神が定めた支配者への従順

2020年度が始まりましてから、会堂での礼拝は本日が二回目となります。会堂の前方講壇の横には、年間主題「主にあって日々新たに」と、聖句「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る」が掲げられておりますが、先週、礼拝が始まる前に、これを執筆してくださったかたが感慨深そうに、この貼り紙を眺めていたのが印象的でした。 わたしたちは、どんな困難な時も、この主題および聖句が示すように、主に望みを置きつつ、日々新たにされて、この苦難から立ち上がり、鷲のように翼を張って立ち上がることができますように、と願っております。

神はわが助け

「神はわがやぐら」という讃美歌があります。(新生讃美歌538番、日本基督教団讃美歌267番)これは宗教改革者マルティン・ルターが詩編46編を基にして作ったものです。力強い神の約束が荘厳なメロディーと調和して、誠に重みのある讃美歌です。この曲は、ルターが1517年10月31日に95か条の提題を掲げて改革の火ぶたを切ってから10年くらいたった頃に作られました。当時の教会は罪が赦されると銘打って贖宥状を乱売していましたが、ルターは修道士として厳しい修業をしながら必死で神に祈り、徹底的に聖書を研究し、終に人が義とされるのは律法の行いではなく信仰によるのだ(ローマの信徒への手紙1:17、3:28)ということを見い出し、この提題を掲げたのです。それからのルターは、神が求められる本当の信仰、本当の教会を求めて苦闘していきます。しかし、その戦いはなかなか終わらないばかりか、ますます悪化していきました。ルターはこの間に重い病気にも見舞われ、その頃はヴィッテンベルク城の奥にかくまわれ、孤独な境遇の中にいたのです。そして何よりも、ドイツ皇帝(カール5世)とローマ教皇とが互いに提携してルターに対抗していました。彼の身の上には、大きな危険が迫っていた時期です。この曲が作られた背景にはそういう状況がありました。そのことを思いますと、歌詞の一つ一つがルターの神への信仰を歌っていることがわかります。この讃美歌は人生の深い淵から発せられた純真な信仰告白であり、神の栄光を歌う賛美です。

わたしの霊をすべての人に

本日は聖霊降臨の記念日、ペンテコステ礼拝です。クリスマスというイエス・キリストの降誕を祝う行事は世界中の人々に知られていますが、ペンテコステはほとんどの人が知らないでいます。考えてみますとこれは非常におかしいことです。父なる神がお遣わしになった「もう一人の助け主」であられる聖霊が降臨されたことは、少なくとも教会にとっては、救い主イエス・キリストがこの世に誕生されたことに匹敵するほどの大きな出来事だからです。

足ることを学ぶ

私たちは今、新型コロナウイルス感染防止にために、人と人ができるだけ接触しないように注意しながら暮らしています。心でどんなに親しく思っていても、人に対して身体を通して温かい交わりを表わせないのは、とてもさみしく残念なことです。誰とも会えずに孤独感を強めておられる方もたくさんおられると思います。でもそんな時に「お元気ですか」と一本のお電話があったり、「手作りマスクです。どうぞお使いください。」と封筒に入ったマスクが届いたりすると、暗い心がいっぺんに明るくなり、元気が出てきます。今朝は、獄中で苦しい立場にいたパウロが、フィリピの信徒たちからの贈り物を受け取って感謝していること、またそれと同時に主にある自分の信仰姿勢を語っている箇所を見ていきたいと思います。

大きな淵

この話には金持ちが出て来ますが、大事な言葉がその前の部分にあります。「(14〜15節)金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った。そこで、イエスは言われた。『あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存知である。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。』」ここでわかるように、このたとえ話に出て来る金持ちとは、金に執着するファリサイ派の人々のことを指していると考えられます。金に執着するというのは、お金や富に心が奪われ、それに縛られている人たちです。神はそういうことを忌み嫌っているとイエスは言われました。

霊に燃え、主に仕える

信仰によって義とされた者としての、わたしたちの日々の生活そのものが“わたしたちのなすべき礼拝である”、“理に適った礼拝である”といわれます。それは、前回説教箇所、ローマ書12章1~8節に示されておりました。これは、キリスト者の実践生活の基本姿勢です。これを受けて、本日箇所、9~21節では、具体的な教えについて、十項目(十二項目ともされる)が記されておりまして、これを名付けて、「愛についての十戒」、ないしは“十二戒”と言われています。先ず初めにそれを見て参りましょう。

思い煩うな

フィリピの信徒への手紙の最後の章です。フィリピの教会は、パウロがヨーロッパに渡って最初に作った教会であり、それも迫害の中で形成されたものでしたから、パウロにとってはかけがえのない教会でした。パウロはフィリピの信徒を深く愛していましたので「私の喜びであり、冠である愛する人たち」(1節)と呼びかけています。この冠は国王が冠る権威の象徴としての冠(ディアデーマ)ではなく、競技や競争で勝った勝利者に与えられる冠(ステファノス)です。パウロはフィリピの信徒たちを福音の戦いに勝利した者と見ていたのです。そして当時は主の福音に敵対する者が多くいましたので、彼らに対して「主によってしっかりと立ちなさい」と勧めています。ここには信仰に堅く立つ秘訣が示されています。それが「主によって」(主にあって)という言葉です。これはキリストを媒介としてという意味です。私たちは自分の力だけでしっかり信仰に立つことは難しいですが、キリストを信じ、その死と復活の命に与ることによって、力強く生きていくことができるのだということです。これは、コロナウイルス危機の中に生きる私たちの信仰への励ましでもあります。

来たるべき方

私たちはキリストの贖いを信じてクリスチャンとなりましたが、その信仰が揺らぐことはなかったでしょうか。このところには、バプテスマのヨハネが獄中から使いを送って「来たるべき方はあなたでしょうか?」と疑問を呈したことが書かれています。バプテスマのヨハネという人は、イエスの宣教の先駆者として活動した人です。彼の道備えによってイエスは公生涯をスタートされたのです。そのようなヨハネがいったいどういう気持ちで、イエスにこの質問をしたのでしょう。いったいこの質問の意図は何なのでしょうか。ヨハネともあろう人が今更イエスを疑いだしたのでしょうか。

新しい生活

イースターが過ぎましたこの時期も、わたしたちはコロナウイルスの感染予防のために、家庭礼拝を余儀なくされています。どうか皆さまの上に主の豊かなお守りと祝福がありますようにお祈りいたします。 ローマ書からの「恵みのみ言葉」も、12章に入って参りました。この12章から15章までは、キリストの福音を信じて受け入れた者が、キリスト者として日々どのように生きて行ったらよいか、いわば実践的な生活のことが記されています。そしてここに至る前の部分(12章より以前)は、教え、すなわち教理の部分です。わたしたちは聖書に聞き、そしてこれを信じて受け入れ、日々の生活で、これを生かしながら生きて行く、これが信仰生活です。ですから「教理」と「実践」は切っても切れない関係にあるのです。

恵みの食卓

イースターおめでとうございます。 イースター(復活祭)は、神が私たちの救いのためにこの世に送ってくださった主イエス・キリストを死からよみがえらせたことを喜び、感謝し、祝う日です。神が成されたこの御業によって、主イエスを信じる者の救いが完成しました。 今、私たちは新型コロナウイルス感染拡大防止のため、教会でご一緒にイースター礼拝をお捧げできない状況にありますが、たとえ私たちがどこにいても、どのような状況にあっても主の恵みと祝福の約束は変わりません。皆さまお一人おひとりが今おられるところで、主を見上げ、イースターの喜びを感謝することができますようにと心から願っております。