自分の命を得る

2022年9月4日 主日礼拝

マタイによる福音書 16章21~28節
牧師 常廣澄子

 神の御子イエスは、ユダヤの国で御生涯を送られたのですが、地上で過ごされていた時にいつも御自分が救い主であると自覚して、そのための働きをなさっていたというわけではありません。御生涯のある時期から、大体三十歳頃だと言われていますが、神の国について人々に語り始められたのです。そしてさらにある時点から、明確に御自分の受難について話されるようになりました。お読みいただいた聖書個所には「このときから」というように書いてあります。「(21節)このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。」

 ここには、御自分が必ずエルサレムに行って、苦しみを受けて殺されること、そして三日目に復活されることを弟子たちに打ち明け始められたと書いてあります。ところが、これを聞いた弟子のペトロは、イエスをわきに連れ出して、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」と諫めたのです(22節)。するとイエスはペトロに言いました。「(23節)サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」と。「引き下がれ」というのは、ただ下がれというのではなく、「自分の後ろに回れ」という意味です。イエスは前進なさろうとしているのに、このようなことを言うペトロが前にいたのでは進めない、邪魔であると言われたのです。

 イエスはここでどうしてペトロを「サタン」と呼ばれたのでしょうか。またどうして「わたしの邪魔をする者」と言われたのでしょうか。お読みした個所の前の部分(13節~)には、イエスが弟子たちに、「人々は自分のことを何者だと言っているか。」とお尋ねになる場面があります。それに対して弟子たちは「洗礼者ヨハネだ」」という人もいるし、「エリヤだ」という人もいるし、「エレミヤだ」とか「預言者の一人だ」という人もいます。みんないろいろです、と答えました。

 しかしその時、ペトロははっきりと「(16節)あなたはメシア、生ける神の子です。」と言ったのです。ペトロは人間として初めて、誰よりも先にイエスを神の子であり、救い主キリストであると見抜いて告白したのです。するとイエスは言われました。「(17節)シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」と。

 そのようなペトロでしたのに、ここでイエスが(ペトロが見抜いたように)救い主キリストとしての道を歩もうとして、御自分の苦しみと死と復活について語り始められると、これを諫めるというのはどうしたことでしょうか。「諫める」というのは、目上の人に向かって、間違いや相手の悪い点を指摘して教えてあげるという意味です。そうしますと、これはイエスが何か間違っていて、それをペトロが指摘してあげているのでしょうか。ペトロは決して自分勝手なことを考えていたわけではないと思います。今までずっとイエスに従ってきたペトロは、ペトロなりにイエスを信じていました。そのペトロにとっては、イエスが長老、祭司長、律法学者たちなどユダヤの宗教指導者たちから多くの苦しみを受けて殺される、ということは、それこそとんでもないことだったのです。

 ですから、この行為はペトロとしては当然のことであったかもしれません。ペトロは、イエスをあなたこそメシア、キリストですと告白するという信仰を持ち、燃える思いで、イエスと自分たちの将来を考えていたと思うのです。きっとイエスがなさるメシアとしてのお働きは、ユダヤの国を解放されることに違いないと、希望をもって未来のことを思い描いていたのではないでしょうか。そのような考えの中にいたペトロにとっては、イエスが語られることが理解できなかったわけです。むしろイエスの言っていることが間違っているのだと、心を込めて諫めたということなのでしょう。しかし、これを聞いたイエスはペトロを「サタン」と呼ばれたのです。その理由は、ペトロの言っていることがイエスの歩みにとって邪魔な考えだったからです。

 イエスは御自分のこれから起きることについて「(21節)御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている」というように、「、、、、なっている」と語られました。これはご自分の意志に関係なく強いられてそうなることを意味しています。イエス御自身が「こうしよう」と思い、「こうしたい」からそうするのではなく、むしろ御自分の思いを捨てて、父なる神の御意志に従おうとされているのです。ゲツセマネの園で祈られた時も、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」(マタイによる福音書26章30節)と祈られました。イエスはあくまでも父なる神のみ旨に忠実に従おうとされているのです。イエスは神が定められた道を歩もうと決心されているのです。

「(24節)わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」これは大変厳しい言葉です。私たちが聖書を読んでいくと、時々このような厳しい言葉にぶつかります。そんな時、「これはとても自分にはできないことだ、しかし世の中には自分よりももっと立派な人がたくさんおられる、この御言葉は彼らにこそふさわしいのだ」と、御言葉を自分に向けて語られているとは受け取らずに、そういう信仰の偉人や崇高な人たちの生涯や人生を思い浮かべて納得してしまうことはないでしょうか。しかし、本来、信仰生活においては、信じる者の間にそのような区別があるはずがありません。一人ひとり誰もがその人生において与えられた自分の十字架があるのです。形も大きさも材質もみんな違っているでしょうが、私たちは一人ひとりそれを背負ってイエスの後についていくのです。私たち主を信じて生きる者の生活というのは、自分に与えられた十字架を背負って、イエスに従っていくことなのです。

