神は内側も造られた

2023年12月17日(主日)
主日礼拝『 待降節第三主日 』

ルカによる福音書 11章37~54節
牧師 永田邦夫

 待降節の第三週の主日礼拝を迎えまして、アドベント・クランツにはローソクが三本灯され、明るさも増しております。この灯は「世の光」として来られたイエス・キリストの象徴でもあります。本日の説教箇所の初めの37節が、「イエスはこのように話しておられたとき」と始まっていて、この段落は直前の「体のともし火は目」の箇所とも内容的に関連があることが分かります。それを先に見ていきましょう。

 “目は体の明かりである”との格言がありますように、ずばり34節には「あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。」とあります。ここで、体が明るい、暗いと表現されていますのは、文字通りの明るさ、暗さではありません。体が溌溂(はつらつ)としていて、周りの人に明るい印象、楽しい印象を与えているということです。その人の目は勿論、体全体も輝いて見えます。そして「心」と「目」は、わたしたちの体の「内側」と「外側」でもあります。因みに本日の説教題は「神は内側も造られた」です。

 早速37節に入ります「イエスはこのように話しておられたとき、ファリサイ派の人から食事の招待を受けたので、その家に入って食事の席に着かれた。」とありまして、主イエスがファリサイ派の人々から食事に招かれる記事は、このルカによる福音書にもたくさんあり、7章36~50節、“罪深い女性がイエス足に香油を塗った”という印象的な出来事、そして本日箇所以降では14章1~6節、“ファリサイ派の議員の家での食事”、等々があります。では本日箇所に戻ります。
 
 38節に「ところがその人は、イエスが食事の前にまず身を清められなかったのを見て、不審に思った。」とあります。この“身を清める”は原文(ギリシア語)で、バプテスマと同じ言葉です。ファリサイ派の人々は普段、食事の前に身を清めることを行っていたのです。ところで、この「身を清める」は、聖書の訳本によっていろいろに表現されていて、口語訳聖書は「まず洗うことをなさらなかった」、新改訳聖書は「まず、きよめの洗いをなさらなかった。」とあり、いずれも「身を清める」という意味合いが強いです。主イエスは普通、そのことはなさらなかったのでしょう。これを見たファリサイ派の人々は不審に思った、とあり、この時の彼らの目は、心の内から出た不審の目つきで、主イエスを見ていたことでしょう。この後、事態は大きく展開していきます。

 39節、主は言われた。「実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。(ここには、括弧を閉じるしるし “ 」 ” はなくて、イエスさまの言葉は、44節まで一気に続いています。)

 では、ファリサイ派の人々とはどんな人たちだったのか、を見ておきましょう。「ファリサイ派」とは反対派の人々から付けられた名称で、分離主義(ペルシーム)がその語源です。そして彼らの特徴は“徹底した律法主義”にあり、先祖たちの言い伝えに従っての律法解釈を行っていて、本来、律法の規定には無いものまで、その数はどんどん増えていったと言われています。本日箇所で、食前に身を清めるという規定はどうでしょうか。ここで、主イエスが言われた言葉、「杯や皿の外側はきれいにするが、」は、ファリサイ派の人々は、日ごろ、自分の行いや外面的なことに気を使い、人からどう思われるか、に腐心していたことを表しています。

 聖書に戻りまして、この日イエスさまを食事に招くこと自体には、特に悪意はなかったことでしょうが、前述のとおり、食前に清めを行わなかったイエスを見て、すぐ“不審の目に”変化したのです。これをご覧になった主イエスの言葉が、「杯や皿の外側はきれいにする」、しかし、「内側、すなわち、心の内は強欲と悪意に満ちている」との厳しいお叱りの言葉となったのです。では、わたしたちはどうなのか、自分はどうか、を考えますと誠に恥ずかしい限りです。自己中心的に考えたり、また、言っていることと行っていることが,ちぐはぐになっていたりで、ダメな自分に気づかされます。

 使徒パウロが、ローマの信徒への手紙7章15節に「わたしは、自分がしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。」また同じく17節には「そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。」とあります。この言葉はパウロならずとも、わたしたちの言葉でもあります。

 次は40節「愚かな者たち、外側を造られた神は、内側もお造りなったではないか。」とあります。これは本日箇所の核心的な言葉であり、本日の説教題もここからとらせていただきました。では、 “外側を造られた神は、内側も造られた”ということについて見ていきましょう。
 創世記2章7節から、神が天地を創造されたときのことを思い起こしましょう。神は土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられました。“命の息”とは、神の息のことであり、御霊の息です。土の塵でしかない人間に、神の息、すなわち御霊の息、霊的な息が注ぎ込まれ、名実ともに、「神にかたどって創造された人間」(創世記1章27節)となったのです。先ず、このことをわたしたちは肝に銘じておきたいと思います。

