ペトロの説教

2023年11月26日(主日)
主日礼拝

使徒言行録 3章11~26節
牧師 常廣澄子

 前回はペトロとヨハネが午後3時の祈りに神殿に上って行った時のことをお話ししました。ペトロは、神殿の「美しい門」の所で施しを乞うていた、生まれながら足の不自由な男を見て、「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。」と言って彼の右手をとって立ち上がらせたのです。癒された男は躍り上がって立って歩きだし、神を賛美しながら二人と一緒に神殿に入っていきました。そしてその後も弟子たちに付きまとっていました。

「(11節)さて、その男がペトロとヨハネに付きまとっていると、民衆は皆非常に驚いて、『ソロモンの回廊』と呼ばれる所にいる彼らの方へ、一斉に集まって来た。」「美しい門」を出た所に回廊があり、ここはその昔ソロモン王が神殿を建てた時のまま古い姿をとどめていたので「ソロモンの回廊」と呼ばれていました。この場所でイエスはユダヤ人たちと論争されたことがあります(ヨハネによる福音書10章23節)。この後の使徒言行録5章12節にも使徒たちやイエスを信じる者たちがここに集まっていたことが書かれていますので、おそらく「ソロモンの回廊」はみんなのたまり場のようになっていたのだと思われます。

 生まれてから40年以上も歩いたことがない人が躍り上がって歩き出したのですから、それを見ていた人々がびっくりするほど驚いたのは無理もないことです。人々が皆、癒された男を一目見ようとして一斉に彼らのいるところに集まって来たのです。そこでペトロが語った説教が、今朝お読みいただいた所です。ペトロの二回目の説教になります。ご存知のように、イエスが十字架に架けられ死なれた時からしばらくは、ペトロを中心とした弟子たちはひっそりと沈黙の生活をしていたのですが、五旬節の日に主の御霊が降臨して、イエスが死から復活されたことがわかると、ペトロは力強く立ち上がって、イエスこそ神から遣わされたメシアであると堂々と語ったのです(使徒言行録2章14-36節)。それが一回目の説教でした。最初の説教は聖霊降臨という出来事を背景に語られ、今回の説教は生まれながらに足の不自由な男の癒しという驚くべき奇跡をもとになされました。

「美しい門」でペトロが生まれながらに足の不自由な男を癒された出来事は、それを目撃していた人々にとっても、まして癒された男自身にとっても非常に大きな驚きでした。しかし、一番驚いていたのは、イエスの名によってその男を癒したペトロをはじめとした弟子たちだったのではないでしょうか。イエスによって弟子とされ、伝道に派遣された十二弟子たちは、福音を告げ知らせ、イエスの名によって病いにある人や霊に付かれた人やいろいろな障がいを負っている人たちを癒す力が与えられていました(ルカによる福音書9章6節他)。このことは福音書にはっきり書かれています。ところが、弟子たちには病を癒すことができなかった苦い体験もあったのです。イエスの生前、伝道に派遣された弟子たちは、ある男から霊に取りつかれた一人息子の癒しを頼まれたことがありましたが、どんなに癒そうとしてもできなかったことがありました(マルコによる福音書9章18節他)。しかし、聖霊を受けた今、障がいを負っている人や病のある人を癒すことができるようになっていたのです。これは弟子たちにとって大きな驚きであると同時に、病を癒す力がどこから来ているのかを人々に示す大きなチャンスでした。つまり、このことは、病を癒す力が弟子たちにあるのではなく、弟子たちが受けた聖霊とイエスを信じる信仰にあることを明らかにしています。弟子たちは自分たちの内に働く聖霊の力により、イエスの名によって病を癒すことができたのです。この出来事の証言としてペトロはこの説教を語っているのです。

