共に歩まれるイエス

2024年3月31日(主日)
主日礼拝『 イースター礼拝 』

ルカによる福音書 24章13~35節
牧師 常廣澄子

 皆さま、イースターおめでとうございます。本日の礼拝は、イエス様が死を打ち破って復活されたことを喜び祝うイースターの礼拝です。イエス様の復活がなかったならキリスト教も教会も存在していません。イースターはクリスマスと同じように私たちにとって喜びと感謝の日です。

 神の御子イエス・キリストは確かに十字架で殺され、死んで墓に葬られました。イエスが十字架に架けられたのは安息日の前の日でした。聖書にはその日は準備の日であったと書かれています。ユダヤの暦では日没から次の日が始まりますので、安息日が始まってしまっては何もできませんから(律法では安息日は労働が禁じられています。)、日が暮れる前に急いでまだ誰も葬られたことがない墓の中に納められました。この墓はアリマタヤのヨセフという議員が提供してくれたものです。ニコデモという議員も協力しました。ひそかにイエスを信奉していた人達がいたのです。ところが、安息日が終わり週の初めの日の朝早くに、女性たちがイエスを葬った墓に行ってみると、そこにイエスのお身体がなかったのです。

 愛する人が埋葬される時には、おそらく余裕のある時でしたら、死者の身体を香料で清め、豊かな香りで包むという埋葬の手続きが既に成し終えられていたはずですが、イエスの葬りは本当に急のことでしたので、おざなりになったまま葬られてしまったのです。イエスに付き従っていた女性たちはどうしてもそれが心残りでした。だから安息日が終わるのを待ちかねて墓に急いだのです。これはイエスに対する深い愛の表われです。そしてこのように女性たちが墓を訪ねたからこそ、イエスのお身体が墓の中にないことがわかったわけです。このことはイエスの復活を考える上でとても大切なことです。イエスの復活は、イエスが人間のお身体で生きておられたこと、その肉体を抜きにしては考えられないことなのです。聖書が語っているのはイエスのお身体が無くなっていたということですから、イエスは肉体をもって復活されたということです。

 本日の聖書箇所の少し前のところを読みますと、墓の中にイエスのお身体が無いものですから、女性たちが途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人が、「なぜ生きておられる方を死者の中に探すのか、イエスは復活されたのだ、イエスは今生きておられる」と伝えたのです。女性たちは驚きましたが、生前にイエスが語っておられたことを思い出して急いで帰り、使徒たちに一部始終を伝えました。しかしこれを聞いた使徒たちは、この話をたわ言のように思って女性たちが言うことを信じなかったと書かれています。

 この二人の天使は言いました。「イエスがまだガリラヤにいた頃に話されたことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっていると言われたではないか」と。女性たちや使徒たちは、このイエスの言葉を忘れていたのでしょうか。たぶん心のどこかにそのようなことを言われたということを覚えていたかもしれませんが、墓の前では思い出せなかったのでしょう。現実の出来事に心が奪われていたからです。目の前に死の現実があれば、それに逆らうような言葉を思い起こすことは人間にはなかなかできないことだと思います。

 さてここからは本日の御言葉から聞いてまいりましょう。このような出来事が起こっていたちょうどその日に、二人の弟子がエルサレムからエマオという村に向かって歩いていました。エマオはエルサレムか60スタディオン(およそ12キロメートル)ほどのところにあった村だと書かれていますが、それがどこなのかはよくわかっていません。この二人は歩きながら、この数日に起こった一切の出来事について話し合っていました(14節)。その時、イエス御自身が近づいてきて、一緒に歩き始められたというのです。

