子どもを愛するイエス様

2023年11月19日(主日)
主日礼拝『 子ども祝福 』

マルコによる福音書 10章13~16節
牧師 常廣澄子

 本日は「子ども祝福」がありました。今は少子高齢化の時代で子どもの数が少なくなっています。教会に与えられている子どもたちは教会の宝です。先ほど子どもたち一人ひとりの成長を感謝し、皆で神の祝福をお祈りできたことは本当に感謝です。今、世界の状況は混沌としてわかりませんが、どうかこの子どもたちの未来を神が守り導いてくださいますようにと心から願っております。

 今朝の聖書個所には子どもたちが出てきます。「(13節)イエスに触れていただくために、人々が子どもたちを連れて来た。」当時、イエスが行かれる所ではどこでも、大勢の人たちが集まってきました。イエスが病気を癒してくださるお方だとわかると、病気の人たちや身体に障がいを持っている人たちがその家族に連れられてやってきました。しかし、ここで子どもたちを連れて来たのはそのような癒しが目的ではありません。イエスに祝福していただきたかったからです。当時は偉いラビ(ユダヤ教の教師)が来られると、頭に手を置いて祝福してもらうという習慣があったのです。この時も人々はイエスに祝福してもらいたかったのでしょう。この当時の人たちはイエスを立派な偉いお方だと尊敬していたことがわかります。

 ところが彼らがイエスのおられるところに近づいてきた時、イエスの弟子たちは連れて来た親たちを叱り、子どもたちを追い返そうとしたのです。「(13節続き)弟子たちはこの人々を叱った。」
当時、女性や子どもは、人間としての数にも入らない扱いを受けていました。子どもというのは、無知で無能で、社会的には何の価値もない者でした。今の私達が考えるように、子どもは純粋無垢で清らかであるなどという発想などありませんでした。「(14節)しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。『子どもたちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。』」

 イエスは弟子たちが子どもたちを追い返そうとしているのを見て憤られたのです。弟子たちは驚きました。弟子たちは、伝道旅行で疲れているイエスに負担をかけさせないために、忙しいイエスのためにと思ってやったことでしょうから、どうしてイエスが憤られるのかわからなかったに違いありません。

 イエスのところに連れて来られた子どもたちは、いったいいくつぐらいの子どもだったのでしょうか。16節には「そして、子どもたちを抱き上げ」と書かれていますから、そんなに大きな子どもはいなかったのかもしれません。この出来事はマタイによる福音書19章13-15節にも、ルカによる福音書18章15-17節にも書かれていますので、その聖書箇所も合わせて見ていきますと、子どもたちという原語は、生後一歳頃までの乳飲み子(ギリシア語ブレフェー)と書かれていたり、小さな子どもから、大きくなってラビから律法を学ぶ年齢(12~13歳)の子どもにも使われる言葉(ギリシア語パイディア)が使われています。とても幅広い言葉です。今ここに集まって来た子どもたちが、何歳ぐらいなのかわかりませんが、とにかく、大きい子も小さい子もいたのだと思います。 

 ところで、どうしてイエスは弟子たちの行為を怒られたのでしょう。「子どもたちをわたしのところに来させなさい。」イエスは子どもたちを招いておられるのです。イエスは子どもたちをこよなく愛しておられるのです。ところが、弟子たちはイエスと人間の間に入って、人間を選別し、子どもたちを除外しようとしていたのです。イエスのそば近くでイエスが語られた福音を聞き、イエスのなさることを見ていながらも、弟子たちの心は誤った熱心さに偏っていたようです。イエスのお心が理解できずにいたのです。

 弟子たちはイエスのなさる素晴らしい御業を見て、自分たちは今や重要な地位に置かれている、おまえたちのような群衆や子どもたちとは違うのだと思ってしまったのではないでしょうか。弟子たちのこういう慢心に対しては、イエスは以前にも注意されたことがありました。今朝の聖書箇所のすぐ前の9章36-37節を見ますと、「そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。『わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。』」

 続けてイエスは言われました。「(14節続き)神の国はこのような者たちのものである。」「(15節)
はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」ここを読みますと、この個所でイエスが怒られた最も大切な理由がわかります。それは弟子たちが持っていた誤った神の国理解だったのではないでしょうか。弟子たちが考えていた神の国というのは、イエスが王となり、自分たちはそのまま栄光の身分に与れると考えていたようです。ある意味でそれは間違いではないかもしれません。神の国と地上の国は、イエスという仲介者が来られたことによって、今や道がつけられ、つながっています。イエスにつながる者は神の国につながっているのです。

