五千人の供食

2022年11月20日(主日)
主日礼拝『 子ども祝福 』

ルカによる福音書 9章10~17節
牧師 永田邦夫

 先週、13日の主日礼拝には、シンガポール国際日本語教会牧師、伊藤世里江先生をお迎えしての礼拝に、沢山の方々の出席をいただき、本当に恵まれた時を持つことが出来ました。先ずこのことを、主なる神に感謝いたします。わたくしたちの志村バプテスト教会は、60有余年の歴史と共に、世界に向けての大きな広がりをもっていることも、また改めて感じさせられた時でした。

 本日の礼拝も、ルカによる福音書からのメッセージを、ご一緒に聞いて参りましょう。この箇所は一般に「五千人の供食」と言われている箇所でして、また新約聖書で唯一、四つの福音書すべてに記されている記事でもあります。主イエスさまがなさった奇跡の出来事の中でも、特に“重要な奇跡”であることを示しています。

 冒頭の10節aは「使徒たちは帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに告げた。」と始まっています。十二人の弟子について、ここでは「使徒たち」と記されていることにも注目です。使徒とは、ギリシア語でアポストロス、すなわち自分の身代わりとして遣わす使者、いわば、“全権大使”を表しています。ではここで、本日箇所に至るこれまでの経緯について簡潔に確認しておきましょう。主イエスは、山に登っての徹夜の祈りをした後、弟子の中から十二人を選び、使徒と名付けてはいましたが、その後も、弟子訓練を兼ねながら伝道を行ってきました。

 そして、直前の9章に入りましてから、その十二人を呼び集めて、悪霊追放、病気のいやしの力と権能を授けたあと、使徒として遣わされました。これを受けた十二人は、村々を巡り歩き、福音を告げ知らせてきたことが記されています。その直後を受け聖書には、領主ヘロデの記事があり、続いて本日の“五千人の供食”の記事へと繋がっています。このパターンは、共観福音書すべてに共通していることも特徴です。

 使徒たちの帰還報告、と言いますと、かつてテレビ番組で「初めてのお使い」というのがありましたが、それを私は思い出しました。それはさておき、使徒たちの帰還報告を聞いたあと、「イエスは彼らを連れ、自分たちだけでベトサイダという町に退かれた。」(10節b)とあります。

 ここに記されています、“自分たちだけでベトサイダに退く”ということについては、二つの意味を考えることができます。まず一つは、主イエスが使徒たち十二人を連れて「自分たちだけで静かな場所に退く」ということです。それは、“使途たちが行ってきた巡回伝道の労苦への労いと同時に、今までの伝道旅行で起こったことなどを更に詳しく聞く時とする”と言うことです。かつて教会では、夏に「リトリート」(「退修」という意味の研修プログラム)を持っていた時期があります。この時のイエスさまにも、そのような意味合いがあったことでしょう。もう一つの意味は、行く先をベトサイダという町にしたことの意味です。この場所は、ガリラヤ湖畔の北側にあって、領主ヘロデの支配の及ばない場所だったのです。「ヘロデの支配」と言いますと、先ほどもヘロデに関する記事のことに少々触れましたが、本日箇所の直前に、次のような内容の記事があります。

 即ち、領主ヘロデは、イエスさまの活動や弟子たちの活動、さらにはこれらに対する、世の人々の評判をも聞き、あれこれ詮索しながら、イエスさまのことを「この人は、いったい何者だろう」と、戸惑いを見せていた、とう内容です。以上、一行がベトサイダに退かれた理由です。

 その後のことを聖書から見ていきましょう。11節に、「群衆はそのことを知ってイエスの後を追った。イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた。」とあります。イエスさまの伝道には、優先順位はありません。今現在、そこにいる人、目の前にいて、苦しんでいる人が優先されるのです。本日箇所の並行記事である、マルコによる福音書の6章34節には、イエスさまが「大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた」とあります。

 また本書、ルカによる福音書8章40節以下で、ヤイロという会堂司がイエスさまのところに来て、「十二歳の娘が死にかけている、急いで家に来て、何とかしてほしい」と訴えましたが、ヤイロの願いを他所に、さらにそこに、十二年間も長血を患っている人が来て、群衆をかき分けながら、近寄ってきたその女性に対して、イエスさまは、その癒しを先にされた例もあります。

 聖書の本日箇所に戻りまして、群衆への福音伝道が続いているうちに時間も過ぎていきました。そのときのことが、次の12節にあり、「日が傾きかけたので、十二人はそばに来てイエスに言った。『群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです。』」と、イエスさまに提言しました。この弟子たちの提言は一見、もっともな感じも受けます。

