神の栄光

この詩編は神の啓示を称える歌でもあります。「啓示」というのは、創造者である神が、神のその偉大な真理を人間に伝えることです。この詩編には、始めに「自然を通して示される神の啓示」次は「律法を通して示される神の啓示」最後にそれらをまとめて「神の啓示を受け入れた人の信仰による応答」が美しく書かれています。山であれ川であれ、木々も岩も自然界のあらゆるものは、それをお創りになった神の知恵や力、御性質、つまり神の栄光のすべてをもって絶えず私たちに語りかけています。多くの科学者が自然を研究すればするほど、神が存在すること、神の言葉である聖書が確かな真理であることを証言しています。私たちも自然に触れる時、創り主である神を想い、神からのメッセージを聞き取りたいと思います。

生きた石

ペトロの手紙2章のみ言葉から、神の教えを聞いていきましょう。まず1節は、「だから」という接続語で始まっています。これは1章23節「あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。」を受けています。神を信じる者は新しく生まれたのだから、「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去りなさい」と言っているのです。神を信じるとは、神の家族の中に子どもとして生を受けたということですから、神の愛の中に生かされています。ですから神の愛に裏付けされる隣人愛や兄弟愛に反するような思いを捨てさるのは当然のことです。キリスト者として成長するためにはまず悪いものを捨てなくてはなりません。

十人のおとめ

お読みいただいたところには、イエスが語られた譬え話が書かれています。その始まりは(1節)「そこで、天の国は次のようにたとえられる。」という言葉です。「天の国」というのは、日本語では死んでから行く天国のようなところを連想しますが、ここではそういう意味はありません。マタイによる福音書は、しばしば「神」の代わりに「天」という言葉を使っているのです。それはどうしてかと言いますと、マタイによる福音書はどちらかというとユダヤ人が読むことを想定して書かれているからです。ユダヤ人は神を畏れ、「神」という言葉を直接口にすることをはばかり、また直接書くことも避けていましたので、「神」の代わりに「天」という言葉を使っているのです。

エフェソの信徒への手紙

平和の福音

1945年に日本がポツダム宣言を受諾して戦争が終わってから。今年で75年が過ぎました。考えてみますと、20世紀という時代は、人間の歴史の中でも最も知識や技術が進歩した素晴らしい時代であるにもかかわらず、1914年オーストリアに始まった第一次世界大戦、1939年にドイツのポーランド侵攻によって始まった第二次世界大戦と、世界各国の人間同士が敵味方に分かれて殺し合った恐ろしい殺戮の世紀でもありました。様々な利権をめぐって国々が争いを繰り返し、数えきれない多くの人々がその犠牲となったのです。日本バプテスト女性連合が沖縄での地上戦が終結した6月23日を「命どう宝の日」(命こそ大切な宝)として覚えるのも、二度と戦争をしないという非戦を誓い、平和を祈り願っているからです。しかし、世界の各地では今なお国と国、民族と民族が争いを続けていますし、今も過去の戦争の後遺症を引きずって苦しんでおられる方がたくさんおられます。生きている人間誰もが平和な世の中を望んでいると思うのですが、どうして人間社会には争いが続くのでしょうか。

互いの受容

この個所は、信仰共同体、すなわち教会員同志の信仰生活についてのお勧めです。それは15章13節まで続いております。ローマ書の著者パウロは未だ訪問したことのないローマの教会の人々に対して、これ程までに具体的かつ踏み込んだ内容の勧めの言葉を書き送っている、それは教会すなわち、信仰共同体の信仰生活において、最も重要な事柄であり、また基本的な事柄だからです。 そして、もう一つのことは、パウロが今まで行ってきました、異邦人伝道の中で、“否というほど”経験してきたこととも直接関係しているのです。例えば、第一コリント書8章や、10章には、“偶像に供えた肉を食べることについての問題”が、また、コロサイ書2章16節以下には、“食べ物、飲み物、さらには、特定の日を巡る問題”についてのことが記されております。

神の計らい

詩編には150編の詩があります。あるカトリックの修道院では、この詩編を1週間で読み通しているそうです。詩編を何回も何回も読むことによって、神の恵みや御業をますます深く理解していくのではないかと思います。今朝お読みした詩編73編は、今の時代を生きる私たちに共感するところもあり、とても読む人の心に訴えてくる詩です。

神を畏れる生活

今、私たちの第一の関心事は新型コロナウイルスのことではないでしょうか。誰もがどこに潜んでいるのかわからない、目に見えない小さなウイルスを怖がっています。確かにそれは恐れなくてはならないものですが、今朝は信仰者が畏れるべきものは他にあることをペトロの手紙から聞いていきたいと思います。それは「神を畏れる」ということです。

無くした銀貨

ルカによる福音書15章には三つのたとえ話が書かれています。「見失った羊のたとえ」「無くした銀貨のたとえ」「放蕩息子のたとえ」です。今朝お読みいただいたのは、真ん中にあるたとえ話で、最も短いものです。この箇所はその前の「見失った羊のたとえ」の陰に隠れて、さっと読み過ごしている個所かもしれません。実はこれら二つの話は一対になっていて、同じ趣旨のことを語っていると考えられています。つまり同じ主題について事柄を変えて二回語ることによって内容が一層協調されるからです。

隣人愛

二年余り続いておりますローマ書からの説教、現在は「実践生活についての教え」である、12章以降に入っておりまして、本日は13章8節からです。何時ものように、直近の前の部分を確認しながら、先へと進みたいと思います。12章では、この世における実践生活、そのものが“霊的礼拝”、また“理に適った礼拝”である。それは、すでに主イエスさまが、ご自身の十字架の贖いによって、わたしたちを生かしていてくださいますからです。よってわたしたちは、日々“霊的礼拝としての実生活”を送っていくことができます。その礼拝たる実生活においては、「愛に偽りがあってはならない」、「兄弟愛をもって互いに愛し合うように」、との勧めをいただくのです。

神への希望

この詩編は1節に、賛歌、ダビデの詩とあります。しかし、必ずしもダビデが歌った歌というわけではなく、周囲から攻め寄せてくる多くの敵を前にして小国ユダヤの王の立場をとって歌った詩人の歌にダビデの名を冠したものだと考えられています。その前のところに「指揮者によって、エドトンに合わせて。」とありますが、エドトンというのは、宮廷楽人の一人の名前で、エルサレム神殿にはじめて聖歌隊を作った人だと言われています。彼の名前がその後聖歌隊そのものを指すようになっていったようです。