 イエスと共に歩くことができたこの二人の弟子の物語は、聖書の中でも最も美しい物語であると、多くの人が言います。多くの画家たちはこの場面を美しい情景のあたたかい絵に描いています。私たちもここを読むと、何かあたたかい気持ちになります。しかし、この物語のどこに美しさがあるのでしょうか。美しい風景や美しい人が出てくるわけではありませんし、ここに登場している人たちの心が美しいとも書いてありません。むしろ彼らについて書かれているのは、まず「暗い顔をしていた」ということです。この「暗い」というのは、偽善者が断食しているのを人に見せようとしている辛そうな表情のことです(マタイによる福音書6章16節参照)。また、イエスとのやり取りの後では、イエスから「(25節)ああ、物分かりの悪く、心が鈍い人たちだ」つまり頭が悪いとまで言われているのです。

 二人が歩きながら話し合い論じ合っていた時、イエスが近づいてきて一緒に歩き始められたのですが、二人にはその人がイエスだとはわかりませんでした。16節には二人の目が遮られていたからだと書かれています。「(17節)イエスは、『歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか』と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。」二人のうちの一人はクレオパと言いました(18節)。そのクレオパが答えました。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」「滞在していた」という表現は、旅をしていて客として泊まっていたということですから、つまりその土地の人ではないという意味です。自分の国でないところを旅行していれば、つまりよそ者であれば、その地域で起きていることがピンとこないわけです。その土地の新聞にその町やその場所で起こっている事件が報道されていても、普段そこに住んでいませんから何が起こっているかわからないことがあります。きっと皆さまにも、旅行中、その土地やあるいは外国で、そういう体験をなさったことがおありではないでしょうか。

 一緒に歩き始めたイエスが、その話はいったい何の事かと聞いたので、クレオパがあっけにとられて言ったのです。「あなただけじゃないか、エルサレムに泊まっていながら、この話を知らないなんて。」そんな感じで言ったのでしょう。これは過越の祭りの真最中に、しかも、エルサレムのど真ん中で起きた事件ですから、エルサレム中の人が皆知っていること、それを知らない人なんて一人もいないはずなのに、あなたはどうしてそんなによそ者でいられたのか、という驚きです。

 そう言われたイエスが「どんなことですか。」と尋ねられると、二人はあきれながらもそれを説明しました。「(19-24節)ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするために引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早くに墓に行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓に行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」

 このようにイエスの十字架から復活について語っているのですが、なおも二人は途方に切れているのです。だから二人は暗い顔をしていました。彼らのことを想像してみますと、きっと二人は郷里エマオで何らかの形でイエスを知るようになり、過越祭の時にエルサレムに行ったのではないでしょうか。そこで全く思いもかけず、イエスが十字架に架けられて殺された事件に遭遇してしまったのでしょう。彼らはイエスに望みをかけていたのに殺されてしまった、それだけでなくその後でイエスがよみがえったということを聞いたにも関わらず、そのことを喜ぶどころか、すごすごと自分たちの村に帰って行く途中だったのです。エマオに帰ってこれからどうやって生きていけばよいだろうか、彼らの足取りは重かったのです。

 16節で彼らの目が遮られていたことが書かれていましたが、主の復活がどういうことかわからない彼らの心には光がなかったのです。そこで、イエスは言われました。「(25-26節)『ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。』そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自身について書かれていることを説明された。」イエスは、二人と一緒に歩きながら、メシアはなぜ十字架で苦しんで死ななければならなかったのかということを、聖書全体を通して二人に解き明かされました。聖書の始めから終わりまで、ご自身について書かれていることをすべて明らかにしてくださったのです。

 そうこうしているうちに、一行は目指す村、エマオに近づきました。しかしイエスはなおも先へ行こうとされる様子でした(28節)。イエスがどこに行こうとされていたのかはわかりませんが、イエスの目指していた先は違っていたようです。しかし、だからと言ってイエスは愚かな弟子たちを置いて自分一人先に行かれるお方ではありません。弟子たちが真剣に呼び止めるならばその家に留まってくださるのです。二人はイエスを引き留めました。「(29節)二人が、『一緒にお泊りください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから』と言って、無理に引き留めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。」そして「(30節)一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。」