 ペトロはまず「イスラエルの人たち」と呼びかけています。古い時代にはイスラエルの人たちは、預言の言葉に生きていました。聖霊が降臨されたことによって、イエスをキリストと信じて告白する教会はその預言が成就した時代に入っています。イスラエルの民には新しい時代が始まっているのです。「(12節)なぜこのことに驚くのですか。また、わたしたちがまるで自分の力や信心によって、この人を歩かせたかのように、なぜ、わたしたちを見つめるのですか。」ペトロは「なぜこのことに驚くのですか。」と語り始めます。ペトロは、病の癒しに驚いて今自分の周りに集まってきた多くの人々が、何を話すのかと一心に自分を見つめている人々を、癒しの業の究極的な源である、イエスの死と復活の出来事へと導いていきます。それはこの奇跡を行ったのは自分たちの力ではなく、イエスの名によって起きたことだからです。

 生まれながらに足の不自由な男の癒しという事実は、ある根本的な事実が示された時に、はじめてそれを理解することができます。その根本的な事実というのは、イエスの死と復活ということに他ならないのです。ペトロは言います。真の神を知らない異邦人ならともかく、「(13節)アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、わたしたちの先祖の神」を知っているあなたがたイスラエル人はこのような奇跡に驚くべきではありません。これらはイスラエルの歴史に働く主なる神ですから、イスラエル人であるならば、この奇跡が自分たちの先祖の神から来ていることを悟るはずでした。「(13節続き)わたしたちの先祖の神はその僕イエスに栄光をお与えになりました。」この神は、イスラエルの歴史の究極としてイエスを王とし、イエスに栄光を与えたのです。またその栄光はイエスが死者の中から復活したことに現わされています。

 ここでペトロは「その僕イエス」と言う言葉を語っています。この言葉はイザヤ書40-53章にわたって語られる主の僕メシアの称号です。神の僕が苦難の僕であり、苦難によって多くの人々に救いをもたらしたということ、つまり、十字架につけられたイエスこそ真の救い主であるということを語っているのです。イスラエル人が死刑を求めたのはこの救い主イエスだったのです。ここで、ペトロはイエスを処刑に渡したイスラエル人の罪深さを語ります。

 すなわち、「(13節続き)ところが、あなたがたはこのイエスを引き渡し、ピラトが釈放しようと決めていたのに、その面前でこの方を拒みました。(14節) 聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦すように要求したのです。(15節) あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。わたしたちは、このことの証人です。」イスラエル人は、異邦人ピラトでさえも釈放しようと決めたイエスを拒み、人殺しの男バラバと「命への導き手」であるイエスを取り替えたのです。「命の導き手」であるイエスを殺すということに自分たちが加担するという大きな罪を犯したのです。ここにはイエスの栄光がいくつもの肩書「その僕イエス」「聖なる正しい方」「命の導き手」というように書かれています。ペトロはいろいろなメシア称号を用いてイスラエル人が殺してしまったイエスがいかに栄光輝くお方であるかを力説しているのです。

 実にイエスこそが、栄光ある「命の導き手」であることは、「(16節) あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです。」このように立証されています。そして、死なれたイエスが今もこのような力ある業をなさるのだというのであれば、イエスは今生きておられるということです。ですから、13節で「神がその僕イエスに栄光をお与えになった」ということには、15節の「神はこの方を死者の中から復活させてくださった」ということなのです。イエスの復活は、イエスが救い主であるということの最も確かな証拠であり、それについてはペトロたちが「そのことの証人です。」と力強く語っています。神が復活させたイエスが今も生きておられ、その力を発揮して病の人を完全に癒すことができたのです。

 ですから、ここに集まって来たイスラエル人は、ただ癒された男やペトロたちを見つめているだけではだめで、ペトロたち生きた証人が指摘する重大な事実を受け止めなければなりませんでした。彼らはイエスを殺しましたが、神はイエスを復活させました。彼らはイエスを人殺しの男(バラバ)以下の人物だと定めましたが、神はイエスを「命への導き手」とされました。このようにイスラエル人は今、自分たちがやったことに相反する全く思いもかけない事実に直面したのです。

