神の怒りと裁き

2024年6月2日(主日)
主日礼拝『 主の晩餐 』

ヨハネの黙示録 15章1~8節
牧師 常廣澄子

 グローバル世界に生かされている私たちは、日々、新聞やテレビやインターネット等の情報で、考えられないような事件や出来事を目や耳にするようになりました。世界では今のこの時も戦争が続けられ、各地で悲惨な恐ろしい出来事が起こり、何の罪もない多くの人たちが殺されています。人間世界に起こっているこの戦争というおぞましい出来事はいつまでたっても収束に至りません。残念なことに、世界の平和のために設立された国際連合は、当事国の反対や拒否権によって現状では正常に機能していません。こういう状況を見捨てておけないと、多くの国々が立ち上がり、多くの人たちが反対を叫んでいますが、どうにもならない状況に陥っています。ニュースを見る度に、ただただ無力感を感じてしまうことが多々あります。

 過去を振り返れば、人間のたどって来た歴史の中ではこのような出来事が何度も何度も繰り返されてきました。神はこういう人間の有様をご覧になって、どう考えておられるのでしょうか。この状況を見てもただ黙って知らん顔しておられるのでしょうか。いいえ、神はそのようなお方ではありません。聖書ははっきり人間世界の最後には決着がつけられることが語られています。

 私たちは今、ヨハネの黙示録を読んでいますが、前回お読みした14章では大きな鎌の話がありました。鎌は収穫物の刈り取りに使う道具ですが、聖書の中では刈り取りは神の裁きを現す象徴として語られています。刈り取った後、神はそれらを見分けて、良く実ったものと実をつけなかったもの、良い麦と毒麦を分別され、良く実ったものを神の蔵に入れるというのです。考えてみるとこの作業は大変恐ろしい事です。

 今朝お読みした聖書では、黙示録の著者ヨハネは幻を見ています。「(1節)わたしはまた、天にもう一つの大きな驚くべきしるしを見た。七人の天使が最後の七つの災いを携えていた。これらの災いで、神の怒りがその極みに達するのである。」ヨハネは「大きな驚くべきしるし」を見ました。そこには七人の天使が登場し、七つの災いを携えていました。この災いには、神の激しい怒りが込められていることがわかります。「神の怒りがその極みに達する」とあるからです。神の裁きが最終段階に入ったと理解することができます。それは、人間の醜い罪の有様、人を欺く嘘や偽り、人を人とも思わずに殺戮する残虐な心、それらが神に裁かれる「神の怒りの極み」の時が来るというのです。これは、先ほど14章で鋭い鎌が地上に投げ入れられたことをお話ししましたが、それと同じようなことです。言葉を変えて繰り返し語られているのだと考えられます。では、神はなぜ人間の罪に対して怒りを発しておられるのでしょうか。逆説的ですが、それはもちろん神が私たち人間を愛しておられるからです。

 ヨハネによる福音書の13章から17章にかけて、イエスが十字架に架けられる前の晩の出来事が書かれています。イエスがこの世での最後に語られた告別説教とも言われる長い教えも書かれています。その書き始めのところに「(13章1節)さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のものへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛しぬかれた。」と書かれています。どのような言葉を使っても、この時のイエスの愛の強さ、深さ、広さを言い表すことができない、人間の言葉の限界を感じるような場面ですが、ここには「弟子たちを愛して、この上なく愛しぬかれた」と書かれています。これは古い文語訳聖書では「極みまで之を愛し給えり」と訳されています。「愛の極み」なのです。主イエスの十字架において神の愛が極みに達した、つまり極限に達したというのです。イエスはこの時、たらいに水を汲んで弟子たちの足を洗われたのですが、イエスを裏切ろうとしていたユダの足をも洗いました。それは、私はあなた(ユダ)のためにも十字架にかかるのだ、ということの証です。ここに愛の極みがあります。

 しかし、今ここでは「神の怒りの極み」とあります。では神の愛は、イエスのあの十字架で極限に達したのだから、もう終わってしまった、だからここからは神の怒りの話なのだということなのでしょうか。もちろん違います。そのような話でないことは明らかです。十字架の上で愛の極みを示されたイエスは、ご自身を小羊として捧げられました。その小羊が黙示録には何度も出てきます。バプテスマのヨハネがイエスを見て「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と呼ばれたように、イエスは私たちの罪を担われて十字架に架かられたのです。罪から私たちを解き放ってくださるためです。イエス御自身が「神の怒りの極み」を引き受けてくださったのです。十字架は「神の怒りの極み」が現れた時であり、同時に「神の愛の極み」が示された時でもあります。