「(25節)自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」ここには命という言葉が二度出てきますが、始めの命は現実の肉体的な命であり、後に出てくる命は、霊的な永遠の命を指しています。この世には自分の命を救おうと思わない人はいないと思います。そこでイエスは「誰でも本当に自分の命を救いたいと思うならば、わたしに従ってきなさい」と言われたのです。誰でも今の命を守ろうとするならば、永遠の命を失ってしまうが、キリストを信じてキリストのためにこの世の一生を捧げる者は永遠の命を得るのだ、ということです。人間は神の御子イエスを信じて、イエスのなさることを見て、話されることを聞いて、イエスに導かれてイエスに従っていくこと、これが本当の命を得ることだと教えているのです。

 続いてイエスは「(26節)人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」と語られました。これは、命について語られている実に大切な言葉です。イエスを信じる信仰は、命というものを本当に大事にするものなのです。人はたとえ全世界を手に入れても命を失ったらどうなるのか、と、どんな場合にも、どんな素晴らしい物よりも命は大切だと教えています。それはつまり、今、私たち一人ひとりに与えられているこの命がどれほど尊い価値があるか、ということです。

 そういう意味では、罪というのは、人間が自分の本当の価値、自分の本当の値打ちを知らずに生きているということでもあります。神を知らずにいるならば、私たちは自分自身を本当に生かし切れないのです。しかし、ここで語られているイエスの御言葉によって、神の前には一人ひとりの命がどんなに大切であるかを知らされます。私たちは自分に与えられている命の尊さと同時に、今まで神を知らずに生きていた時にその命を軽んじてきた罪を知らされるのです。

 イエスは御自分を信じてついてくるペトロや弟子たち、また当時の宗教指導者たちでさえ、自分の命の価値や本質を何も知っていないことを、よくわかっておられました。自分の力や正しさを過信し、神に正しく栄光を帰せしめない人間の傲慢さが、どんなに深く自分たちの命を損なっているかを、ほかの誰でもない、イエス御自身が見抜いておられたのです。ですから、私たち人間が一人ひとりに与えられた命の本当の価値に気づき、その真価に生き得るためには、ただ神のみ旨によって、御子イエスが十字架への道に歩むということしかなかったのです。イエスが歩まれたのは、このように、人間の罪に対して深い愛をもって応えられた神の憐れみの道です。そのような神の深い御計画に対して、ペトロは「そんなことはとんでもないことだ」と言ったのです。

 ペトロのこの言動を、私たちは愚かだと言えるでしょうか。私たちはペトロの言ったことを笑うことができるでしょうか。ペトロのように、御子イエスが歩まれた十字架への道を本当の意味で理解しえないところに、人間の罪深さがあるのです。ですから、自分を捨てられず、自分の十字架を負うこともできないのです。信仰に生きるということは、イエスの後に従うことです。イエスの後ろ姿を見ながら、後についていくことです。イエスの背中は鞭打たれて傷ついています。私たちのために多くの辱めと痛みを負ってくださったこのお方の歩みを覚えながら、御足の後をついていくことが私たちに与えられた生活なのです。本日はこの後で主の晩餐に与りますが、イエスがたどられた十字架の道での痛みと苦しみこそが、主を信じて生きる者の原点であります。私たちにはただただ感謝とありがたさしかありません。

 ここでイエスが言われることは、私たちがこのイエスの御業を信じて、イエスの後に従って生きるということほど本当に軽やかで健やかな人間の生き方はないのだということです。イエスを信じてイエスに従い、ついていくだけです。もはや私たちは自分自身で自分を捨てる努力をしなくても、あるいは自分の力を振り絞って、悲壮な思いで自分の十字架を背負おうと努力しなくても、御子イエスの前に自分を差し出すことによって、真の命を得るのだと語っているのです。

 私たち人間が生きていく道はここにしかないのです。御子イエスを通して真の神に出会うことほど、幸いなことはありません。私たちに与えられたそれぞれの人生を喜び、感謝し、自然体でありのままの姿で、自分の命を生きるのです。これが全世界にまさる命です。

「(27-28節)人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる。」

 ここで言われている「人の子」というのは、ダニエル書から来ていますが、御子イエスのことです。ダニエル書7章13-14節には「見よ、『人の子』のような者が天の雲に乗り、『日の老いたる者』の前に来て、そのもとに進み、権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え、彼の支配はとこしえに続き、その統治は滅びることがない。」とあります。これはイエスが天の父である神の栄光の内に、み使いたちを従えて再びこの地上に来られるという預言であり、イエスこそが全世界の王であると語られています。

 イエスは私たち一人ひとりに本当の命を与えようと、絶えず真実の愛をもって招いておられます。私たちはこの世で与えられた一生の間、神を愛し、神を喜び、神に導かれて生きていくべきではないでしょうか。ためらわずにイエスに従っていきましょう。

(牧師 常廣澄子)