 そこでペトロはイスラエル人がとるべき態度、悔い改めについて勧告するのです。17節では「ところで、兄弟たち」という優しい呼びかけで語っています。「(17節)ところで、兄弟たち、あなたがたがあんなことをしてしまったのは、指導者たちと同様に無知のためであったと、わたしには分かっています。」ペトロのこの言葉は、イエスが十字架で言われた言葉「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです(ルカによる福音書23章34節)。」を思い出させます。彼らは何も知らなかったからなのだといってかばっています。

 そして続いて「(18節)しかし、神はすべての預言者の口を通して予告しておられたメシアの苦しみを、このようにして実現なさったのです。(19節)だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい。」と勧めるのです。そしてそれは「(25節)あなたがたは預言者の子孫であり、神があなたがたの先祖と結ばれた契約の子」だからだと言います。また、「(20節)こうして、主のもとから慰めの時が訪れ、主はあなたがたのために前もって決めておられた、メシアであるイエスを遣わしてくださるのです。」この「慰めの時」というのは、「息つく暇」(出エジプト記8章11節)とも訳されている言葉で、恐ろしい審きから免れて猶予の期間を得て、元気を回復する時のことです。私たちは日々何かしら心のストレス状態を感じることがありますが、それがゆったりと息をつける平安と慰めの時が与えられるのだというのです。それには悔い改めて、イエスを自分の救い主として迎えることです。

 そしてこのイエスは「(21節)神が聖なる預言者たちの口を通して昔から語られた、万物が新しくなるその時まで、必ず天にとどまることになっています。」「万物が新しくなるその時」というのは、救いを求めて苦しんでいる万物(ローマの信徒への手紙8章20-22節参照)が新しくされて新天新地が生まれる時かもしれませんし、「神が聖なる預言者の口を通して預言されたことがすべて成就する時」ということかもしれません。とにかく必ず訪れるであろう「万物が新しくなるその時」にイエスの再臨を真に「慰めの時」として迎えるために、私たちは今こそ神の前に悔い改めて生きていかなくてはならないのです。

 悔い改めはだれにでも必要ですが、とりわけイスラエル民族にとってはこの勧めを真剣に聞く義務がありました。ペトロはこのイスラエル人の光栄と責任を22節から26節にわたって説明していきます。モーセやサムエルを始めとして、すべての預言者たちがいずれも、このような力を持った救い主が来ることを預言していることを指摘しているのです。そして彼らの預言はまさにイエスにおいて実現したのだと明らかにしているのです。

 最後に「(26節)それで、神は御自分の僕を立て、まず、あなたがたのもとに遣わしてくださったのです。それは、あなたがた一人一人を悪から離れさせ、その祝福にあずからせるためでした。ペトロは、神が「御自分の僕を立てて」「まずあなたがたのもとに」遣わしてくださったと語ります。

 今ここでのペトロの説教は「イエスラエルの人達」「兄弟たち」と呼びかけているように、集団に対して語られていますが、説教が要求する悔い改めは一人ひとりに起こるものです。神の前では私たち一人ひとりは絶対的個人なのです。イエスの救いの出来事は、誰かと一緒にではなく、一人ひとりの決断によって起こるのです。そしてそれは「あなたがた一人一人を悪から離れさせ、その祝福にあずからせるためでした。」神は私たち人間の一人ひとりを祝福しようと招いておられるのです。

「美しい門」で起こった驚くべき癒しの出来事を解明していくペトロの説教は、この男を癒した癒しの力がイエスにあることを示し、神の前における悔い改めの信仰が必要であることを説きます。そして説教を聞いている人々に悔い改めを要求しているのです。

 私たちが今いる教会の時は、預言の成就として起こったイエスの死と復活という「この時」と、究極の時としての「万物が新しくなる時」の中間にあります。教会の時というのは、まさに宣教の時です。それはまた悔い改めの時でもあります。私たちもかつては神の愛や赦しを知らずにいましたが、神を知って悔い改め、神に立ち帰って生きるなら、神は私たちを大きな慈愛の御手で包んで祝福してくださるのです。その恵みを覚えて新しい週も感謝して生きてまいりたいと思います。

(牧師 常廣澄子)