ペトロの手紙一 3章1〜7節
私たちが真の神に立ち返り、主を信じてその御言葉に従って生きていく時、主はしっかり私たちを支え、力強い御手でその歩みを導いてくださいます。主を信じる者の生活には神の愛が宿っていますから、その生活には力があります。ですから信仰を持つということは力ある生活をすることでもあります。
しかしながら、私たちの毎日の生活は、本当に予期しないことばかりが起きてきます。今年の新型コロナウイルス感染拡大の中での生活もまた予期しない出来事ですし、私たちはいろいろな場面に出くわし、その都度対応が迫られます。問題によっては判断に迷うこともありますが、わかっていても何もできないこともあります。信仰を持っていると言いながら、自分にその信仰の力のなさを痛感することもあります。特に主の福音を伝えるということでそう思います。親として自分の子どもたちに、あるいは自分の兄妹や家族や友人の誰彼に信仰を伝えたいと思っていても、よく知り合っているだけにその難しさがありますし、心を込めて一所懸命働きかけようとするのですが、相手に届く言葉の足りなさ、力のなさを味わうのは、ほとんどのキリスト者が体験していることかもしれません。
では、神の真理に生きる私たちが、神のすばらしさを伝えるために、もっと人を主に導く力を持って生きるようになるためにはどうしたら良いのでしょうか。信仰を伝えるということは、その人の心を替えることですが、人間の心というのはとても複雑ですから、ちょっとやそっとで動かせるものではありません。人の心を動かすのは、人間の力では不可能です。それでは諦めるのでしょうか。そうではありません。神の力を信じるのです。「人にはできないが神にはできる。」のです。考えてみますと、私たちはいつも神のなさる奇跡を見ながら生かされている者ではないでしょうか。
今朝の御言葉はキリスト教会での結婚式でよく読まれる御言葉です。初めに妻についての教えが語られています。現代もそうですが、この当時から信仰を持って教会に来る人は女性の方が多かったようです。この個所では、妻に対しての教えがこんなに多いのに対して、夫に対して語っているのはほんのわずかです。それは妻が抱える問題の方が、夫の問題よりはるかに困難だったからです。夫が先にキリスト教徒になったならば、妻を教会に連れて来ますから、何も問題は起こらなかったかもしれませんが、もし妻が先にキリストを信じるようになったとしたら、夫への不従順であると非難された時代でした。
まず当時の女性たちが置かれていた状況を考えてみたいと思います。以前もお話ししましたように、この時代に生きる女性たちは何の権利もありませんでした。ユダヤ社会では女性は物でした。子どもの頃は親に属し、結婚してからは、羊や山羊を所有するのと同じように女性は夫に所有されていたのです。夫はいつでも妻を離婚することができましたが、女性はいかなる理由があろうと夫の所を去ることはできませんでした。女性は夫に従順であること、知ること聞くこと尋ねること等をできるだけ少なくしているのが良い女性の印だったのです。妻は自分の心すら持てなかったわけです。もし夫が先祖の神々への信仰を持っているのに、妻がキリスト教徒になったとしたら、それは不従順ということですから、その立場はどんなに難しいものだったでしょうか。勇気をもってキリストへの信仰を持った女性にとって、その人生がどんなに厳しいものであったかは、今の私たちにとっては想像することすら困難なことです。
そんな状態の中にいる女性たちに対して、ペトロはその前の箇所(2:18)で召し使いたちに、どんなに無慈悲な主人であっても心から畏れ敬って主人に従いなさいと勧めたように、妻に対しても夫の元から立ち去るようにとは言っていません。パウロが語ったように(ガラテヤ3:28〜29)、キリストの前では、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もなく、すべての人は平等であると主張することもしていません。ペトロは、そういう女性に対して、ただ良き妻であるようにという以外には何も勧めていないのです。
「(1節)同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい。夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです。」ここに書かれている「夫が御言葉を信じない人」とは、どういう人でしょうか。まず考えられるのは、まだ信仰を持っていない人ではないかということです。あるいは始めのうちは夫婦で説教を聞きに来たのかもしれませんが、妻の方が先に信仰を持つようになって、夫の方がまだ信じていないのかもしれません。または、夫婦一緒に信仰を持ったけれども、夫の方は社会の中で生きていくにあたって信仰を貫くのが困難になり、途中で御言葉に聞き従わなくなってしまったのかもしれません。
どちらにしても、そのような御言葉を信じない夫であっても、信仰に導かれるようになる道があるのだというのです。それは「妻の無言の行い」であると書かれています。無言というのは言葉がないということですから、ただ黙っていることです。「無言の行い」の「行う」という語のもともとの意味は「歩く」ということですので、妻はただ黙って歩き続ける、日々の生活を黙って生き続けるというのです。その無言の行いが、夫の心に語りかけ、信仰に導かれるようになるのだと語られています。何とも不思議なことですが、語る言葉ではなく行いが語る意味を持つのだというのです。今、私はこのように講壇から言葉を使って説教していますが、教会というところは何よりも言葉が多く語られる所であり、言葉が重んじられる所です。それがキリスト教会の特徴でもあります。語る者がいて聞く者がいる、言葉が大事にされる所です。しかしここでは無言の行いが大事だというのです。
