから語り始めています。この後で、神を信じる者が律法から解放されること、律法から自由になることについて話そうとしているパウロにとっては、このテーマがユダヤ民族にとっては、最も神経を使う内容であることを知っていました。ですから、まず「兄弟たち」と親愛の情で呼びかけて、主なる神を信じる者として互いに同じ思いでいることを確認しているのです。
さてパウロはここでも「知らないのですか」と語っていますが、聖書で「知る」とか「知識」という言葉が出てくる場合は、神への信仰に土台を置いた本当の知識について語る時です。本当の知識というのは、ただそのことを知っているだけ、覚えているだけという頭の知識ではなく、身体と心で体験的に身についた知識を指しています。人間はどんなに頑張って努力して勉強したとしても、頭だけの知識ではその人は何も変わりません。その人の霊や魂に届く本当の知識だけが人を解放し、人を真に自由にすることができるのです。
では、信仰を与えられた人が喜んで心に留めている知識というのは、どういうことでしょうか。それは「私の罪はすべて主イエスが流してくださった血潮によって贖われた。」という神の赦しと救いを信じる知識です。神様は、ご自分のもとに来る私達の罪をすべて赦し、贖ってくださいました。同時にそれを忘れてしまわれて、赦した罪はもう二度と思い出されないというのです。主なる神は、私達が悔い改めた時に、私達の罪を永久に忘れ去ってくださったのです。何という愛でしょうか。
私が若い頃通っていた教会にいた宣教師は、時々おもしろいなぞなぞを出しましたが、ある時、「神様は何でもおできになります。でも一つだけできないことがあるのです。それは何でしょう。」と問いました。私達はいろいろ考えましたがわかりませんでした。そして結局その答えは、神様ができないことというのは、神様が既に赦された、私達が犯した罪を思い出すことだったのです。
「主なる神が私達の罪を赦してくださった」この素晴らしい知識こそが、信仰者の新しい生活の土台となるものです。この7章が問題としていることは、この知識を持つ信仰者が、実際の生活の場で、この知識にふさわしく生きていくことができるかどうかということです。
このところには「律法」という言葉が何回も出てきます。律法というと、私達はすぐ十戒を思い浮かべますが、律法は十戒だけではありません。言葉を変えて言うならば、律法とは、神の御心の全体を指す言葉だと言うことができます。律法は私達に何が善であるか、何が悪であるかを教えてくれるものです。モーセを通して与えられた十戒を中心としたこの律法がもとになって、その後の人類の歴史ではハムラビ法典やローマ法などができあがっていったと言われています。もし神からの律法が与えられていなければ、ユダヤ民族だけでなく世の中の人間世界は秩序も規律もなく大混乱に陥っていたでしょう。しかしそのように良い律法であっても、私達にその律法を守り行う力を与えることはできません。律法は良いものだとわかっていても、人間にはその律法を完全には行う力がないのです。ですから終に、律法は人間の重荷になってしまったのです。
また、律法があるゆえに人間は罪に定められます。一般的に法律というものは、人間が生きている間だけ、人間を縛るものであって、人間が死んでしまえばもはや効力を持たなくなるのは言うまでもありません。例えば、死刑判決を受けた人が、刑が執行される前に何らかの理由で亡くなってしまったならば、死刑の判決はもはやその人を縛ることができないということです。つまり、このことは、私達は「死によって」律法から解放されるということです。
結婚の約束も同じです。二人を結びつけているのは、夫か妻のどちらかが亡くなる時までです。もし夫か妻のどちらかが亡くなったならば、残された者は少なくとも結婚の約束には縛られていないことになります。この7章にはたとえ話として「一人の女」と「その夫」と「他の男」のことが書かれています。「(2-3節)結婚した女は、夫の生存中は律法によって夫に結ばれているが、夫が死ねば、自分を夫に結び付けていた律法から解放されるのです。従って、夫の生存中、他の男と一緒になれば、姦通の女と言われますが、夫が死ねば、この律法から自由なので、他の男と一緒になっても姦通の女とはなりません。」
ここで「女」というのは私達信仰者のことを指していると考えられます。そして「その夫」というのは律法のことでしょう。また「他の男」というのは主イエスのことを指していると考えることができます。夫の死によって女はその束縛から解かれるのですから、同じように信仰者は、律法に対して死ぬことによって、新しい夫であるキリストと結ばれるのだというのがパウロの伝えたいことなのです。
「夫」と「他の男」の間には共通している点もありますが、根本的に両者は全く異なっています。律法は聖なるものであり、正しいものであり、また良いものです。この点では主イエスも同じように聖なるお方であり、正しいお方であり、良いお方です。しかし、律法は人を裁き、追い込み、窮地に立たせるようなところがあり、ある意味で冷たい所があります。また律法はひたすら人間に要求するだけのところがあります。主イエスもある面では人間に要求するお方ではありますが、ただ要求されるだけではなく、同時に助けを与え慰めや励ましをもって支えてくださるお方です。
