2020年05月

わたしの霊をすべての人に

本日は聖霊降臨の記念日、ペンテコステ礼拝です。クリスマスというイエス・キリストの降誕を祝う行事は世界中の人々に知られていますが、ペンテコステはほとんどの人が知らないでいます。考えてみますとこれは非常におかしいことです。父なる神がお遣わしになった「もう一人の助け主」であられる聖霊が降臨されたことは、少なくとも教会にとっては、救い主イエス・キリストがこの世に誕生されたことに匹敵するほどの大きな出来事だからです。

足ることを学ぶ

私たちは今、新型コロナウイルス感染防止にために、人と人ができるだけ接触しないように注意しながら暮らしています。心でどんなに親しく思っていても、人に対して身体を通して温かい交わりを表わせないのは、とてもさみしく残念なことです。誰とも会えずに孤独感を強めておられる方もたくさんおられると思います。でもそんな時に「お元気ですか」と一本のお電話があったり、「手作りマスクです。どうぞお使いください。」と封筒に入ったマスクが届いたりすると、暗い心がいっぺんに明るくなり、元気が出てきます。今朝は、獄中で苦しい立場にいたパウロが、フィリピの信徒たちからの贈り物を受け取って感謝していること、またそれと同時に主にある自分の信仰姿勢を語っている箇所を見ていきたいと思います。

大きな淵

この話には金持ちが出て来ますが、大事な言葉がその前の部分にあります。「(14〜15節)金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った。そこで、イエスは言われた。『あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存知である。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。』」ここでわかるように、このたとえ話に出て来る金持ちとは、金に執着するファリサイ派の人々のことを指していると考えられます。金に執着するというのは、お金や富に心が奪われ、それに縛られている人たちです。神はそういうことを忌み嫌っているとイエスは言われました。

霊に燃え、主に仕える

信仰によって義とされた者としての、わたしたちの日々の生活そのものが“わたしたちのなすべき礼拝である”、“理に適った礼拝である”といわれます。それは、前回説教箇所、ローマ書12章1~8節に示されておりました。これは、キリスト者の実践生活の基本姿勢です。これを受けて、本日箇所、9~21節では、具体的な教えについて、十項目(十二項目ともされる)が記されておりまして、これを名付けて、「愛についての十戒」、ないしは“十二戒”と言われています。先ず初めにそれを見て参りましょう。

思い煩うな

フィリピの信徒への手紙の最後の章です。フィリピの教会は、パウロがヨーロッパに渡って最初に作った教会であり、それも迫害の中で形成されたものでしたから、パウロにとってはかけがえのない教会でした。パウロはフィリピの信徒を深く愛していましたので「私の喜びであり、冠である愛する人たち」(1節)と呼びかけています。この冠は国王が冠る権威の象徴としての冠(ディアデーマ)ではなく、競技や競争で勝った勝利者に与えられる冠(ステファノス)です。パウロはフィリピの信徒たちを福音の戦いに勝利した者と見ていたのです。そして当時は主の福音に敵対する者が多くいましたので、彼らに対して「主によってしっかりと立ちなさい」と勧めています。ここには信仰に堅く立つ秘訣が示されています。それが「主によって」(主にあって)という言葉です。これはキリストを媒介としてという意味です。私たちは自分の力だけでしっかり信仰に立つことは難しいですが、キリストを信じ、その死と復活の命に与ることによって、力強く生きていくことができるのだということです。これは、コロナウイルス危機の中に生きる私たちの信仰への励ましでもあります。