求める者への約束

2023年10月8日(主日)
主日礼拝『 誕生日祝福 』

ルカによる福音書 11章5~13節
牧師 永田邦夫

 本日も皆さんとご一緒にルカによる福音書からのメッセージを聞いて参りましょう。
新共同訳聖書には、11章1節から13節まで、「祈るときには」の小見出しがついていますので、この箇所全体が、“祈りについての箇所”であることが分かります。

 先ずこの、1節から13節全体に目を通しますと、冒頭1節には「イエスはある所で祈っておられた。」とあります。このように、ルカによる福音書には、主イエスさまが祈っておられる場面とそのお姿が頻繁に出てまいります。その例を数か所挙げますと、主イエスご自身の受洗後の祈り(3章21節以下)、十二弟子を選ぶ前の祈り(6章12節以下)、そして、イエスの姿が変わる(変貌のイエス)箇所での祈り(9章28節から36節)、等々です。これはルカによる福音書の大きな特徴でもあります。因みに、これらの並行記事が記されている、マタイによる福音書を見ますと、そこには、主イエスさまが祈っている様子は見当たりません。

 また本日箇所の最後、13節には、「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」との聖霊についての記述があり、これもルカによる福音書の大きな特徴です。同じくルカによって書かれた、使徒言行録について見ますと、五旬節の日に聖霊が降って、そこにキリストの教会が誕生した、という出来事や、ほか聖霊に満たされて祈っている場面が多いことから、使徒言行録のまたの名を、“聖霊行伝”と呼ぶことなども、その特徴に関連しています。
  
 以上のことを踏まえた上で、ルカによる福音書の成立と特徴をお伝えします。この福音書は、主イエスが十字架と復活から55年、すなわち半世紀以上たってから執筆されました。
主が召されてから間もないころは、“主の再臨近し”という信仰があり、なかなか落ち着いて信仰生活ができなかったようですが、それも遠のいて、キリストの再臨を将来のこととしてとらえて、落ち着いた信仰生活を続けて行こう、との考え方が主導的になりました。

 すなわち、「キリストの時代」、から「教会の時代」へと移り変わったのです。因みに、今日までこの「教会の時代」は続いています。そして、キリストの時代から、教会の時代に移る、中間に位置するのが、聖霊降臨の出来事(使徒言行録2章)だったのです。

 大変長くなりましたが、本日箇所に入っていきます。その前に、11章の1節からの全体の構成について触れておきます。1節で「イエスがある所で祈っておられた」と始まり、弟子の一人の求めによって、祈るときにはこのように祈りなさいとして、「主の祈り」について教えられました(1節~4節)。それに続いて、祈りの姿勢と心がけ、さらには、その祈りに対する神の応答などが示されている箇所(5節~13節)、が本日箇所です。

 では、5節から8節までの段落を見ていきます。主イエスは弟子たちに対し、祈りの核心に入る前に、ごく卑近な友達同士の頼みごとについての例話を引いて話をされました。5節「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き――」と始まります。非常に親しみやすい表現で話され、わたしたちにとりましても、仲間内でのこととして、さらにそこには、あたかも主イエスさまも一緒におられるかのような感覚にさえなります。 

 続いて6節まで「次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』と記されています。これに対して、家の中からあった友達からの応答が次の7節、「面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばに寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。」でした。

 この、数節のやり取りには、パレスチナの土地柄や当時の(いや、今現在もそうかも知れませんが)生活習慣が関係しています。パレスチナは季節によって気温が高く、旅行者は夕方から夜にかけて旅をしたと言われます。また当時のパレスチナの家は、部屋が一つだけで、特に家族の多い家庭では、子供たちが親と一緒に、くっつき合って寝ていた、と言われています。ですから、この例話のように、たとえ親しい友達の来訪であっても、夜中には簡単に応じる訳にはいかなかったのです。

 以上を受けての主イエスの言葉が次の8節「しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何かを与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。」とあります。因みにこの箇所は、新改訳聖書では「あくまで頼み続けるなら」と表現しています。因みに「しつように頼む」の原語(ギリシア語)では“アナイデイアン”で、その意味は、「しつこく」あるいは「恥知らずのほど厚かましく願い続ける」という意味です。