私達は律法という夫から離れて、イエス・キリストという夫に行く方がずっと望ましいことなのです。しかしこのことは、いったいどのようにしたら可能となるのでしょうか。それはイエス・キリストを信じて、イエスと新しく一つとなることによって可能となるのです。そのことが4節に書かれています。「ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。それは、あなたがたが、他の方、つまり、死者の中から復活させられた方のものとなり、こうして、わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためなのです。」
「わたしたちが神に対して結ぶ実」とは何でしょうか。教会の庭には今年も豊かにぶどうができました。私たちもしっかり真のぶどうの木であるイエスにつながっているならば、豊かに実を結ぶことができます。ガラテヤ書5章22-23節には御霊の結ぶ実について書かれています。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、柔和、節制です。」これらは神が私達人間に求められていることで、霊に従って生きる時に備わってくるものなのです。
ところで パウロはユダヤ教の偉いラビから律法を学んだ人ですから、律法を大変良く知っていました。律法が人間を縛りつけ、人間から自由を奪いとってしまうものであることを知っていました。しかしイエスを信じる信仰に立ったパウロは、どうして「もう律法は不要である」と「律法の廃棄」を言わなかったのでしょうか。その理由は、この後の12節に「律法は聖なるものであり、正しく、良いものです」と断言しているように、律法が神から出た掟であることを知っていたからです。従って、人間が真に解放されるためには、単なる「文字」となって人間を縛る「律法」に対して死んだ者となり、キリストの死と復活を信じる新しい生き方、霊に従う生き方によるのである、というのが、パウロが説く福音の核心だったのです。
これこそが福音ではないでしょうか。死んでいる人に対しては、すなわちここに「あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。」と書かれているように、キリストとともに死んでいる人に対しては、律法はもう何の要求もすることができなくなっているのです。従って、神を信じた人の新しい生活は、律法を守ろうとする人間的な必死の努力によるのではなく、律法から解放されてイエス・キリストに従って生きることによって可能となるのです。すなわち、新しい生活は、イエス・キリストと結ばれる時に始めて可能となるのです。そしてこのような人達が神に対して豊かな実を結ぶことができるのです。大切なことは、神に対して実を結ぶことができるのは、決して人間的な努力によるのではなく、ただ私達が主イエスに結びついているということの中から、自然に出てくるものであるということなのです。
律法に従って歩もうとしている人、すなわち、人間的な努力によって生きようとしている人をイメージすると、鞭を持った人に叩かれながら歩いているような姿です。これに対して、主イエスと結ばれて主イエスと共に歩もうとしている人、すなわち、主イエスにすべてを委ねて生きている人は、主イエスと一つのくびきを共にして安心して歩いているような姿です。主イエスがその人と共に歩んでくださり、その人を助けてくださるからです。
主イエスの救いの目的は、人間に本当の自由や解放を与えることでした。本当の自由というのは、自分のやりたいことや好きなことが何でもできるということではありません。もしそのような自由が人間に与えられたならば、人間はただ欲望のままに生きて、悪い考えのとりこになるだけで、平気で罪を犯していたでしょう。そういうことが果たして本当の自由だと言えるでしょうか。決してそうではありません。「(5節)わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました。」ここには「死に至る実」を結んでいたとあります。もう一度ガラテヤ書5章を見てみましょう。5章19-21節には「それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。」とあります。霊の結ぶ実と違って、何と希望の無い、平和からほど遠いものでしょうか。
本当の自由、本当の解放というのは、私達がイエス・キリストと一つになる時に与えられるものです。「(6節)しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。」
今、私達には、律法という縛りはありませんが、この社会にはいろいろな価値基準、判断基準があり、他人の評価や視線など、生きていく上でのしがらみに満ちています。しかし、イエス・キリストを信じ、キリストと結ばれて生きるところには神の霊が働いています。私達はそこで神の霊に従って自由に生きていくことができるのです。
(牧師 常廣澄子)