愛は滅びない

2024年1月7日(主日)
主日礼拝『 新年礼拝・主の晩餐 』

コリントの信徒への手紙 一 12章31節~13章13節
牧師 常廣澄子

 皆さま、新年明けましておめでとうございます。
元日から、能登半島の大きな地震や飛行機の事故などがあり、今年はいったいどんな一年になるのだろうかと希望よりも不安の方が大きくなるような2024年のスタートとなりましたが、今私たちは主にあって新しい年を迎えることができました。まずそのことを感謝したいと思います。そして、厳しい世界情勢、社会状況の中ではありますが、本年も主の御言葉に支えられ、導かれて歩んでまいりたいと願っております。

 お読みいただいた13章は、一般に「愛の賛歌」と言われていて、聖書の中でも最もよく知られている個所の一つです。その導入の言葉が12章の最後の31節に書かれています。「そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。」という言葉です。「最高の道」とは何でしょうか。当時、ギリシア人は知識を求め、ユダヤ人は奇跡を求め、ローマ人は力を誇りとするという言葉があったようですが、今の時代でも人間は大体このように、知識や力を欲するのではないでしょうか。しかしパウロは、12章からずっと教会に与えられた様々な御霊の賜物について語った後で、より優れた賜物、最も大切な賜物として「愛」を示そうとしているのです。あくまでもこの「愛」は神からいただく賜物です。この愛は、この世で一般的に考えらえている人間の感情や、倫理や道徳で考えられる愛とは全く異なっているものです。

 パウロはまずその愛の絶対性、他に例えるものは何もないということを語ります。13章で語られている愛はキリスト教が教える愛がどのようなものであるかを明らかにしているのです。つまりここで語られている愛は、愛されるに値しない者を愛する愛、神から与えられる特別な愛です。ギリシア語ではこの愛を他の愛と区別してアガペーと呼んでいます。(男女の愛はエロス、兄弟愛はフィレオー、肉親の愛はストルケ)

 神は愛です。神はその愛によって、主イエスをこの世に与えてくださいました。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(ヨハネの手紙一4章9-10節)神の愛は、神が天から人間に与えてくださったものです。主イエスを信じることによって、その愛は私たちのものとなり、それを行為に現すことが可能になるという特別な愛です。

 さてこの13章は全体が詩の形をとっていて、1節から3節までは、「愛がなければ」という繰り返しで書かれています。「(1節)たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。」異言は普通の人には理解されない超理性的な言葉ですが、コリント教会では称賛されていたものでした。そういう異言であっても、もし愛がなければ無意味だというのです。「どらやシンバル」は、両方とも異教の神殿で祭礼の時に用いられた金属製の楽器で、コリントの人達はよく知っていました。それらが鳴らされると、響きは大変大きくてもうるさいばかりで何の意味もなかったのです。

「(2節)たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。」預言の言葉を語り、その奥義を解く知識があったとしても、あるいは山を動かすほどの信仰があったとしても、愛がなければ無に等しいのだと語ります。
「(3節)全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。」ここからは実際の行動です。全財産を貧しい人々に施したり、何と自分の体を与えるという殉教の死でさえも、愛がないならば無意味だと言います。

 このように、どんなに優れた賜物を持っていても、愛が動機となっていないならば、それは結局その行為者の虚栄と自己満足にすぎず、全く価値がないのだと語るのです。ではこれらのものよりも貴い愛、価値のある愛というのはいったいどのようなものでしょうか。

 ここからパウロは、神が与えてくださるアガペーの愛とはどのようなものかを語っていきます。まず「(4節)愛は忍耐強い。愛は情け深い。」(この「忍耐強い」というところは、口語訳聖書では「寛容であり」と訳されています。)これが愛というものの包括的な言葉であり前提です。愛が忍耐強くて情け深いということは、愛が持つ広さと深さを言い表しているのかもしれません。そして続けて愛の特性について八つの否定文と五つの肯定文で語っています。愛の性質を語る時、このように否定から始まるというのは、私たち人間がいかに本当の愛に欠けているかを物語っていると思います。

「(4-7節)(愛は)ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」ここで「愛は」と語っているのは「愛の人は」という意味です。そこに自分の名前を置き換えて読んでみますと、自分がいかに真実の愛から遠い存在であるかがわかります。次に「愛は」のところに「イエス・キリストは」と置き換えて読んでみますと、主イエスこそが愛の方であり、神の愛を実践された方だという事実に励まされ、喜びと平安に満たされてきます。

「愛は情け深い」これは相手の立場を配慮することです。「ねたまない。」人間にとって嫉妬を抑制することはとても困難なことの一つですが、最も強烈な対立意識の表れです。愛はこのように人と対立する態度を捨てて、相手を自己の内に包み込むことなのです。妬むのは自分が相手の外に立って、相手と対立している場合に起こります。「愛は自慢せず、高ぶらない。」これも強烈に相手を意識し、対立視している態度です。これは嫉妬の裏がえしの感情です。嫉妬は劣等感から生じますが高ぶりは優越感から出てきます。どちらにしてもこれを克服するには、相手と対立するのでなく、相手を自分の内に包み込むこと以外にはないのです。聖書が教えているように、隣人を自分のように愛するということです。

