神の国は近づいた

2023年12月3日(主日)
主日礼拝『 待降節第一主日・主の晩餐 』

マルコによる福音書 1章14~20節
牧師 常廣澄子

 今の世界情勢や人間社会の有様を見ますと、本日の説教題は間違いではないのかと思われるかもしれません。心が痛むような悲惨な出来事が多いこの頃です。神の国が近づくどころか、ますます遠ざかっているように感じられても仕方がないと思います。しかし、この御言葉でイエスは確かに「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」と語っておられるのです。

 先週、皆さんでクリスマスの飾りつけをしましたので、今、教会の中が華やいでいます。本日は待降節(アドベント)の第一日目、ろうそくが1本灯されました。4本目が灯された時、喜びのクリスマスになります。そして、先週から本日まで、クリスマス前の一週間は、「世界バプテスト祈祷週間」です。これは今から約100年ほど前に、中国で伝道していたロティ・ムーンという女性の働きから始められた運動で、全世界に主の福音が宣べ伝えられるようにと世界中のバプテスト教会で祈りと捧げものをするようになりました。この活動もまたこの御言葉に支えられています。「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」このイエスのお言葉が福音伝道に遣わされた人たちを励まし支えているのです。

 イエスがこの言葉を語られたのは、30歳くらいになられて、救いの福音を語り始めた初期のことです。イエスはまず郷里を離れられると、バプテスマのヨハネから洗礼(バプテスマ)を受けられました。その後40日の間、荒れ野でサタンの誘惑を受けられた後、伝道を開始されたのです。それも神殿があって人々が大勢集まっているエルサレムではなく、辺鄙な田舎で人々から「異邦人のガリラヤ」と蔑まれていたガリラヤ地方に向かわれました。イエスは律法を守れないが故に人々から罪人扱いされている弱く貧しい人々の中に入って行かれたのです。

 イエスが活動を開始された頃のイスラエルは、旧約聖書が語る預言者の時代からもう何百年も経っていました。人々の間では、もう預言者が現れて神の言葉が語られることはないだろうと思われていました。律法学者や祭司たちは確かに神の言葉(旧約聖書)を大事にしていましたが、神の律法に人間が付け加えた多くの細則によって、弱く貧しい人々を苦しめていました。人々は、神はもう自分たちの面倒など見てくれないのだと思っていたのです。そのような時にイエスが福音の言葉である「時は満ち、神の国は近づいた」と語りかけられたのです。

 ではこの「時は満ちた」の「時」というのはどういうことでしょうか。それを考えるには、私たち人間の歴史に深く関わっておられる神の計画ということを考える必要があります。私たち人間の歴史は、決してただ目的もなく進んでいるのではありません。人間が起こすすべての出来事は、神が人間を最終的に救いに導いていくための段階にあるのだというのが、聖書が語る歴史観です。その神の計画の中で、神ご自身が決定的にこの人間の歴史に介入する時が来た、ということ、それが「時が満ちた」と言われることなのです。

イエスがヨハネから洗礼(バプテスマ)を受けた時のことを覚えておられるでしょうか。その時、「天が裂けて、霊が鳩のようにイエスに降ってきた」(マルコによる福音書1章10節)のです。それは、神がイエスを通してこの世界に介入されたということです。イエスは神と共に天におられましたが、そこから、私たち人間世界に神の名代として遣わされたのです。そして「神の国は近づいた」と宣言されたのです。

「神の国」の「国」という言葉は、ギリシア語では「バシレイア」という語で、これは王様を表す「バシレウス」から来ている言葉です。ですから王が支配する国、王国とも訳すことができます。古い時代、中東の国々の人々は、自分たちの国があるということと、自分たちには王がいるということと、同じ意味に使っていました。ですから、「神の国」というのは、神が王となるということを表しています。

 ローマ皇帝の支配下にあったユダヤの国で、イエスはまさに「神による支配」「神の国」が近づいたことを伝えたのです。天上での主権者である神、つまり天から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声(マタイによる福音書4章17節)が聞こえたように、神から直接「わたしの心に適う者」との承認を受けたイエスによって、「神の国」つまり「神が支配される国」がこの地上に打ち立てられようとしているのです。

 ここで「悔い改めて福音を信じなさい」とあるのは、悪いことをしていたのを改めるという意味ではなく、生きていく方向を転じて、神の方向に向き直るということです。人々から罪人扱いを受け、神から見放されていたように感じていた人々に、もう一度目を上げて神を仰ぎ見なさいと呼びかけているのです。

「福音を信じなさい」この「福音」ということも難しく考える必要はありません。ただ純粋に「神の国は近づいた」ということ、そのものが福音なのです。神が私たちの王となってくださる、といううれしい知らせです。つまり福音とは、神の御子イエスが私たちの住むこの地上に降り立ってくださったことです。クリスマスが近づいている今は、そのことがひしひしと感じられる時期です。今や、地上に起こるすべてのことが、この神の御子イエスに結び付けて考えることができます。

 世界の歴史だけでなく、私たち人間の一人ひとりに起こることすべてが、神の御手の中、神の御計画の中にあるのです。ですから、福音というのは、本来、聞いたらうれしくて躍り上がって飛び跳ねるような言葉なのです。その福音を信じるということは、そこに信頼を置いて生きていくことです。「わたしを信じなさい」と言われるイエスに応えて生きていくことです。

 神は私たち人間を愛して救うために、神の方から近づいてきてくださったのです。その決定的な時が今まさに来ているのです。失望や諦めから目を転じて、神の方を向きなさい、そして神に自分を委ねなさい、と言っておられるのです。これは希望もなく、今置かれている現状に打ちひしがれて生きているすべての人々へのメッセージではないでしょうか。神の御子イエスが地上に降って来られたクリスマスが、喜びの時であることがよくわかります。