 さて、今朝の個所には、七人の天使が七つの災いを携えて現れたとあります。「災い」は今までにも出てきました。6章では七つの封印が解かれる度に災いが出てきました。8章では七つのラッパが吹き鳴らされる度に災いが起こりました。そしてこの15章から18章にかけて語られるのが、最後の七つの災いです。「(7節)そして、四つの生き物の中の一つが、世々限りなく生きておられる神の怒りが盛られた七つの金の鉢を、この七人の天使に渡した。」とありますので、この災いは「鉢の災い」と呼ばれています。

「(2節)わたしはまた、火が混じったガラスの海のようなものを見た。更に、獣に勝ち、その像に勝ち、またその名の数字に勝った者たちを見た。彼らは神の竪琴を手にして、このガラスの海の岸に立っていた。」幻を見ているヨハネは、今、海のそばに立っているようです。「ガラスの海」というのは澄んだ透明な海なのでしょう。パトモス島に流されているヨハネは朝に夕に海岸で祈っていたのではないでしょうか。「火が混じった」というのは、朝上って来る太陽や沈んでいく夕日の輝きに、神の裁きの火を見ていたのかもしれません。そしてその向こう岸には、竪琴を手にして歌っている人々がいます。彼らは誰なのでしょうか。彼らは「獣に勝ち、その像に勝ち、またその名の数字に勝った者たち」だと言われています。

 この「獣、その像、その名の数字」については13章に書かれていました。獣の像を拝もうとしない者は皆殺しにされるのです(13章15節)。獣の刻印がある者でなければ、物を買うことも、売ることもできないのです(13章17節)。これでは生きていくことができません。「獣に勝ち、その像に勝ち、またその名の数字に勝った者たち」というのは、そのような神ならぬものを拝む世界の中で生き延びた者たちということではありません。最後まで信仰を守り通して死んでいった人たちのことではないでしょうか。14章に入ると、天からの声がして「今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである(14章13節)。」という宣言があります。このように最後まで信仰を全うすることができるのは、小羊イエスがその名を額に刻んでくださり(14章1節)、「この者はわたしの所有物だ」と宣言してくださるからです。

 そしてこれらの人たちが天の礼拝で賛美しているのです。「(3節)彼らは、神の僕モーセの歌と小羊の歌とをうたった。」とあります。この背景にあるのは、モーセに率いられてあの紅海を渡った出エジプト記の出来事だと思います。それは出エジプト記14章から15章に書かれています。エジプトを脱出したイスラエルの民は、目の前に海、背後にエジプトの軍隊が迫ってくる絶体絶命の状況に置かれましたが、神が激しい東風を送られたので、民は水がせき止められた乾いた海を渡って助けられ、後から追って来たパロの軍隊は海に飲み込まれてしまったのです。その時イスラエルの民は勝利の歌を歌いました。これがモーセの歌(出エジプト記15章1-18節「海の歌」参照)です。

 ここではその時の勝利の歌を、イエスによる救いと重ねて歌っています。神の御子イエスによって罪と滅びの中から救い出されることを、モーセの歌に重ねて歌っているのです。「(3-4節)全能者である神、主よ、あなたの業は偉大で、驚くべきもの。諸国の民の王よ、あなたの道は正しく、また、真実なもの。主よ、だれがあなたの名を畏れず、たたえずにおられましょうか。聖なる方は、あなただけ。すべての国民が、来て、あなたの前にひれ伏すでしょう。あなたの正しい裁きが、明らかになったからです。」

 神は全能であられます。神がなされることは、人間の思いをはるかに越えて偉大なものです。神がなされることはことごとく正しく真実です。ですからすべての人が神の名をほめたたえます。そしてすべての人が神の前にひれ伏すのです。すべての人は一人残らず神の裁きを受けます。しかしその裁きを通して、神は正しく裁かれるお方であることがわかるのです。なぜなら神の裁きは人間を滅ぼすためではなく、人を救うためにあるからです。正しく裁くということは、罪を曖昧にしないということです。神は罪を罪だとして処罰されます。ですから、イエスはすべての人の罪を負って十字架で死なれたのです。神の怒りの極み、神の愛の極みが十字架であることが明らかです。

