詩編 50編7〜15節
聖書の民であるユダヤ人は大変信仰深い民族です。神を畏れ、神の律法を大切にし、神に対する礼拝を怠りませんでした。当時神を礼拝する時はいけにえを捧げていました。8節に書かれている「焼き尽くす献げもの」というのは、最も大切ないけにえで、罪が赦され、神との交わりが回復されるために捧げられたもので、神殿ではそのいけにえを焼く煙が昼も夜も絶えなかったと言われています。
この祭儀が定められた頃は、この「焼き尽くす献げもの」を捧げる時には、口で信仰を告白し、感謝の言葉を言いながら捧げていたようですが、だんだん時代と共に形式的で形だけのものになり、ただ犠牲の動物だけが献げられるようになっていったようです。そこでこの詩編50編では、人間のこのような礼拝のやり方に対して、本当に神を礼拝する心とはどのようなものであるか、まことの礼拝の精神について神が教えているのです。
この詩編50編のはじめの部分には、神を礼拝するということは、どういうことかが書かれています。2節に「神が顕現される。」とあるように、神がご自身をあらわし、集まってくる人々に語られる出来事だということです。1節に「神々の神、主は、御言葉を発し、日の出るところから日の入るところまで、地を呼び集められる。」とあります。「日の出るところ」とは東を指し、「日の入るところ」は西を指します。ですからこの言葉は、「東の端から西の端まで」全地を支配している主なる神が、人々の前にあらわれ、御自分を礼拝するために集まってくる人たちに向かって語る言葉に耳を傾けるようにと呼びかけているのです。礼拝とはこのように人が神と出会うことによって成立するものであり、神の呼びかけに応えて集まり、神の言葉を聞くことによって、神と人との交わりがなされていくという礼拝の本質を明らかにしています。
しかし、ここで呼びかけられている会衆は、そのような心で礼拝を守っていなかったようで、ここには審きのために来られた神が示されています。「(3〜4節)わたしたちの神は来られる。黙してはおられない。御前を火が焼き尽くして行き、御もとには嵐が吹き荒れている。神はご自分の民を裁くために、上から天に呼びかけ、また地に呼びかけられる。」礼拝は、神に対して信実に生きる者にとっては救いを得させる喜びと祝福の時ですが、その心が根本的に不敬虔な者には、その罪があぶり出される場となるというのです。礼拝はこのように聖なる神の前に私たちの生き方が問われるところです。そういうことをわきまえて神の御前に出なさいとの招きがなされているのです。
その後に続くのが7〜15節で、今朝お読みしたところです。ここには礼拝でいけにえを捧げる祭儀の問題点が指摘されています。神はまず、献げものがどんなに多くても、それが形式的なうわべだけの献げものならば、そのようなものは必要ないと言われるのです。神は全世界をお造りになったのですから、人間が献げもので神を養う必要はないからです。
神を礼拝するということは、人が神に語り、神が人に語りかけられる人格的な交わりです。私たち人間同士でも、人と人が語り合うことによって人格的交わりができます。私たちは仕事や買い物などで街に出ていき、バスや電車に乗ったり道を歩いていてたくさんの人と出会います。しかしそれらの人については何も知りません。しかし、もし誰かと何か話す機会があるとするなら、その人がどこに住んでいるか、どんな性格でどのような仕事をしているか等、いろいろ分かって親しくなることができます。神との関係もこれと同じです。私たちは神と面と向かってお会いすることはできませんが、私たちの信仰生活においては祈ることがそれです。
神を礼拝することにおいては、「私の主」と告白しているお方の言葉を、主の民として、真にそのような方の言葉として聞いているかが大切なことです。「わたしの民よ、聞け、わたしは語る。」という呼びかけの言葉は、私たちの礼拝への態度を問うものです。また、「わたしは神、わたしはお前の神。」という言葉は、お前は神をそのようなお方として認識し、本当にこの私に跪いて心からの献身の態度で今ここにいるのか、この私の言葉に聞き従って生きようとしているのかが問われているのではないでしょうか。
