足ることを学ぶ

フィリピの信徒への手紙 4章10〜14節

 私たちは今、新型コロナウイルス感染防止にために、人と人ができるだけ接触しないように注意しながら暮らしています。心でどんなに親しく思っていても、人に対して身体を通して温かい交わりを表わせないのは、とてもさみしく残念なことです。誰とも会えずに孤独感を強めておられる方もたくさんおられると思います。でもそんな時に「お元気ですか」と一本のお電話があったり、「手作りマスクです。どうぞお使いください。」と封筒に入ったマスクが届いたりすると、暗い心がいっぺんに明るくなり、元気が出てきます。今朝は、獄中で苦しい立場にいたパウロが、フィリピの信徒たちからの贈り物を受け取って感謝していること、またそれと同時に主にある自分の信仰姿勢を語っている箇所を見ていきたいと思います。

 パウロはまず、フィリピの信徒たちが自分のことを気にかけて贈り物をしてくれたことを感謝しています。(10節)「さて、あなたがたがわたしへの心遣いを、ついにまた表してくれたことを、わたしは主において非常に喜びました。今までは思いはあっても、それを表す機会がなかったのでしょう。」フィリピの信徒たちからの贈り物はこれが最初ではありませんでした。16節に「また、テサロニケにいた時にも、あなたがたは私の窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれました。」とあるように、彼らは以前にもパウロに愛の贈り物をしていたのです。パウロとフィリピの信徒たちとは伝道開始の時から深い交わりがあり、パウロの福音宣教の働きのために捧げものをして助けてきたのです。ところが何かの事情で、しばらくそれができない期間があったようです。

 それがある時、パウロが獄に繋がれているということを知り、パウロの身を案じた信徒たちはエパフロディトという使者を立てて慰問の品を届けたということなのです。しばらく途絶えていた交流がまたできるようになったわけで、そのことをパウロは主にあって非常に喜んでいるのです。どのような行為であれ、品物であっても、それが愛と好意からでた贈り物であるなら、受けた者は本当に喜び心から感謝します。

 フィリピの信徒たちからパウロが受けた贈り物には大きな意味がありました。一つはその贈り物が古い交わりを復活させ、暖めたからです。例えば以前に親しくしていた人が長い間音信不通であったとして、その方が突然訪ねて来られて昔と変わらずにお話ができたら、誰でも喜びます。それと同じような喜びをパウロは感じたのだと思います。もう一つは、この贈り物がパウロの逆境の中での出来事だったということです。この時のパウロは、同労者が一人去り、二人去りして彼のもとから離れていき、大変孤独でした。(テモテへの手紙二4章10節、14節参照)「デマスはこの世を愛し、わたしを見捨ててテサロニケに行ってしまい、クレスケンスはガラテヤに、テトスはダルマティアに行っているからです。(途中略) 銅細工人アレクサンドロがわたしをひどく苦しめました。」

 こういう非常にさみしく辛いことが続いている時に、エパフロディトがフィリピ教会からのあふれるばかりの贈り物をもってパウロを訪ねてきてくれたのです。このような不遇の中で受けた愛の贈り物がどんなに嬉しいものであったかは容易に想像できます。その事をパウロは主にあってとても喜んでいるのです。
 フィリピの信徒たちとの音信が途絶えていた期間は相当長かったようです。今の短絡的な時代に生きている人たちが、もしパウロのような立場に立ったとしたら、「どうして今まで便りをくれなかったのだ」と責めたり、あるいは「今頃こんなものをもらっても嬉しくない」と突っぱねたりする人がいるかもしれません。しかし「今までは思いはあっても、それを表す機会がなかったのでしょう。」と、パウロはこの間の事情を、フィリピの信徒たちはパウロへの愛の心があったけれども、贈り物を彼のところに届ける手立てがなかったからであろうと考え、今またその機会が与えられたことを喜んでいるのです。パウロとフィリピの信徒たちの間には深い信頼関係があるのです。

 パウロの個人的生き方はまことにすがすがしいもので、福音のための献金を受けることはあっても、自分で働いて自分の生計を立てていました。(Ⅰコリ9:12〜15、一テサ2:7〜9参照)この後には次のような言葉が続きます。「(11節」物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足すること(足ること)を習い覚えたのです。」「(12節)貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。」パウロは確かに貧しかったと思いますが、生活問題については勝利を得ていたのです。パウロはフィリピの信徒たちから何か贈り物を期待しているわけではありませんでした。