 つまり、出エジプト記の出来事は、イエスの十字架という贖いの出来事の予表として捉えることができるのです。旧約聖書の出来事は新約聖書と関係のない、全く別のことが書かれているのではありません。聖書全体で、神の導きと人間の救いを語っているのです。イスラエルの民をエジプトから導き出した主なる神が、終わりの時に、もう一度人々を導き出されるのです。罪と死の谷間を抜けて、永遠の命へと導きだしてくださるのです。そのためにイエスは十字架に架かられ、私たちの罪を負って贖いの小羊となってくださったのです。イエスの十字架は、罪を滅ぼされる神の裁きの出来事であると同時に、イエスを通して人間を救おうとされた神の赦しの出来事です。この二つのことが十字架に置いて同時に起こったのです。十字架は神の怒りの極みであり、神の愛の極みの出来事だということです。

 私たち人間を救うために、神は御子イエスをこの世に遣わされました。このイエスにおいて、神がどんなに大きな神の愛を示してくださったか、忘れないようにしたいと思います。ヨハネの手紙一3章1節「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。」神は私たち人間が滅びることを望んでいるのではなく、何とかして私たち人間を救おうとされました。それで御子イエスを通して素晴らしい御業をなしてくださったのです。

 1節で語られている災いがどのように現れてくるかが、5-6節ではもう少し丁寧に語られています。「(5-6節)この後、わたしが見ていると、天にある証しの幕屋の神殿が開かれた。そして、この神殿から、七つの災いを携えた七人の天使が出て来た。天使たちは、輝く清い亜麻布の衣を着て、胸に金の帯を締めていた。」ここにある「証しの幕屋」というのは、神の民イスラエルがエジプトから逃れて40年間荒れ野の旅をした時、いつも中心に置いていた天幕の小屋のことです。それが証しの幕屋と呼ばれているのは、神の言葉、神の掟である十戒の板という、神の真理を証しするものがそこに置かれていたからです。その幕屋を中心に礼拝が行われ、そこに神の臨在が証しされていたのです。

 七人の天使は、神の御臨在の場所で神にお仕えしています。輝く清い亜麻布の衣を着て、胸に金の帯を締めて、まるで祭司のような服装をしている天使なのですが、その働きは、人々に神の言葉を携えていくのではなく、残念ながら神の怒りが盛られた金の鉢を持たされています。「(7節)そして、四つの生き物の中の一つが、世々限りなく生きておられる神の怒りが盛られた七つの金の鉢を、この七人の天使に渡した。」この金の鉢は、その中身が注がれる所に災いが起こっていくのです。災いは神殿から、すなわち神からもたらされているのです。

「(8節)この神殿は、神の栄光とその力とから立ち上る煙で満たされ、七人の天使の七つの災いが終わるまでは、だれも神殿の中に入ることができなかった。」このように、天使が七つの災いを成し終えるまで、神殿は神の栄光とその力とから立ち上る煙で満たされ、だれも神殿の中に入ることができません。煙は神の御臨在を現わします。モーセがシナイ山で十戒を授けられた時は、全山が煙に包まれていました。

 神がおられる神殿から災いが出てきます。災いは神の怒りの現れなのです。私たちは神は良いものを与えてくださるお方だと思っていますが、災いもまた神から来るということを知らねばなりません。しかしそれは希望の持てることでもあります。災いが神に敵対する悪しきものから来るのであれば、そこから逃れるすべはありませんが、神から来る災いであるのなら、なお神の御手の中にあるということだからです。神は私たち人間が滅びることを望んでおられるのではなく、すべての人が救われることを望んでおられるからです。そのための怒りであり災いは、なお希望が持てることなのです。

 この後、主の晩餐に与りますが、私たちは神が私たちになしてくださった素晴らしい救いの御業を心から感謝し、しっかり心で受け止めたいと思います。確かに私たちは今、先の分からない不安で恐ろしい世界に生きています。今のこの世界は獣が支配している世界だからです。恐ろしい事、不安なことが次々と起こり、この世界はどうなっていくのだろうと心配にもなります。しかし、私たちは十字架のイエスを仰ぎ、その救いに与る者として、災いの先にある希望を持って生きてまいりたいと願っております。

(牧師 常廣澄子)