 しかし、この箇所の例話で主イエスが言っておられることは、字義通り、“しつこく”また“厚かましく”の意味ではなく、相手のことも信頼したうえで、熱心に頼めばきっと聞き入れてくれる、と相手への、更には神への信頼に基づいて頼みなさい、と言われているのです。
ところで、主イエスが言われた「しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう」の言葉から直ぐ思い出される旧約聖書の出来事があります。それは、イサクの子ヤコブの身の上に起こった出来事です。それはヤコブが経験した“ヤボクの渡しでの夜を徹しての格闘劇のことです。その格闘劇をもう少々詳しく見ていきましょう。

 ヤコブには双子の兄弟である兄エサウがいました。あるときヤコブは、空腹で疲れ切った兄エサウから、熱いレンズ豆の煮物一杯で、長子の特権を奪い取る結果となりました。そのことにずっと苛(さいな)まれ続けていましたが、ようやくヤコブには、エサウと再会し和解を果たすときが来たのです。その前夜に起こった出来事が、ヤボク川の渡しでの格闘劇です。夜中にヤコブに何者かが現れて、夜を徹しての闘いが起こりました。その結果ヤコブが勝ったものの、腿(もも)のつがいをはずされる結果となりました。この時現れた“何者か”とはもちろん神の使いでした。そして長年、念願であった兄エサウとの再会、そして和解を果たすことが出来て目出度しです。またそれ以降ヤコブは、「イスラエル」と呼ばれるようにもなりました(創世記32章)。

 次は9節、10節に入ります。まず9節には「そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」とあります。この言葉はあまりによく知られている聖書のみ言葉、そして主イエスさまの教えの言葉です。そして、あまりに慣れ親しんでいるがゆえに、簡単に聞き流してしまいそうなみ言葉でもあります。しかし、ここでこの言葉の冒頭にあります、「わたしは言っておく」との始めの言葉に注目しましょう。

 弟子たちに対して,またわたしたちに対して、主イエスさまご自身、神の御子たる主イエスさまご自身が、すべての人にこのことは良く知っていて欲しい、との厚い願いを込めて、人々に告げているのです。
求める人、探す人、そして、門をたたく人に対して、主なる神ご自身が答えてくださる、ということを主イエスさまがここで弟子たちに、そしてさらに世のすべての人に告げていてくださるのです。このことを理解したうえで、もう一度確認していきますと、求める人はその求めに神が答えてくださり、その求めているものを、神がお与えになる。そして探す人には、その探しているものを、神ご自身が与えてくださる。そして、門をたたく人、すなわち、自分から出かけて行き、人を訪ね求める人には、その門を神ご自身が開いてくださる、と言っています。主イエスさまは、その神の御子であり、神から遣わされて、世にきてくださっている方です。その御子ご自身が、以上のことをすべての人に告げてくださったのです。なんという感謝なことでしょうか。

 以上のことを主イエスさまが告げた後、11節以降のことを教えてくださいました。
ここは冒頭の友人同士への教えから、さらに卑近な、親子関係のことを例に挙げて教えを続けてくださっています。さらに気が付くことがあります。初めの5節からの教えも、そしてさらに11節からの教えも、「あなたがたのうちのだれか」あるいは「あなたがたの中に」と言っているのも注目です。当時の弟子たちも、友人がいて、また、家族もいたことでしょう。

 何れも、そのような環境を念頭に置きながらの教えだったのです。このことによって、本日の祈りに関する教えは、より自分に関することとして、親しさを覚えてきます。
 では11節からの内容を見ていきます。「魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。」とあります。ここはこれ以上説明の必要はありません。ここに記されているとおりです。
 
 しかし、次の13節前半を読んでから、前の11節12節を再度目を通しますと、さらに、その理解を深め、納得させられます。「あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良いものを与える」ではないか、といっています。すなわち、わたくしたち自身はみな、神の前には罪びとです。罪なき人はだれもいません。しかしこの箇所で、わざわざ“悪いもの”と言っているのは、子供には“良いもの”を与えるだろう、と表現しながら、「善」、「悪」を対照的に言っているようにも思えます。(これはイエスさまのユーモアかもしれません)

 そして、いよいよ13節の最後の言葉「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」と結んでいます。聖霊をいただき、聖霊の中で、わたしたちは祈り続ける者となりましょう。
 
本日箇所は、冒頭でも触れてきました通り「祈り」についての箇所でした。その祈りについての教えの中で、主イエスは、友人同士の頼みごと、はたまた、親子関係の中での生活ぶりを例に挙げながら説明されました。そのすべてで気づかされたことは、祈りの大切さです。わたしたちも生活すべての中で、真剣に主なる神に祈り求め、そして、さらに忍耐強く祈り続けることの大切さを教えられました。感謝、感謝です。

(牧師 永田邦夫)