 人は普通、貧しくなって食べるものにも事欠くようになると、心がすさんできます。人を妬み心が卑屈になってきます。逆に裕福になったり社会的地位が上がってくると、思い上がった気持ちになり、横柄になりがちです。貧しさのゆえに罪を犯す人もいますが、お金があって堕落する人も少なくないのです。しかし、パウロは貧しい時も富んでいる時も、どんな時もその境遇に支配されず、むしろ境遇を支配する道を心得ていたと語っています。パウロは貧しい時も正しく大胆であり、富んでいる時も謙遜で同情深くあることができたのです。つまり、「いついかなる場合にも対処する秘訣」あらゆる境遇に処する秘訣を心得ていたというのです。

 ここで「秘訣」と言う言葉が出てきますが、当時の密儀宗教が初心者に信仰の奥義を授ける時に使った言葉だそうです。日本に古くからあるいろんな芸能にも奥義や秘伝がありますが「秘訣」といっても良いかもしれません。それをここでは信仰の道に使っています。貧に処する道、富にある道、悲しい時、楽しい時、いつどのような境遇にあってもそこで足ることを学び、心を平和に保つことができるのは、一つの秘訣だとパウロは語っているのです。つまりキリスト・イエスに結びついているパウロは、キリストにあって、キリストの力をいただいているから、あらゆる境遇に対処することができるのだと言っているのです。

 復活のキリスト・イエスに出会って以来、その福音を語り続け、数えきれない艱難辛苦に遭遇したパウロの信仰生活は、パウロに、どんな時でもその置かれた境遇に満足すること(足ること)を学ばせたのです。満足すること(足ること)(アウタルケース)は聖書の中ではここだけに出て来る言葉です。これはストア哲学者がよく用いた言葉で、自分の事情や境遇に満足していることを言います。儒教の教えにも足ることを知るということがあります。しかし、パウロが語っている「満足すること(足ること)を知る」というのは、外見は哲学や倫理学でいう平常心と同じかもしれませんが、根本的なところで異なります。哲学や倫理学ではそれを得るためには、人間が努力し修養しなければならないからです。しかし神を信じる者は、順境でも逆境でもどんな境遇にあっても、心安らかに生きることができるのです。それは人間を超えた力がその人に働いているからです。

 パウロは、キリストこそが生ける力、内なる力の秘訣であることを絶大な確信をもって語っています。主にあって心満たされた人は、人生の両極端に対処することができるのです。苦しい状況の中でどのように生きたらよいかを知っており、繁栄の中にあってもどのように生きたらよいかを知っています。それはキリストご自身が伴っていてくださるからです。人間の身体が食べたり飲んだり、呼吸したりして生きているように、神を信じる者の魂は、神のうちにある無尽蔵の源から力をいただいて生かされているのです。

 今回のコロナウイルス感染危機が突然全世界を襲ったように、人生は果てしなく続く変化の連続です。大きな問題が津波のように次々と襲いかかる時もあれば、突如として幸運が訪れることもあります。そこで私たちは問われるのです。私たちはそれに対応することができるのでしょうか。苦しみに打ちのめされてしまうのではないでしょうか。幸運が来た時、それに甘やかされてしまうのではないでしょうか。

 パウロはこのことを明らかにして、このように言います。「(13節) わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」私を強めてくださるお方とは、もちろんキリスト・イエスです。二千年前にユダヤの国に生まれ、十字架に架けられて死んだけれども、よみがえって今なお生きて働いておられるイエスです。このイエスと共にイエスの力を受けて生きていくならば、「足ることを知る」だけでなく、あらゆることを成し遂げていくことができます。ここには主を信じる者の一切の力の源泉があるからです。コリントの信徒への手紙二12章10節で、パウロは語っています。「それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱い時にこそ強いからです。」

 パウロはフィリピの信徒たちからの暖かい贈り物に対して心から感謝しています。そしてこのように語ります。「(14節)それにしても、あなたがたは、よく私と苦しみを共にしてくれました。」福音のために労苦しているパウロに必要な物を贈ってパウロを支え励ましたフィリピの信徒たちは、ただパウロが好きだから物を贈ったわけではありません。パウロがキリストのために命がけで働いているからです。信徒たちもまた、キリストのために犠牲を払っていたのです。そこには主にある信仰という共通のものが彼らを結び合わせていたのです。コロナウイルス感染という危機の中で、人と人が離れ離れになっている今こそ、互いに寄り添って心を通わせ、助け合う関係を築いていきたいと願っています。

(牧師 常廣澄子)