感謝と喜びを持って生きる

2023年12月10日(主日)
主日礼拝『 待降節第二主日・誕生日祝福 』

詩編 100編1~5節
牧師 常廣澄子

 アドベント(待降節)のろうそくが2本灯りました。今私たちは、主の御降誕を待つ喜びの日々を過ごしています。そして本日は「賛美による礼拝」をお捧げしています。有志の皆さまによって「マリヤより生まれたもう」が賛美され、サキソフォーン演奏によって「さやかに星はきらめき」が賛美されました。ありがとうございました。心から感謝いたします。心が高められていく気がします。礼拝堂に賛美の声が満ち溢れ、楽器の音色が賛美の曲を奏でるのを聞いていると、この礼拝はまさに天での礼拝につながっているのだと感じます。

 今私は時々黙示録から語っていますが、そこには天上の礼拝の様子が描かれていて、天使たちや天の軍勢が賛美する場面があちこちに出てきます。神がおられるところには賛美が満ち溢れているということのあらわれです。なぜなら神は賛美の中に住まわれているからです。「神は賛美の上に座すお方」という表現もありますし、詩編95編の1節には「主に向かって喜び歌おう。救いの岩に向かって喜びの叫びをあげよう。」その後の96編4節には「大いなる主、大いに賛美される主」というように、聖書の中でも特に詩編の中には、神を褒めたたえる賛美と感謝の歌がたくさんあります。

 また、神は私たちの賛美を受けてくださるお方です。私たち一人ひとりが心込めてうたう賛美の声を喜んでくださるお方なのです。それが上手であろうと、多少音程がずれていたとしても、神はその心を祝福していてくださるのです。私たち一人ひとりは、考え方も生き方も違いますし、様々な価値観を持っていますが、共に心を込めて賛美を捧げる私たちの行為を喜び、神の前にある人間の尊い姿として受け止めていてくださるのです。そして神を礼拝する時に賛美は欠かせません。合唱でも楽器演奏でも、礼拝の中の賛美や音楽は、礼拝を豊かにしてくれる大事な欠かせない要素です。

 本日は詩編100編をお読みしました。詩編は神の民イスラエルがその歴史を通じて、その旅路のあらゆる場面で携えてきた詩歌です。神の民イスラエルが、自分たちの歩みに先立って行かれる神と対話している礼拝共同体の祈りの言葉とも言えます。詩編の中には嘆きの歌や、感謝の歌、信頼の歌、知恵を求める歌、神を黙想する歌等様々なことが歌われていますが、その成り立ちや文学的な様式がどうであれ、あるいは神殿の祭儀とどのような関係があるにせよ、詩編にある詩歌の中味は、神を褒めたたえ、神に栄光を帰す言葉の集まりと言うことができます。広い意味では、詩編のすべてが感謝と賛美の詩歌といっても良いくらいだと思います。

 詩編100編を見ていきましょう。まず1節には、この詩の題が「賛歌、感謝のために」と書かれています。実にこれは正々堂々と感謝と喜びの歌だとわかります。そして、この美しい詩は二つに分かれています。1節から3節までと、4節から5節がそれぞれまとまっています。新共同訳聖書では、真ん中に分かれ目がついていて段落がはっきりしています。読んでお分かりのように、これは二つのグループで互いに交読したようです。1節2節を祭司たちが語り、3節を人々が応えて語る、4節を祭司たちが語り、5節を人々が応えて語る、という具合にです。

 それぞれの部分は、まず命令から始まっています。また最初に「全地よ」というように、この地上の生き物のすべてに向かって呼びかけています。「(1節)全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。 (2節) 喜び祝い、主に仕え 喜び歌って御前に進み出よ。」また後半部分は「(4節) 感謝の歌をうたって主の門に進み 賛美の歌をうたって主の庭に入れ。感謝をささげ、御名をたたえよ。」これらの命令の中味が何かと言えば、それは神の御業を喜び、賛美と感謝を捧げなさい、ということです。

 その後に、そのような命令が出される理由が説明されています。「(3節)知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの、その民 主に養われる羊の群れ。」「(5節)主は恵み深く、慈しみはとこしえに 主の真実は代々に及ぶ。」
 その理由とは、神の御業の素晴らしさです。私たち人間を造られたのは主なる神であること、私たちは皆神のものであること、羊が羊飼いに導かれて生きているように、私たちも神に養われて生かされていくのだと歌っているのです。また創造者である神は、人間の歴史の支配者でもあります。今、世界の現状は、神の御心から遠く離れていますが、そのような愚かな私たち人間を神は愛し、人間への憐みが絶えることはないというのです。神の恵みや慈しみ、神の真実は変わらずにとこしえに続いていくと歌っています。これを歌った詩人は、自分の主観的な感情を歌っているのではなく、神の民としての長い歴史を思いながら、自分もまた神のものであって、神に導かれて生かされているという深い信仰告白を美しく歌っているのです。

「主は恵み深く、慈しみはとこしえに」の「慈しみ」は「ヘセド」というヘブライ語で、神が人間に与えられる真実な愛を意味する言葉です。その後に「主の真実は代々に及ぶ」とあり、そのような神の愛や慈しみが気まぐれではないことを示しています。聖書が語る神は、人間に恵みを与える約束をして、それに対して忠実であられるお方なのです。そのような神の真実を信じ、それに応えて生きようとする人々の真実な心に信仰が生まれるのです。神の真実はとこしえに変わりません。そのような神を仰ぎ見ながらこの世の人生を歩み、いつでも事ある毎にその神のもとに立ち帰っていくことによって、私たちの信仰は確かなものとされていくのです。そしてそこから湧き出てくるものが信仰の喜びであり賛美になるのです。

 この詩は、2節に「喜び歌って御前に進み出よ。」4節に「感謝の歌をうたって主の門に進み」「賛美の歌をうたって主の庭に入れ。」という具体的な言葉がありますから、人々が礼拝のために神殿の門からその前庭に入っていく状況を想像することができます。それで、この詩を「入場の賛美の歌」と呼ぶ人もいます。「主の門」というのは、主の庭に入っていく時に通る門であり、「主の庭」は、イスラエルの民が礼拝のために集まっていた場所です。ここに集まって来ると、人々はきっと奥にある至聖所におられる神の聖なる恵みが、自分たちにも豊かに与えられていることを感じたことでしょう。

 当時、神殿に入場する目的は何かといえば、神を礼拝し、神に感謝することでした。その時には供え物を携えていき、それを捧げたかもしれませんが、そのことはここでは触れられていません。4節に「感謝の歌をうたって」「賛美の歌をうたって」とあるように、ただ喜んで神の前に出ていくことがどんなに大切であるかを歌っています。「感謝の心」や「賛美の心」が神にとっては何よりの捧げものだからです。私たちも礼拝には感謝と賛美の心で参加したいと思います。2節にある「主に仕え」は、神を信じるものたちが、その全生活をもって神への信仰に生きていくという意味だと思いますから、私たちは日々の生活のあらゆるところで、神を賛美し感謝することが求められているのです。毎日いろいろな出来事が起こる私たちの人生ですが、神が求めておられるのは感謝と賛美の心だということを忘れずに生きていきたいと願っております。

(牧師 常廣澄子)