 次に、神の国建設のための具体的な活動が始められていくのですが、まずイエスがなさったことは、弟子を集めることでした。イエスの最初の弟子たちは、ガリラヤ湖の漁師でした。ガリラヤ湖は、南北20キロメートル東西12キロメートルの湖で、水が清くて魚類が豊富でしたから、当時は漁師として働く人がたくさんいました。普通ガリラヤ湖の漁師たちは夜中に働きました。日差しの強い日中は、魚は湖の底の方にいて、夜になると湖面近くに上がって来るからです。今でいえば夜間労働者です。そのような人たちの中から最初の弟子たちが起こされたのです。家柄が良くて立派な学問を積んだ地位の高い人たちではなく、このような庶民の中から最初の弟子たちを起こされたことに、この世の基準で人を判断されない神の深い愛と計画を思います。

 まず最初の弟子となったのは、シモンとその兄弟アンデレ、続いてヤコブとその兄弟ヨハネでした。彼らは漁師の仕事をしていました。湖で網を打ったり、舟の中で網の手入れをしていた時に、イエスに声をかけられ、従っていったのです。そのことはお読みいただいた16節から20節に書かれています。

 ところで、イエスの招きの言葉に応えて、すぐにイエスに従っていった彼らの態度を皆さんはどう思われるでしょうか。すぐに商売道具の網を捨て、大事な家族である父親さえも置いて、イエスに従うことができるでしょうか。このところは意見がいろいろ出て来る個所です。彼らは勇敢で立派である、私たちもそうすべきです、と考える方もおられるでしょうが、イエスが良い方だったから何事も起きなかったけれども、これは大変無謀で軽率なことだと思われる方もいらっしゃると思います。

 マルコによる福音書はこの部分を大変簡単に書いていますので、他の福音書の記事を参考にして考えてみたいと思います。ヨハネによる福音書1章を見ますと、アンデレはバプテスマのヨハネの弟子であったようです(ヨハネによる福音書1章35-40節)。バプテスマのヨハネが活動していた時に、既に彼らはイエスに接する機会があったと考えられます。また、ルカによる福音書(5章1-11節)を見ますと、シモンやその仲間のガリラヤの漁師たちが夜通し苦労して働いたけれども何も捕れなかった時、イエスのお言葉に従って網を降ろすとおびただしい魚がかかって網が破れそうになったことが書かれています。その時の様子から想像すると、彼らはイエスのうわさをいろいろ聞いていたようです。イエスが偉大なお方であることを認め、尊敬の気持ちを持って接していたことが伝わってきます。シモンたちはこのことがあった後に、イエスに従っていったと書かれています。

 ですから、何らかの予備知識があったところに、イエスから直接声をかけられたので、最後の決断をしたのではないかと考えられます。それは決して無謀な行為ではなく、いろいろ考えた結果であり、彼らの一途な思いからであったと思われます。マルコがここで描いているのは、弟子のあるべき姿ではないでしょうか。イエスはここで、地位も学歴も家柄も全くない本当に普通の人を選ばれて、ついてきなさいと言われました。イエスの弟子となる者に、能力や資質は問題ではありません。大事なのはイエスが私たちを招いていてくださるのを知った時、その招きにどう応えていくかです。

 実際、イエスを信じる信仰というのは、私たちに十分な準備の学びがあり、納得したから信じられるものではありません。つまり私たちの側に十分な動機があるからではないのです。そうではなく、神の方に確かな理由があるのです。私たちはただその招きに従うだけです。ただ従っていくうちにだんだんわかってくるのです。イエスは「わたしについてきなさい。」とだけ言われました。イエスはいつでもどこでもすべての人に「わたしについてきなさい」と招いておられるのです。

 私たちの社会では、何かを極めようとするならば、この人、と思う人を探して見つけ出し、その人の弟子となって、いろんな技術や日本古来のすばらしい芸事を取得するということがあるかと思います。その人に師事してその人の傍で学ばなければ身につかないからです。けれどもこの場合は私たちがその師匠を見つけ出して弟子入りするのですから、私たちにその主導権があります。しかし、イエスに従う信仰は、神からの招きなのです。私たちはただ神の招きを感謝して受け取るだけです。

 さて、シモンとアンデレ、ヤコブとヨハネは「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われ、弟子として召されました。今までは魚を捕る漁師だったかもしれないが、これからは人間を捕る漁師になるのだと言われたのです。それは人々をこの世から導き出して、神の国の国民とすることです。しかし神の国に住むことは、この世と断絶することではありません。この後、シモンとアンデレはイエスを自宅に招くのですが、そこでは熱を出していたシモンの姑をイエスが癒されました。すると元気になった姑は一同をもてなしたと書かれています(1章29-31節)。ここにはちゃんと家族の絆があります。神の国の住民は、この世から浮き上がって暮らすのではありません。この世での家族への愛がさらに増していくのです。神の国は神の愛が満ちている国だからです。さらにインマヌエルの神は、信じる者といつも共にいてくださるのです。

「神の国は近づいた。」イエスが語られたこの宣言は、イエスと共に神の国に生きる人たちがいることによって実現していきます。今の時代に生きている私たちもまた、シモンやアンデレ、ヤコブやヨハネのように、イエスの招きに応えてイエスに従っている者です。小さな者ではありますが、この世が神の国になるために、日々注がれている神の愛を、精一杯人々に分かち合う日々でありますようにと願っております。

(牧師 常廣澄子)