聴いて宣べ伝える人

ローマ書9章~11章は、“全人類の救い”(または“万人の救い”)と言われる個所です。しかしその背景には、いわゆる“イスラエル問題”がその中に大きなウエイトを占めております。先に神に選ばれ、多くの恵と約束をいただいたはずのイスラエルが、なぜ、いまもイエス・キリストの福音を拒み続けているのか、これがイスラエル問題です。そしてこのイスラエルが、イエス・キリストの福音を信じて受け入れて初めて、全人類の救いが達成するのです。また、一方わたくしたちにとってイスラエルとは誰でしょうか、そして今どんな状況に置かれている人でしょうか、このことも考えながら本日の聖書箇所へと進みます。

あなたの王が来られる

この箇所は、イエスがその生涯の最後の週にエルサレムに入城した時の出来事ですが、古くから降誕節(アドベント)の第一日に読まれてきた箇所だと言われています。すなわち、イエスがエルサレムに入城したという出来事が、後の世に、イエスが今度は王として再び来られることの預言として読み取るという象徴的な意味があるのです。私たちは、クリスマスを、神の御子がこの世にお降りくださるという喜びと感謝の心でお迎えしますが、同時に、再びこの世においでになるイエスを待ち望みつつ、まだ来ていないイエスが実は既に来られたイエスであり、ろばの子に乗ってエルサレムに向かって進まれたお方であることを信じてお迎えするのです。主が来られる(アドベント)という事柄は、二千年の昔、ベツレヘムの馬小屋でお生まれになったイエスのご降誕を迎えることと、世の終わりにそのイエスが再びおいでになることを待ち望むことの両方を教えています。ですからアドベントの時期、私たちは過去を振り返りつつ、未来を待ち望む両方の姿勢で立っていることになるのです。

天を仰いで生きる

ここには、二千年前、目に見える人間の姿をとって生きておられた神の御子イエス様が、地上での働きをすべて終えられて、ペトロたち弟子の目の前で天の父のもとに帰って行かれた時の様子が書かれています。ある意味で、これは新約聖書の中で最も大切な記事かもしれません。(9節)「 こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。」雲は神のご臨在を表わす時に用いられます。イエス様は神に迎えられ、神の栄光の中で地上から去って行かれたのです。

主と共なる人生

私たちは死をどのように捉えているでしょうか。ここではパウロが死んでいった人たちのことについて語っています。(13節)「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。」当時のテサロニケの信徒たちは、イエスの再臨は極めて近いと信じていて、その日を迎えることに大きな希望を抱いていました。ところが、イエスが来るのを待たずに死んでいく人が出始めたものですから、彼らはイエスの祝福と救いの完成に与かることができないのではないだろうかといった心配や、彼らのことを憐れんだり、悲しんだりする人が現われたのです。

主の名を呼び求める者の救い

この聖書箇所がわたしたちに伝える福音のメッセージは、大きくは、9章から11章の“全人類の救い”についてであり、さらに詳しくは、直前4節「キリストは律法の終わりになられた」、すなわち、「律法に終止符を打たれた」(原語のギリシア語の解釈)を受けて、律法による義と、信仰による義を別の角度から比較しつつ、さらにわたしたちが、イエス・キリストを救い主として信じる、“信仰による義”(ローマ書の中心的テーマ)へと至る道筋を示しております。そしてそこにはユダヤ人、ギリシア人の区別はなく、主を信じ、主の名を呼び求める者すべてが救われる、と告げております。

内なる光

マタイによる福音書の6章には一貫した論理があります。それは隠れた所で見ておられる神さまの存在です。施しをする時、祈る時、断食する時、いずれの場合もそれを人の前でひけらかすようなことはせず、隠れたところで見ておられる神の前で行いなさいということです。しかし、この22-23節は何かちょっと分かりづらいところです。目と身体の関係を言っているのでしょうか。物の見方が正しくないと身体の器官がうまく機能しなくなるとでも言っているのでしょうか。

主に望みをおく人

私たち人間にとって望みを持つことは、生きていくための大きな力になります。旧約聖書の時代、バビロンに捕囚となったイスラエルの民は、紀元前587年から半世紀にわたって、苦難の生活を強いられていました。そこでは人々はもはや自分たちは神から見捨てられたと絶望し、希望がありませんでした。しかし神はイザヤにイスラエルの民を解放させようとしていることを伝えました。 そして神の言葉のゆるがない約束を語るのです。(6~8節)どんなに美しい花であっても、間もなく朽ち果てる。人間もそれと同様である。希望を抱いたとしてもその根拠はない上に、一時的なものに過ぎない。本当の希望というのは、我々を裏切らないものでなければならない。神の言葉こそが永続する希望であると。イザヤは、バビロン捕囚からの解放を確信します。

聖なる生活

このテサロニケの信徒への手紙一は、パウロが一番最初に書いた手紙で、紀元50年頃にコリントで書かれたと言われています。パウロがテサロニケに伝道したのは、第二回伝道旅行の時でした。テサロニケの信徒への手紙には、テサロニケの信徒たちの信仰を喜びつつ、その置かれている状況を気遣うパウロの慰めと励ましの心が感じられます。

神の義を求める信仰

ローマ書の中心的なメッセージは、“信仰義認”の言葉に要約することができます。そしてその根拠は、神の義に基づく福音の到来です。1章16節、17節に、福音は、信じる者すべてに救いをもたらす神の力であり、福音には神の義が啓示されております。それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです、とあります通りです。

秘められたこと

イエス様は、マタイによる福音書の5章から7章に書かれている「山上の説教」で、神を信じる者への祝福とその生き方を教えています。それはまず、神から私たちへの祝福を告げる言葉から始まり(5:3〜12)、その祝福が信じて受け入れた者にとって現実になるということ(5:13〜16)、さらには、与えられた福音の命が成長して、いつもどんな時も神の愛の中にあることが自覚できるようになるのだということです(5:17〜48)。