忠実で賢い管理人

2024年3月10日(主日)
主日礼拝『 誕生日祝福 』

ルカによる福音書 12章35~48節
牧師 永田邦夫

 本日もルカによる福音書からのメッセージをご一緒に聞いて参りましょう。本日箇所の冒頭35節は「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。」と唐突に始まっています。それは、この箇所も前方の段落と関連あることを示していますので、始めに、そのことを確認しておきましょう。12章に入りますと、1節に「数えきれないほどの群衆が集まって来て」とありますことから、主イエスは大勢の群衆を前にしながら、弟子たちに対し「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい。」との注意を促す言葉から始まっています。

 そして13節からの段落では、大勢の群衆に対して「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。」とあり、人間が最も陥りやすいこの世的欲望、すなわち、物質欲・金銭欲・名誉欲などに対する注意を促しています。そしてさらに、「人の命は今夜にもとり上げられる。だから、自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ、」と厳しいながら愛情に裏付けられた言葉でこの段落を結んでいます。

 そして本日箇所直前の段落では、主イエスは弟子たちに対し、「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな」と、日々人が生きていくための基本的な考え方と、またそこに潜む誘惑についても教えています。このイエスのお言葉から、当時の弟子たちの生活は必ずしも豊かではなかったことを察することができます。しかし、「ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」(31―32節)とあり、たとえ貧しい中でも、主なる神は、日々必要な糧を豊かに与えてくださることが示され、ほっとさせられます。そして、この段落の結びは「尽きることのない富を天に積みなさい。」「あなたがたの富のあるところには、あなたがたの心もあるのだ。」とのみ言葉です。

 以上を受けて本日箇所に入ります。始めの言葉35節から37節aは「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。」とあります。この聖句が直接教えていることを見ましょう。 

 当時の婚宴は非常に長く続き、一日では終わらずに、ときには一週間も続くこともあったそうです。そして、僕たちが、婚宴に出かけている主人の帰りを待つ時の待ち方や心がけについて示しているのがこの箇所です。先ず始めは「腰に帯を締めて待つこと」についてです。当時の着物は体に緩めにできていたので、いざ活動という時は“腰に帯を締めてその備えをするように”との教えです。次は、主人の帰りの時間に備えることです。先に触れましたように、婚宴の終わりの時間は分かりません。よって、主人の帰りが夕方であっても、また真夜中であっても、帰って来たとき、きちっと迎えることができるように「ともし火をともして待て」との教えです。

 そしてこの後、37節38節には、主人が帰って来たとき、「目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いである。」と、二回も繰り返し伝えています。なお、ここで「目を覚ましている」のラテン語は“グレゴリオ”と言い、ヨーロッパでは男の子の名前に「グレゴリー」とつける人が多いとのことです。キリスト教社会ならではの考え方が人々に浸透している証拠でしょう。

 そして37節後半には、婚宴から帰宅した主人が、自分を出迎えてくれる僕たちを見たなら、自ら帯を締め、僕たちを食事の席に着かせたうえで、給仕までしてくれる、といっています。正に逆転現象が起きています。これに似ていて、さらに深い神学的意味を伝えている聖句が、ヘブライ人への手紙9章28節で「キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。」とあります。ここには、再臨の主の到来と、世の人々に対する救いの完成のことが記されているのです。本当に感動的な聖句です。

 ここで、再臨の主を待ち続けていた人の逸話をご紹介します。ドイツ人牧師のブルムハルト(1842~1919年)は、再臨の主イエス・キリストがいつ来てもいいように、自宅の庭に四頭立ての馬車を普段から用意していて、主が来られた時に、直ぐにその馬車にお乗せし、教会まで案内できるように準備していたとの言い伝えです。

 ではわたしたちの、再臨待望の姿勢はいかがでしょうか。残念ながら、わたしたちが再臨の主を待つ信仰は非常に弱く、また薄いようにも思います。その原因を考えてみますと、“この世界は永遠に続き、そして安泰である”という安心感からかもしれません。聖書に戻りまして、40節には「あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」とあり、これは今まで縷々(るる)述べてきたように“再臨の主を迎える心備え”についての教えの言葉です。

 では後半の41節以降に入ります。まず41節から43節を見ましょう。「そこでペトロが、『主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか』と言うと、主は言われた。『主人が召使の上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。』と結んでいます。

 主イエスは、ペトロからの質問に対し、「ああそうだよ、いまの譬えは君たちへのものだよ。」とは言わず、「忠実で賢い監理人」のことを簡潔に伝えて、後は自分たちで考えて欲しい、と言わんばかりです。ではわたしたちも、「忠実で賢い監理人」とはどんな管理人なのか、考えてみましょう。「忠実な管理人」とは、主人のお考えと、そのご命令をよく理解して、そのご命令に従って行動することです。その命令に従っていなければ、決して忠実とは言えません。次に「賢い監理人」とは、管理人のご命令に忠実であることは勿論のこと、その場の変化や相手の状況もよく理解しながら、思慮深く行動することと考えられます。

 以上を要約しますと、いずれも主人との関係において、すなわち、主なる神との関係において、その僕たち、すなわちキリスト者がどのように行動すべきか、特に本日箇所の聖書では、“わたしたちが再臨の主をどのように待ち続け、そして、いざその時をどのように迎えたらいいのか”、このことを中心にしての教えの言葉です。
 そして続いて、“幸いとされる僕”、“幸いとされる状態”のことが記されています。幸いとされるのは、主人が帰って来たとき、“目を覚ましているのを見られる僕たち”です。
わたしたちも、このように主人に聴き従いながら、その行いゆえに、主人からお褒めの言葉をいただける者になりたいものです。

 ではここで、“忠実で賢い管理人”とされた僕たちが、その後、主人からどのように扱われるのでしょうか。このことが記されているのが次の44節です。「確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。」とあります。主人はその忠実で賢い監理人に対して、単なるお褒めの言葉だけではなく、さらに大きな期待を寄せてくださり、そしてさらに多くの役割を与えてくださるのです。本当に素晴らしいことであり、僕たちにとっても大きな喜びです。わたしたちもこのような僕になって参りましょう。

 この箇所で、“忠実で賢い監理人”について、口語訳聖書では「忠実な思慮深い家令」と表記されています。わたしたち夫々は、神の教会に相応しい働き人として、礼拝や諸集会でまたいろいろの場所で、その勤めを果たしつつ、協力し合い、神の教会を共に支えていくことが求められているのです。

 次の45、46節には、あまり読みたくもないようなことが書かれています。「しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる。」とあります。不忠実な僕の心と行動は、主人が時間どおり帰らず遅れると、勝手に決めつけ、それを中心にして自分の行動をとることです。これは正に言語道断(ごんごどうだん)です。わたしたちも、このようにならないように気を付けていましょう。
そして神に従って歩む者に対してのさらなる期待の言葉が、最後に記されています。「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」と48節の最後にあります。

 わたしたちも、いま主なる神から与えられているものに先ず感謝して、さらにその上に与えられるものに対しても感謝してそれを受けつつ、主に用いられ、そして主に喜ばれるように「腰に帯を締め、ともし火をともしつつ」共に、日々力強く生きて参りましょう。

(牧師 永田邦夫)