 二人はイエスと親しくその食卓を囲んだことが語られていますが、ここで考えられることがあります。二人の弟子というので、つい私たちは二人共男性だと思い込んでしまいますが、もしかしたら一人は女性であったかもしれないということです。二人はクレオパとその妻だったのではないでしょうか。エマオの村に着いて、ここにお泊り下さい、というのであれば、同じ家に住んでいる夫妻であったのではないだろうかという推測もできます。自宅に着いて、妻は急いで食事の用意を整えたのでしょう。しかし、不思議な事に、本来食事を采配するのはその家の主人であるはずですが、ここではイエスがパンを裂いています。共に食べるという食事の行為は人間の大切な営みであり、真実の交わりです。また食事は喜びと祝福の場でもありますから、復活されたイエスがこの二人を祝福の中に引き込んでくださったのかもしれません。

「(31節)すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。」何ということでしょう。二人が遂にイエスの存在を認めた瞬間、イエスのお姿が消えてしまいました。しかし甦られたイエスは、確かに二人に近づいてくださったのです。このように、イエスの復活の記事に共通していることは、いつもイエスの方から弟子たちに近づいてきてくださっているということです。弟子たちに近づかれて、イエス御自身が復活されたことを証してくださっているのです。ここで二人はイエスがいま生きておられるということがはっきり分かりました。イエスの復活が分かったのです。

「(32節)二人は、『道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか』と語り合った。」これは二人の述懐です。イエスが話していたその最中に気づいたのではなく、後になって「あの時、そうだったね」とわかったのです。「心が燃えていたではないか」これはかっかして激しく燃え上がるのではありません。静かにしっかりと確実に燃えているのです。イエスが聖書を語ってくださった時、二人の心にはその御言葉の一つひとつが厳かに、そして鮮やかに燃えて彼らの心に刻み付けられていったのです。聖書に書かれている神の愛と慈しみが彼らの心に注ぎ込まれていったのです。このような火は一生燃え続けて種火となって心の奥に宿っています。

 私たちの人生においても、この二人と同じようなことが起こっています。イエスはいつも私たちと共に、私たちの人生を一緒に歩いていてくださるのです。私たち人間は絶えずいろいろな問題にぶつかり、心身共に疲れます。祈ることもできずにどうしたら良いか分からず、本当に途方に暮れることも起こります。時には前に進めず立ち止まる時もあるでしょう。立っていることができずにしゃがみ込む時もあるかもしれません。そんな時、私たちと共に歩いてくださるお方がおられるのです。イエスはどんな時も一緒にいてくださるのです。それはイエス御自身が約束されたことなのです。心から主を呼び求めるなら、主が共に宿ってくださることが分かります。この二人にしてくださったように、聖書を解き明かし、神の言葉を語ってくださるのです。主が共にいてくださることは、私たちの心が平安になり、静かに燃えてくることでわかります。聖書を読む時、また御言葉を聞く時、その御言葉から神の愛と恵みが私たちの心に沁みとおってくるのです。

 イエスにお会いした二人の弟子は、この後すぐに出発してエルサレムに戻ったとこの物語は続いています。既に夜中です。しかし、二人は寝るのも忘れて仲間のところに戻って行き、共に主の復活を喜んだのです。エマオに帰ってくる時は、明るい昼の光の中でしたが心は暗く沈んでいました。しかし、今この暗い夜の道を歩く二人の心は主の光で輝いています。ここに暗い世の中に立つ教会の姿があるのだと思います。
「日暮れて四方は暗し 我が霊はいとさびし 寄る辺なき身の頼る 主よ、共に宿りませ」(日本基督教団讃美歌39番)讃美歌の歌詞にありますように「主よ、共に宿りませ」「主よ、私たちと一緒に泊まってください」この祈りが私たちの日々の祈りでありたいと心から願っております。

(牧師 常廣澄子)