しかし、神を礼拝する上でのこの基本的な精神を忘れ、そこから外れてしまったイスラエルの民は、礼拝の場を自分の信仰深さを見せつけて誇る場にしてしまいました。また自分の敬虔な態度を、犠牲の動物の量や質の良さで神の祝福を得ようとするような外見的な努力に費やしていたのです。それは今の時代に生きる私たちにとっても無関係なこととは言えません。人間が作る礼拝においても、往々にしてそのような面が見られることがあるのです。
まず、犠牲の動物の量が多くて、質が高ければ神が喜ぶと誤解している人間に対して、神は人間の贈り物を必要とするような存在ではないということを明確に語っておられます。「(9〜13節)わたしはお前の家から雄牛を取らず、囲いの中から雄山羊を取ることもしない。森の生き物は、すべてわたしのもの、山々に群がる獣も、わたしのもの。山々の鳥をわたしはすべて知っている。獣はわたしの野に、わたしのもとにいる。たとえ飢えることがあろうとも、お前に言いはしない。世界とそこに満ちているものは、すべてわたしのものだ。わたしが雄牛の肉を食べ、雄山羊の血を飲むとでも言うのか。」
ここで神は、ご自分の存在について、何物にも依存しない独立自尊の存在であることを明らかにしておられます。神はどこまでも完全自給自足の存在なのです。そしてむしろ人間や獣などを所有するお方であり、それら全被造物の日用の糧、必要なものを満たされるお方なのです。ですから、そのようなお方に獣を犠牲として捧げ、これを食べないと神が生きていけないなどと考えるのは、実に神についての間違った考えです。人間が考える「神の人間化」と言ってもよいかもしれません。これこそ神を低く貶める、とんでもない不敬虔な態度であると主は告発されたのです。
これに対して真実の礼拝が14〜15に書かれています。「告白を神へのいけにえとしてささげ、いと高き神に満願の献げものをせよ。それから、わたしを呼ぶがよい。苦難の日、わたしはお前を救おう。そのことによって、お前はわたしの栄光を輝かすであろう。」ここにはまず真実な礼拝とは、神への賛美と告白をいけにえとして捧げ、それを満願の献げものとする礼拝だということが語られています。ただ、これによって犠牲を献げる祭儀が否定され無効とされたのではありません。ここでは神への信仰から生まれる賛美と告白を欠いた形式だけの犠牲祭儀の無意味さが述べられているのです。このみ言葉は、私たちの礼拝が本当に神を神として拝め、神に本当の信仰告白や賛美が献げられているか、そのような礼拝が守られているか、そう私たちの心に問いかけています。
そして「(15節)それから、わたしを呼ぶがよい。苦難の日、わたしはお前を救おう。そのことによって、お前はわたしの栄光を輝かすであろう。」(口語訳聖書では、「悩みの日に私を呼べ。わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろう。」)と語っているように、神を呼び求めなさいという勧めです。苦難の中にある者を救うことのできる神を信頼して、助けを祈り求めることこそ、礼拝者にふさわしい態度であると語っているのです。御利益を期待する信仰は間違っていますが、神の救いを期待して、それを祈り求めない信仰も間違っています。本当に神を神とする礼拝(生き方)は、この神にすべての問題を告白し、委ね、信頼して祈ることです。それこそが礼拝者にふさわしい基本的な態度だというのです。そこに神の栄光が輝くことになると神は約束しておられるのです。苦難の日には、人は犠牲の動物を屠って神を喜ばせる必要はなく、ただ信頼をもって神を呼ぶだけで十分なのです。神は救いの恵みを知った者の応答としての礼拝を求めておられるのです。
