「(1節)慰めよ、わたしの民を慰めよとあなたたちの神は言われる。」ここでは、神が預言者イザヤに民を「慰めよ」と語っています。「慰める」という言葉の本来の意味は、深く息をすること、深く息を吸い込むことです。この「慰め」は「なぐさみ」ではありません。ただの憂さ晴らしや気を紛らわせて現状に目をつむってしまうことでもありません。聖書で語る「慰める」という言葉には、助けること、贖うこと、憂いの代わりに喜びを与えるという意味が含まれているのです。つまり現状をそのまま受け止める気休めの言葉ではなく、現状を新しく変えていく積極的な言葉だということをしっかり覚えたいと思います。
聖書

23 イザヤ書
荒れ野に道を

46 コリントの信徒への手紙一
神の知恵
パウロは繰り返し、人が信仰を持つのは神の力によること、信仰はこの世の知恵によらないこと説いています。実際イエス・キリストの十字架は、知恵ある人間の目には愚かなことでした。多くの人は、もしイエスが神の子であるならば、そのような弱い惨めな屈辱的な姿はあり得ないことだと考えたのではないでしょうか。ですからキリストへの信仰を持つためには躓きとさえなっています。しかし、世間の人々が愚かだと思うこの出来事の中に、神の知恵が秘められているのだとパウロは言うのです。そしてそれは霊の目が開かれてこそ分かるものであって、どんなにこの世の知識が豊富で弁舌や理屈に長けていようとも、またそういうこの世の知恵や、この世の権力を握っているような支配者であろうとも理解されないものなのだと語っています。そのことをパウロはここで、この十字架の言葉は救われる者にとっては神の力であり、たとえようもない神の知恵なのだと力説しているのです。

42 ルカによる福音書
敵を愛しなさい
冒頭は「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく」と始まりますが、この文脈は、“とは言うけれど”、という意味合いで、前の段落を受けつつも、一旦それを保留しながら、本日箇所の教えに入ろうとしています。ではここで、勧めの言葉を伝えようとしている「あなたがた」とは誰のことでしょうか。それは、主イエスさまが、開口一番、目を上げ語りかけた弟子たちであり、今は貧しくされ、また、飢えを覚えている人々、そして悲しみの中に置かれている人々のことです。しかし、「あなたがたは『幸い』だ、なぜなら、あなたがたが『その日』、すなわち御国に招かれるとき、また、この世においても、神のご支配の中に招かれるとき、幸いな者とされる。」という祝福の言葉をいただいている人々のことです。

66 ヨハネの黙示録
時を支配される方
お読みいただいた「ヨハネの黙示録」の「黙示」というのは、先日もお話ししましたように、「啓示」とも訳すことができる言葉です。隠されているものの覆いが取り除かれて現れるという意味です。これはイエス・キリストについて解き明かしているのです。そして「(1節)この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストにお与えになり、そして、キリストがその天使を送って僕ヨハネにお伝えになったもの」であり、それを、「(2節)ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分の見たすべてのことを証しした。」ものです。

46 コリントの信徒への手紙一
神の力によって
神は人間の知恵ではなく、世の人々が軽蔑するような福音の宣教という愚かな手段によって、信じる者を救われるのだということを学びました。それが神の知恵なのだということです。私たちが福音を聞いて信じたのは、私たちがこの世の他の人々より頭が良かったり、優れていたからではありません。つまり信仰は人間の知恵によるのではないということです。また知恵だけでなく、家柄や身分や学歴とかそういったものが他の人に勝っていたというわけでもありません。神が私たちを愛して救いを与えてくださるという福音の言葉を聞いて、ただ素直にそれを信じたことによるのです。

42 ルカによる福音書
平和の道に導く方
今夜お読みいただいた聖書個所は、マリアの賛歌に続いて「ザカリアの賛歌」と言われているところです。これは「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を」という言葉で始まります。この最初の言葉「ほめたたえよ」という言葉がラテン語でベネディクトゥスと言いますので、このザカリアの賛歌は「ベネディクトゥス」という題で歌われるようになりました。

40 マタイによる福音書
喜びにあふれる旅
クリスマスおめでとうございます。アドベントクランツのろうそくが4本灯り、本日は神の御子イエス・キリストの誕生を祝う喜びの礼拝です。日本を含む地球の北半球ではクリスマスは冬の寒い季節にあたりますが、この季節は冬至に近くて夜の闇の時間が長いですので、光にあふれたクリスマスは何か明るく暖かいものが感じられます。実際、神が人間世界においでになったという到底考えられないくらい驚くべき出来事、感謝してもしきれないほどの素晴らしい出来事なのです。

42 ルカによる福音書
幸いと不幸
前回(11月14日)の説教箇所の大筋は、「主イエスさまが山に行き、徹夜の祈りをした後、朝になって弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒とされた後、一同は山を下り、平らのところにお立ちになった。」のでした。その流れで、本日の説教箇所へ入っています。また、本日箇所を含めまして、6章全体は、マタイ福音書(5~7章)の「山上の教え」に準え、“平地の教え”と呼ばれております。

66 ヨハネの黙示録
死に至るまで
黙示録といいますと、何か終末の恐ろしい有様が書かれたものを想像するかもしれませんが、1章1節には「イエス・キリストの黙示」と書いてあります。黙示というのは「啓示」とも訳され、隠されているものの覆いが取り除かれて現わにされることです。黙示録に書かれていることは、「(1:1)キリストがその天使を送って僕ヨハネにお伝えになったものである。」「(1:2)ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分の見たすべてのことを証しした。」とあるように、イエス・キリストについて解き明かしている書物なのです。

46 コリントの信徒への手紙一
十字架の言葉
本日お読みした個所の前の17節には、「キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです。」とパウロの心構えが記されています。キリストがパウロを遣わしたのは、福音を宣べ伝えさせるためであり、その宣べ伝え方は「言葉の知恵」にはよらないのだと語っています。