2024年4月21日(主日)
主日礼拝
ルカによる福音書 13章1~9節
牧師 永田邦夫
本日もルカによる福音書からのメッセージをご一緒に聞いて参りましょう。13章1節は「ちょうどそのとき、何人かの人が来て」との書き出しで始まっていますが、この表記は、前の段落とも関連した出来事がまた起ころうとしている、ということですので、先にそれを確認していきましょう。
前回(三月)の説教は、12章48節まででして、わたしたちが「再臨の主を待ち望む姿勢」に関する内容の説教でした。その後、本日箇所までの聖書個所について、その内容を見ていきますと、その「再臨の主を待つ期間に、人々が気を付けなければならない注意事項」が記されていることが分かります。
再臨の主を待つ間とは、他でもなく、今現在、私たちが生きているこの時代も含まれているのです。このこともお覚えいただき、先に進んでいきましょう。まず12章49節からの段落です。「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。」との厳しい言葉で始まっています。この段落には、主イエスが世に来られたその目的について、特にご自身が世の人々とどのような係りを持って生涯を送り、そして、世に何を残されたか、それを背景にしての、世の人々への教訓が記されている箇所です。
50節には「わたしには受けねばならない洗礼(バプテスマ)がある。それが終わるまで、わたしは
どんなに苦しむことだろう。」とあります。「ご自分が受けなければならないバプテスマ」とは、主ご自身が負うことに定められている十字架の出来事であり、またそれを達成するまでの道のりには政治の指導者、あるいは群衆との苦難、軋轢が続きました。これは聖書が示している通り、平和ではなく分裂、そして家族の間に起こる分裂、等々のことでした。
参考として、旧約聖書のヨエル書の3章3~4節には「天と地に、しるしを示す。それは、血と火と煙の柱である。主の日、大いなる恐るべき日が来る前に太陽は闇に、月は血に変わる。」とあります。これは一般的に「天変地異」ともいわれる出来事であり、再臨の主の到来と、御国の完成の時です。
続いて54節からの段落に入ります。ここには「時を見分ける」の小見出しがついていまして、この箇所の大半には、雨、風、気候のことが記されていますが、最後の56節には「偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか。」と、これまた厳しい言葉で終えています。ここでは、今この時を歴史的に見て、特に神の御心に照らして、どんな時代であるのかを確り見分けながら生きていくように、との勧めです。
今、世界には戦争が止むことがなく、また政治家の言動にも、悲嘆させられることが沢山あります。そのためにも、これらのことが良い方向に改善されるようにと、わたしたちは祈り続けていかなければなりません。
次は、57節から「訴える人と仲直りする」との小見出しがついている段落に入ります。直接この段落がわたしたちに伝えていることは、わたしたちが、もしほかの人と争い事を抱えているならば、それが決定的に大事(おおごと)になる前に、早く解決を図ること、そしてもしも仲間内で負債、貸し借りがあるならば、最後の寸分たりとも残さずに、完全に解決することの勧めです。
以上見てまいりました三つの段落は、本日箇所への導入として、また本日箇所と同様に重要な箇所です。よってこの三つの箇所の概略を再度簡潔に確認してから先へと進めます。
① 49節からの段落:主イエスが十字架の苦しみを経て、「復活の主」「命の主」となられたように、わたしたちも御国に繋がっていくためには苦難をも辞さないように、との諭(さとし)である。
② 54節からの段落:「その時」「その時代」を確りと見分けること、特に神がご覧になったとき、どうなのか、このことにも思いを馳せること。
③ 57節からの段落:もしも人と争いごとを抱えているなら、その争いごとについて、完全に解決を図ること。特に相手に対し負い目を抱えているなら、それを完全に無くすように努力すること。
以上を受けて13章からの段落に入ります。1節には「ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。」とあります。このピラトとは、ポンテオ・ピラトのことで、紀元26年から36年にかけてユダヤ総督として在位した人です。そのピラトについての評価で、フィロンという哲学者が残した記録からですと、ピラトは総督としての在位中に賄賂、侮辱、強奪、暴行など、悪行を重ねたと言われています。
この1節は、ピラトが行った悪行について、象徴的に表したのが「不純なものが、聖別された神への献げものの中に交じっている。」でした。