「無言の行い」というのは、言葉は無用だから言葉を使わずにただ身振り手振りで生きると言うのではありません。また、これは妻に対しての教えの中で語られていますので、夫である者はどれだけ話してよいけれども、妻は黙っていなさいという男女差別でもありません。これは、神の言葉がその人の身について、その存在や生き方を通して語っているのだということです。毎日の生活の中に神への信仰が宿っていて、その歩みに神の御言葉が入り込んでいるということです。
「(2節)神を畏れるあなたがたの純真な生活を見るからです。」とあります。以前に学んだ2章12節では「また、異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります。」とありました。この「あなたがたの立派な行いをよく見て」と「神を畏れるあなたがたの純真な生活を見る」では、ほぼ同じことを語っています。神を畏れる生活こそが立派な生活だとペトロは教えているのです。
「あなた方の純真な生活を見るからです。」ここには「見る」という言葉がありますが、私たちが見ることの出来るものは人の外見、外側だけです。「(3節」あなたがたの装いは、編んだ髪や金の飾り、あるいは派手な衣服といった外面的なものであってはなりません。」とあります。先ほど、当時の女性は、どんな公的生活にも参与する権利を持っていなかったことを述べました。女性たちは一人の人間としての価値を認められず、自分の心を楽しませるものが何もない中で、着る物や装飾品に興味を持つことはゆるされていたようです。つまり自分の身を飾るものに心を注いでいたというのは、それ以外に女性の心を占める物がなかったということでもあるのです。
ペトロはそのような現実を知っていました。それで「(4節)むしろそれは、柔和でしとやかな気立てという朽ちないもので飾られた、内面的な人柄であるべきです。このような装いこそ、神の御前でまことに価値があるのです。」と語っているのです。人の美しさはそのような外面的なものではなく、心を飾る美しさこそが神の前で価値があるのだと教えているのです。ここには「柔和でしとやかな気立て」とあります。ここは妻について語っているところですので、自然とこのような表現になっていますが、「柔和」も「しとやか」という言葉も、これは実は誰よりも主イエスにふさわしい言葉です。それは力に対して力を用いないということ、優しさで報いるということです。私たちはそれをイエスの柔和で優しい態度の中に見ることができます。イエスご自身もそのように語っておられます。「私は柔和で謙遜な者だから、私の軛を負い、私に学びなさい。(マタイ11:29)」イエスこそが真に朽ちないもので飾られた美しい心をお持ちの方でした。イエスを信じる者はイエスを見倣ってこのような装いをすべきなのです。
「(5〜6節)その昔、神に望みを託した聖なる婦人たちも、このように装って自分の夫に従いました。
たとえばサラは、アブラハムを主人と呼んで、彼に服従しました。あなたがたも、善を行い、また何事も恐れないなら、サラの娘となるのです。」これは創世記18章に書かれていることを思い出されると良いと思いますが、歳をとったアブラハムとサラに神の使いが現れて、子どもが与えられると約束した場面です。その時サラは笑ったのです。しかし、サラは神の言葉を聞いて神を畏れました。本当に神を畏れたがゆえに、従順な妻がそうするように、アブラハムを「主」と呼び、自分の夫として重んじ、アブラハムの信仰の歩みに従ったのではないでしょうか。
「(7節)同じように、夫たちよ、妻を自分よりも弱いものだとわきまえて生活を共にし、命の恵みを共に受け継ぐ者として尊敬しなさい。そうすれば、あなたがたの祈りが妨げられることはありません。」肉体的には、普通夫の方が妻より力があると思います。夫は妻の弱さを認めて、助けてあげなくてはいけない立場にあるのです。もちろんその逆もありますが、ここで語られているのは人間として大変あたりまえのことを語っているのです。弱いからといって非難されるものではなく、強い者の方が偉いわけでもありません。妻が弱い器であることを認めるということは、自分がその弱いところを支えてあげるということで、人間として自然なことです。そしてそれは共に命の恵みを受け継ぐ者だと知っているからです。一緒に命の恵みを受け継ぐことを知っているから、弱さを認めて受け入れることができるのです。そこにはお互いに対する尊敬の念が生じているからです。
「そうすれば、あなたがたの祈りが妨げられることはありません。」夫に対する言葉の最後の部分ですが、祈りについて書いてあります。もしかするとこの部分は聞き逃してしまうことが多いのではないでしょうか。夫が妻を大事にしなければいけない、それが何のためかを説明しているところです。これは夫だけでなく、夫と妻、つまり私たち一人ひとりが生きていく時に心に刻んでおかなければならない大事なことです。祈りというのは、その人と神との個人的な関係であり、信仰生活ではそれが最も大切なことだからです。
そのことを踏まえて、「お互いに相手が自由に祈れるように、相手の祈りを妨げてはいけない、お互いが各々その祈りの生活を立て上げていけるように、互いに尊敬し合いなさい。」ということを語っているのです。自分と一緒に生きている妻を軽んじているなら、どうして神に祈ることができるでしょうか。神を畏れ、神に信頼して祈ることを知っているなら、命の恵みを共に受け継ぐ者としての妻の存在を重んじ、尊敬することができるはずなのです。相手の中に働く神の恵みを知る時、そこには尊敬と信頼が生まれます。そしてお互いにその存在を尊重しあって、一緒に祈ることができるのです。新しい週も、どうか日々神に祈りつつ、家族や隣人や一人ひとりを大切にして生きることができますように、そして主の御心に添う人間として成長させていただけますようにと願っております。
(牧師 常廣澄子)