 では、イエスにつながるとはどういうことでしょうか。弟子たちはイエスと一緒に行動し、寝食を共にしていますから、それがつながるということでしょうか。もしそうであるならば、弟子たちは神の国に一番近い存在ということになります。しかし、人間と神の国との関わりは、そのような単純なものではありません。イエスは言われました。「(15節)はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」ここの「はっきり言っておく」という言葉は、いつもイエスが大事なことを教えられる時にまず最初に語られる言葉です。イエスはここで「子どものように神の国を受け入れる」ということを強調しておられます。すなわちそれは、信仰を持って受け入れるということです。神の国は子どものようにへりくだった者の国なのです。イエスのそば近くにいることが神の国に入れる条件ではないのです。弟子たちはこのことがまだよくわかっていませんでした。そういう大事なこともわからずに、ただイエスの側にいることを誇り、偉ぶっていたのです。弟子たちはきっとこのように思っていたのでしょう。「神の国は大人の国だ。イエスの教えも分からない女や子どものものではない。」と。イエスはそれを怒られたのです。

 もちろん純粋無垢な子どもと言えども、神の前にあっては皆罪人です。しかし子どもは文句を言わずに神の言葉を素直に聞いて受け入れる性質を持っています。神の国は人間の努力や善行によって入れるものではありません。神の国に入るためには、素直に神を信じ、信頼して受け入れる心が必要なのです。ある意味で神の国に入る者は、心貧しく、力弱く、社会的には愚かと思われている人たちかもしれません。しかし人間は自分には何の価値もないと思う者こそが神の国に最も近い所にいるのです。大人ぶって何でも知ったかぶりでいる態度ではなく、子どものように何も知らず、力もなく、ただ神への信頼があることによって、神の国へ入ることができるのだと思います。

 私には孫がいます。一番小さい孫は今3歳です。先日足を骨折してしまったので、保育園に預けることができなくなりましたので、時々世話をしに行っていますが、おばあさんの私が来るととても喜んで両親がいない時間を安心して過ごしています。プラレールをつくって電車を走らせたり、ブロックや積み木をしたり、本を読んであげたりして一日過ごしていますが、遊んでいて疲れると、私の身体に寄りかかってきます。まったく安心して自分の身体を私に預けてリラックスしているのです。この孫の態度を見て思いました。子どもは誰でも無邪気で、無心で、自由です。先日佐藤家に可愛い赤ちゃんが誕生しましたが、赤ちゃんは時々顔をしかめたり、笑ったり、お腹がすいたと言って泣いたり、のびのびと自由に生きています。決して人生は苦しいものだ等というような悟った顔などはしていません。

 子どものように神の国を受け入れるというのは、つまりこのように、神様を信頼して、すべてを神様に任せることだと思います。神の愛と守りを信じて子どものように素直に精一杯生きることです。どんなに苦しくて辛いことがあっても必ず守ってくださる神様が傍におられるということを信じて生きること、それが「子どものように神の国を受け入れる」」ということではないでしょうか。この御言葉は、子どもが全く親を信頼し、頼り切っているように、神に信頼することがどんなに大切であるかを教えています。

 ルカによる福音書6章20節に「貧しい人々は幸いである。神の国はあなたがたのものである。」という御言葉があります。ここでイエスが語っているのは、貧しい人に何か優れたところがあるから、ごほうびに神の国を与えてくれるという意味ではありません。貧しい人々は貧しいが故に自分を守る知恵も力も資金も何もありません。神以外に頼るべきものがないのです。ですからひたすら神の救いを求めています。神はそういう彼らの声を聞き、彼らに近づき、守り、救ってくださるのだというのです。そこが神の国です。だから貧しい人々は幸いなのです。

 ここでも同じことが語られています。子どもは無知で無能で無力で、何の価値もない者と思われています。だからこそ、神はこのような子どもに目を注ぎ、このような子どもをご自分の国に招いてくださるのです。ここには子どもの人権があります。イエスが示される神の愛は無条件にすべての人に注がれていますが、とりわけ、弱く貧しく虐げられている人々に注がれています。イエスはその神と同じまなざしで、子どもたちを見ておられるのです。「(16節)そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。」

「神の国はこのような者たちのものである。」これは、神の国は子どもであればだれでも無条件に入ることが出来るという意味ではなく、「子どもたちが素直に神の言葉を受け入れるように、あなたがたもそのように素直でありなさい。」「子どものようにいつも神により頼む心で生きていきなさい。」そうイエスは語られたのです。今ここにある自分の命と生活を感謝し、それを子どものように受け入れて精一杯生きることです。もし身体が動かなくなって、何もできなくなってしまっても、それをそのまま受けとめて、神の導きを信じて心を安んじて生きることです。それがイエスが言われた「子どものように神の国を受け入れる」(神を信じて生きる生活である)ということだと思います。

(牧師 常廣澄子)