そのとき主イエスのもとに来た、群衆の中の何人かが、告げたことに対して、主イエスは次のようにお答えになりました。
(2節、3節)「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」でした。
ここに記されております、「ガリラヤ人たちが遭遇した災難」とはどんな災難事故なのか、解説書を繙(ひもと)きますと、ピラトの統治の時代に、“ガリラヤからの巡礼者がピラトの兵卒によってエルサレム神殿の境内で殺害された”、という事件を指していると言われていています。
当時このように、人々に批判の的になったガリラヤ人とは、非常に激し易く、ときどき政治的トラブルを起こしがちであった、とも言われています。しかし、「ガリラヤ人は非常に激しやすい人たち」と簡単に決めつけることはいけないことです。当時のイスラエルはローマ帝国の支配下にあって、その支配で横暴を極めていた総督ピラトの悪政から、イスラエルを何とか解放させようと立ち上がったのが、特にガリラヤ人であったのです。
そのガリラヤ人のことが背景にあってのことか否かは分かりませんが、本日箇所2節の言葉「ほかのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか」、との主イエスの言葉があり、さらに主イエスは、(3節)「決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」
この「あなたがた」とは今日のわたしたちも含まれているのです。このことをわたしたちは、確り覚えておきましょう。
4節以降について「また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。」とさらに主イエスの言葉が続いています。ところで、ここに記されています“シロアムの塔の倒壊事故”について、聖書には何の説明もないのでどんな事故だったのか少々触れますと、このシロアムはエルサレムの南東にあり、神殿の地下水道の出口の一つであって、そこにはかつて塔があって、その塔が倒れて多くの犠牲者が出たとのことです。
この段落で注目したいのは、ピラトの悪政によって、すなわち、人為的な原因によって多くの犠牲者がでたことと、片やそうではなく、自然災害かもしれない塔の倒壊によって犠牲者が出たこと、いずれも、すべての人にとって悔い改めと、そして反省が必要である。「もしあなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」と主イエスは諭されているのです。このことを確り覚えておきたいと思います。
次の段落、6~9節についてです。「そして、イエスは次のたとえを話された。」と6節は始まっています。ではこの箇所で主イエスは何を群衆に告げようとしておられるのか、この段落の全体から、このことを先に読み取っていきましょう。
ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、ある人は園丁に言った。「もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。」とです。これに対して、園丁は答えました。「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。」
ここで、ぶどう園の持ち主(ある人)と、園丁(ぶどう園の管理者)両者の、立ち位置と考え方を整理し確認しておきましょう。
〇ぶどう園の持ち主は、ぶどう園から予定通り収穫が上がっているか否か、厳しい見方をしています。
〇片や園丁は、ぶどう園に対して長期的視野に立って、愛情を注ぎながら管理をしている様子を、わたしたちは知ることができます。
ここで言う、ぶどう園の持ち主とは、主なる神のことであり、園丁とは、ぶどう園の持ち主である神から、園丁の管理を任されている、救い主イエス・キリストのことです。
さらに、ここで中心的な「ぶどう園」とは、神の民イスラエル全体(世界中に広がっているキリスト者のこと)を指します。このことを知りますと、ああそうだったのか、と改めて感動させられました。
本日の説教題は「実りを待つ主人」といたしました。この主人は、世界の創造主である神のことでした。また、特に、ぶどう園の園丁としてその管理の全てを行っておられるのは主イエスであり、その愛情と忍耐について知ることができ感謝いたします。
わたしたちは、これからも皆さんと共に感謝しながら、主に従って歩んで参りましょう。
(牧師 永田邦夫)
聖書の引用は、『 聖書 新共同訳 』©️1987, 1988共同訳聖書実行委員会 日本聖書協会による。