ところが、本当の礼拝が神との人格的交わり、つまり祈りにあるということを聞いて、自分には良い祈りができないから本当の礼拝ができないというように考えてしまうかもしれません。しかし神が言われることは、苦難の日に私を呼ぶことだと言われているのです。日本には「苦しい時の神頼み」と言う言葉があり、普段は神を忘れているのに、何か問題が起こり、助けが要る時だけ神にお願いすることは、立派な人間のすることではないように思われています。ですから「苦難の日にわたしを呼ぶがよい。」と神が言われるのは、何か思いがけない言葉のように聞こえるかもしれませんが、魂が苦しみ悩んでいる時の叫びには意味があるのです。哀れな魂が跪いて、どうか私を助けてください、私を憐れんでください、私を赦してください、どうぞ私を救ってくださいと祈る時、その人は少なくとも神を信じているのです。神の力と愛と、祈りを聞いて助けてくださる神の御心を信じているのです。
神はどこかにおられるということを信じている人はたくさんいます。しかし、神に祈ったら、神がその祈りを聞いて助けてくださると信じて祈る人は多くありません。では人間はどうして苦難の時に神を呼ぶのでしょうか。ある神学者は、人間と神との関係は、本来苦難(苦しみ)を前提に成り立っているのだと説明しています。私たち人間の祈りは苦難の時に最も真剣であり、謙遜になっています。自分一人の力ではどうにもならないことを知り、家族や友人に頼っても彼らの力には限界があり、神以外には助けてくださる方がいないと悟った時には、神だけを頼りに必死に神を呼ぶのです。その信仰の姿勢はあまり正しいとは言えないかもしれませんが、どんなに小さな信仰であっても、神はそのような信仰をご覧になって喜ばれるのです。神を畏れて遠くから眺めているだけ、あるいは献げ物をしてご機嫌を取っているだけの信仰を神は喜ばれません。苦しみが激しい時は言葉にならずにただ声がもれるだけかもしれません。しかしその声が神に向かっての叫びであるならば、それは真剣な祈りとなっています。
もし人が苦難の日に神を呼ぶなら、神は「わたしはお前を救おう」と言われます。神は助けを求めない人を救うことはできません。イエスも「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である(マタイ9:12)。」と語っておられます。自分が助けを必要としていることさえ知らない人は、神を呼び求めませんから神もまたその人を助けることができないのです。そして苦難の中から神を呼んだ人が、神の助けを受けた時、そこに神を崇め、賛美が起こります。苦しみが大きければ大きかっただけ、神の救いがうれしくて、感謝の気持ちが沸き起こってくるからです。
そのように正しい神礼拝は正しい信仰生活を生み出します。しかし、この詩編の後半には神に背く者について語られています。表面的には神を信じる者のように生活しているけれども、実際的な信仰生活では神の言葉を退けている人に向けての言葉です。「(16〜17節)神は背く者に言われる。『お前はわたしの掟を片端から唱え、わたしの契約を口にする。どういうつもりか。お前はわたしの諭しを憎み、わたしの言葉を捨てて顧みないではないか。』」戒めをしっかり覚えていて、知識としては持ってはいるけれども、真に神を畏れ、神が示される正義と公正を重んじることをせずに、自分の都合が良いように解釈する偽りの信仰を神は批判しています。神が求めておられる信仰は、単なる儀式や、倫理や道徳の知識ではなく、今も生きておられ私たちを愛し救われる神との出会いです。
この詩編はいろいろなことを教えていますが、こんな悩みは神に申し上げるほどのことではないとか、こんなことをお願いしてもよいのだろうかとか、思い悩む必要はありません。どんな苦しみでも悩みでも、率直に神に助けを呼び求めることが大切ではないでしょうか。神のみ言葉に心を動かされ、助けを求めて神を呼び求めるところに真の礼拝があります。
この詩編の結びは、「(23節)告白をいけにえとして捧げる人は、私を栄光に輝かすであろう。道を正す人に、私は神の救いを示そう。」という慰めが語られています。真の神を神として悔い砕けた心で礼拝を捧げ、神の言葉に聞き従って生きる者を神は求めておられます。神はそのような者を祝福しておられるのです。新しい週もそのような信仰をもって歩めますようにと願っております。
(牧師 常廣澄子)