「礼を失せず」(不作法をしない)これは愛が持つ細やかな配慮を示す最も美しい徳であると思います。愛の原理がわかっていても、具体的な場面で細やかな心遣いに欠けると相手を傷つけてしまうことがあるのです。「自分の利益を求めず」愛は自分の利益を否定します。自分の益でなく、相手の益を求めるのです。(パウロ自身が10章33節で語っています。)愛が破壊されるのは、自分の利益を求めることから起こります。すなわちエゴイズムになると愛は壊れます。

「いらだたず」いらだつことは、妬みや高ぶりや誇ること等、自分の利益を求めることから起こる感情です。誰か他の人に対立意識を持っていると、絶えず脅かされて苛立つようになるのです。「恨みを抱かない。」恨みもねたみと同じように相手と自分を比べる劣等感から生じるものです。「不義を喜ばず」自分が不義(不正)を行うことを喜ばないという意味と同時に、誰か他の人が悪口を言われていたり、過ちを犯すのを見ることを喜ばないということです。「真実を喜ぶ。」自分が相手を愛していない時には、相手にどんなに真実があっても、つまり相手が本当のことを言っても素直にそうだと言えない、納得しないのです。人間はかえって不義を喜んで真実を喜ばないものです。相手を本当に愛している時にだけ、相手の真実を喜ぶことができるのです。

「(7節)すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」これはいろいろな場面を想定して考えることができますが、自分の不義を喜ばずに、相手を愛して相手の真実を喜ぼうとするならば、「忍び、信じ、望み、耐える」という態度になるのは自然なことです。「すべてを忍ぶ」のは、自分の不義を憎むことで、自分の不利益が忍耐できるのです。「信じる」のは、相手がこのような自分の心を受け入れてくれることを信じることです。「望む」のは、この係争関係が解決されることを望むことかもしれません。「耐える」のは、そのような解決の日が来るまで試練に耐えることなのでしょう。これらの言葉を吟味してくると、私たちは日々、どれだけ愛の無い生活をしているかがわかって来ます。

 最後にパウロは、愛の永遠性を語ります。「(8節)愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、」預言も異言も知識も、やがては廃れます。なぜならそれらはいつまでも続く完全なものではないからです。9-10節に「わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。」とあります。完全なものが現れたら、部分的な不完全なものは廃れます。「完全なものが現れたら」というのは、「神の国が到来したら」という意味です。その時が来たら、私たちは今までのものにとらわれなくなります。古いものが過ぎ去って、すべてが新しくなるからです。

 私たち神を信じる者がこの世において持っている神についての知識は、実に小さな部分的なものにすぎませんが、その日には、今、私たちが神に知られているように、神を完全に知ることができるようになります。その時、私たちは神と共にあって、顔と顔を合わせて見ることができるようになるからです。「(12節)わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。」

 そして最後にパウロは次のように結んでいます。「(13節)それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」パウロはいつまでも残るものとして「信仰と希望と愛」の三つをあげています。そして「その中で最も多いなるものは愛である」と語ります。なぜなら、神は愛であり、愛が神の本質だからです。「愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。」(ヨハネの手紙一4章8節)

 これは、私たち一人ひとりを一本の木として考えると良くわかると思います。「信仰」は、地面から養分を吸い上げる根を考えると良いかもしれません。イエス・キリストというお方にしっかり結びついて命をいただくのです。「希望」は、神の永遠の栄光に与ろうと、その木が成長して枝がぐんぐん伸びていく様子です。そして「愛」はその木が結ぶ実です。これはキリストを信じる信仰を通して神から与えられる賜物です。この「愛」は、人間が勉強したり修行したりして得られるものではなく、神の御霊によって与えられる神からの愛ですから、この愛から出て来るいろいろな行為はすべて御霊が結ぶ実になるのです。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」(ガラテヤの信徒への手紙5章22-23節)

 神がいつの日か世界をご支配なさる時が来ますが、神による支配は、愛による支配です。私たちが罪を赦され、神を信じる者とされたのは、神の愛のゆえです。主イエスがこの世に遣わされたのは神の愛があったからです。そしてこの神の愛によって救われた者の内に神の御霊が住んでいてくださいます。「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(ローマの信徒への手紙5章5節)

 神を信じた人々は、神の救いに与り、神の国を受け継ぐ御霊の保証を受けているので、与えられたその愛は永遠に続きます。ですから「愛は決して滅びない」のです。そしてこの神の愛によって、神を信じる者は神のみ旨に適った愛の行為を行うことができるようになるのです。どうか私たち一人ひとりが新しい一年も神の愛の中で生きていくことができますようにと心から願っております。

(牧師 常廣澄子)