 しかし、弟子たちからの提言を聞かれイエスさまは、すぐさま弟子たちに言われました。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」という、命令の言葉です。しかし、そのイエスさまの命令を受けた弟子たちは、すぐそれに従うのではなく、イエスさまに対して、言い訳と、その説明の言葉をさらに続けたのです。それが、次の13節後半から14節前半にかけてあります。

「『わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり。』というのは、男が五千人ほどいたからである。」とです。
なお参考までに、本日箇所の並行記事であります、マルコによる福音書、6章の37節には、「そこにいる群衆に対してパンを買い求めるなら二百デナリオン(1デナリオンは、当時の労働者の一日分の賃金相当の金額と言いますから、全体で二百万円ぐらいと考えることできます)は必要である」との言葉が記されています。

 以上の通り、弟子たちの現実的な見方や感覚で、そこに集まっている人々に対して食事を提供することは、“到底無理なこと”と考えたのです。ここで、わたくしは考えさせられました。わたくしたちの教会はいま、教会の将来計画について具体的に皆で考えて、良い結論を導き出す時となっていることです。それに対して、先ず必要なことは、信仰に基づいて主なる神に祈り、前向きに考えながら、①今わたしたちにとって、何が必要なのか、②わたしたちには何ができるか、そして③それを実現するために、どんな順序で、どのように進めるか、などを導き出していくことです。
弟子たちの“〇〇しかない”、“○〇することは無理である”等々の言葉を聞いたイエスさまは、これらに関しては、弟子たちに何も語らず、次の命令のお言葉、すなわち「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」と言われたのです。これを受けた弟子たちも、「そのようにして皆を座らせたた。」とあります(以上14節b~15節)。

 次16節には、「すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために讃美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。」と、主イエスがなされた業(わざ)が記されていますが、この中での、いくつかのポイントを見ていきましょう。①この五つのパンと二匹の魚は弟子が持っていたものを受け取ったことです。②また「天を仰いでの賛美の祈り」について、受けとったパンと魚は、神がくださったもの、と理解しての感謝の賛美と祈りでした。そして③裂いたパン、魚は、弟子たちを用いて、先に組み分けされている五千人もいる群衆に対し、順番に配らさせております。その後、人々はイエスさまの合図で、配られたパン、そして魚をいただいたことでしょう。その後のことは、17節に記されています。

「すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠(かご)もあった。」と何気なく記されています。少し前に、弟子たちは、主イエスに向かって“パン五個と魚が二匹しかない”、“もう時間だから人々を解散させてほしい、自分たちで何とかするでしょう”と訴えていましたが、主イエスさまが、直接に、神に祈り、神に感謝をお捧げしての、この業によって、事態は全くかわり、五千人余の人々が満腹し、しかも残りのパン屑も、十二の籠一杯になった奇跡でした。わたしたちは、主イエスさまが最後は、十字架上にお体を裂き、血を流された、その贖いの業によって、お腹の満腹にとどまることなく、罪の赦しと、永遠の命に与っておりまして、本日の出来事を知らされたとき、まずこのことへと思いを向けてしまいますが、ここで、神がなさった、旧約聖書の奇跡に目を向けてみましょう。

 出エジプト記16章から、イスラエルの民は、エジプトで40年間の苦難の生活を強いられていましたが、神の導きによって、やっとの思いで、エジプトの奴隷生活から脱出して、シンの荒れ野までやって来た時のことです。民が飢え渇きに苦しんで、「こんな状態ならエジプトにいた方が増しだった、十分に食べることが出来たのに」と不平・不満を、モーセ、アロンにぶちまけました。

 これに対して、主なる神は「あなたたちのために、天からのパンを降らせる」、「毎日、必要な分だけを集めるように」と、恵みの約束をしてくださったのです。果たしてその約束を守ったとき民は、その空腹を満たすことが出来ました。(なお、この天からのパンは、「マナ」と名付けられています。)主イエスさまは、或いはこの出来事を思いつつ、本日の出来事をなさったことでしょう。ここで本日の出来事について、大切なことを整理します。

 本日示された奇跡のできごとは、自分がもっているもので、それがたとえ、小さなもの、僅かなものであっても、それを、神に感謝し、神に賛美をし、神にお捧げするとき、それが大きなものになり、時には、とてつもなく大きなものになっていくことが示されています。

 十二弟子は、主の命令「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」を受けたとき、はじめは躊躇しながら、「ここにはパン五個しかない、魚二匹しかない」と現実のみにしか目が向いていなかったが、中途から主のご命令に従って、その通り行ったとき、そこに奇跡が起こされ、主のみわざが実現されました。わたくしたちも時には、現実に恐れをなしてしまうときがありますが、主の恵みに気付き、主に従っていくことが出来ますように、ひたすら願う者です。

(牧師 永田邦夫)