 そして41節「ただ、器の中にある物を人に施せ。そうすれば、あなたたちにはすべて清くなる。」について、ここは少し理解しにくいですが極めて大切なことを示しています。主イエスは“器の外側、内側”と言う言葉を使って、人の行いや見た目と、心の内について区別しながら、教えの言葉を伝えてきました。この41節の言葉もその続きです。「ただ、器の中にある物を人に施せ」とは、“難しく考えずに素直に、心の内にある物を人に施しなさい、人に差し上げなさい”、と言っているのです。ここで一つ確認しておきたいこと、それは、前述の下線部分、「器の中にある物を人に施せ」は、口語訳聖書では、「内側にあるものをきよめなさい。」となっています。“清める”つながりで、まず自分の心の内を清めなさい、そうすればあなたたちにとってすべてのものが清くなる。このほうが主イエスの言葉を良く理解することができます。
 以上を整理しますと、わたしたちにとって、大切なこと、それはまず心を清くすること、そしてそこから行動を起こすこと、それが大切です、と主イエスは言われているのです。

 次の42節以下に入ります、ここでは、「ファリサイ派の人々は不幸だ」と前置きしてその訳(わけ)を告げるパターンで、三回にわたって続けています。先ずはじめは42節、「薄荷や芸香(うんこう)やあらゆる野菜の十分の一は献げるが、正義の実行と神への愛はおろそかにしているからだ。これこそ行うべきことである。」ここで「これこそ行うべきこと」と述べているのは、後半部分の「正義の実行と神への愛」についてです。(なお、この箇所で、芸香と言うのは、香草の一種で、古代に書籍に挟んで虫よけとしていた、とのことです。)

 次に、不幸の例として挙げているのは43節「会堂では上席に着き、人から挨拶されることを好む」ということです。要するに、目立ちたがり屋で、人からちやほやされることを好む、と言います。いかにも“ファリサイ派の人”という感じです。
三番目の不幸は44節、それは「ファリサイ派の人は人目につかない墓のようなもの」と言います。この意味は、当時イスラエルでは、春になると、墓を白く塗って目立つようにしていた、と言われますが、その背景には、“知らずに墓を通ると何日間か汚れた者になる”との言い伝えがあったのです。要するに「外側は見かけをよくしても、内側は汚れている」と言っているのです。

 以上、主イエスはファリサイ派の人々の不幸を三回にわたって、指摘してきましたが、これを傍で聞いていた律法の専門家の一人が言いました。それが次の45節から54節まで記されています。45節に「先生、そんなことをおっしゃれば、わたしたちをも侮辱することになります。」とあります。これを受け、主イエスは律法学者の不幸を三回にわたって指摘しています。(以下、要点のみ整理して記します。)
 始めの叱責が46節に「人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしない。」とあります。この律法学者とは律法の詳細について人々に説き、またその正否を指摘するが、自分ではその網の目をくぐって生きていたのです。
 二番目の指摘が47節「先祖が殺した預言者たちの墓を建てている。」と言います。その意味は、如何にも善人ぶってその人の弔いをするように墓を建てている、との叱責です。そのことは50節に「天地創造の時から流されたすべての預言者の血について、今の時代の者たちが責任を問われることになる。」とある通りです。これについては更に51節に“アベルの血”(創世記4章)や、“ゼカルヤの血”(歴代誌下24章21~22節)に及ぶ、と記されています。(アベルとゼカルヤは関係者の不祥事の犠牲になった人である。)

 52節には、「律法学者は人から知識の鍵を取り上げ、自分が入らないばかりか、入ろうとする人々をも妨げている」との叱責があります。これは人々が聖書を学ぼうとしたり、また、キリストの福音を知ろうとしても、それを妨げているという意味です。これは言語道断(ごんごどうだん)のことです。

 最後の53節、54節はこの箇所の締めくくりの言葉です。「イエスがそこを出て行かれると、律法学者やファリサイ派に人々は激しい敵意を抱き、いろいろの問題でイエスに質問を浴びせ始め、何か言葉じりをとらえようとねらっていた。」とのことです。

 わたしたちは、ここから何を捉え、また理解するのでしょうか。前の段落「体のともしびは目」から入り、本日箇所でもファリサイ派の人々、そして律法学者の“澄んだ心から出る目の輝き”を期待しておりました。しかし、主イエスさまから、この両者に向けられた言葉は“反面教師”的な叱責の言葉でした。わたしたちはこれを踏まえながら、主イエスさまの福音に従って、精いっぱい、そして一日、一日を生きてまいりましょう。

(牧師 永田邦夫)