ペトロの手紙二 1章1〜15節
本日からペトロの手紙二を読んでいきたいと思います。ペトロの手紙一と二は、同じようにペトロの手紙という名前がついていますが、文体や使われている用語が大変異なっていますので、はたして同じペトロが書いたのだろうかと疑問となっています。ペトロの手紙一は、古典的な大変美しいギリシア語で書かれていて、これはギリシア語に堪能であったシルワノが代筆したことが、ペトロの手紙一5章12節にはっきり書かれています。しかしこのペトロの手紙二の文体は大変難しい上に技巧的なところがあるので、シルワノではなく、筆記者としてペトロが誰か他の人を用いたのかもしれません。誰が書いたかはともかくとして、殉教の死を間近にしたペトロが、ローマの獄中で記したものと考えることもできると思います。ペトロは紀元66年のネロ帝の迫害の時に殉教したと伝えられているのです。
1節には「イエス・キリストの僕であり、使徒であるシメオン・ペトロから」というように、自己紹介があります。「イエス・キリストの僕」というのは、キリストが代価を払って買いとってくださったキリストの奴隷ということです。ですからキリストへの愛と信頼に応えてどんなことでも喜んでしようと決心している人のことです。イエスを思うペトロの心が良く伝わってきます。「使徒」というのは福音宣教のためにキリストに遣わされた者で、そのような光栄に与った者のことを指しています。
ここでわざわざ「シメオン・ペトロ」と言っているのはどうしてか少し考えてみたいと思います。新約聖書ではペトロは普通にはただペトロと呼ばれています。またかなりしばしばシモンとも呼ばれています。それはイエスが岩という意味のケファ(ケファはアラム語、ギリシア語ではペトロ)という名前を付ける以前の本名でした(ヨハネ1:42)。ペトロがシメオンと呼ばれているのは、使徒言行録15章のエルサレム会議でのことです。エルサレム会議というのは、教会の門が広く開かれて、福音がすべての異邦人に伝えられるべきだと決定した会議です。この個所でペトロはシメオンと呼ばれていて大変重要な役割を果たしたのです(使徒15:14)。このことを考えると、いまこのペトロの手紙二の冒頭でシメオンという名前を用いているのは、彼が異邦人も含めてすべての人に福音を伝えていきたいという願望をもう一度強く抱いていたからかもしれません。
実際、1節後半にはこの手紙の宛先として「わたしたちの神と救い主イエス・キリストの義によって、わたしたちと同じ尊い信仰を受けた人たちへ。」と書かれており、ペトロの手紙一のように特定の地域や人に向けて書かれたのではなく、キリストを信じるすべての者に宛てて書かれています。そして2節では「神とわたしたちの主イエスを知ることによって、恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように。」と祝福の祈りを伴う挨拶が述べられています。
ペトロは主イエスを個人的に親しく知っており、イエスから計り知れない恵みと祝福を受けてきたのです。自分が受けたこの「恵みと平和」をまず皆さんと分かち合いたいという熱い思いでこの手紙は書き出されています。「恵み」というのは、何よりも神の救いに与ることであり、それは「神との平和」を得ることです。そこからあらゆる祝福がもたらされるからです。そしてそれは「神とわたしたちの主イエスを知ることによって」もたらされるというのです。つまり「恵みと平和」は、イエス・キリストを知れば知るほど信じる者に増し加えられ、雪だるまのようにさらに豊かに増えていくのだというのです。
ここに出てくる「知る」という言葉は、パウロが「私は主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値の故に、いっさいのものを損と思っている。」(フィリピの信徒への手紙3章8節:口語訳聖書)と語った、あの知識のことです。信仰を通していよいよ豊かにされていく神についての生きた知識のことです。箴言1章7節には「主を畏れることは知恵の初め」とも書かれています。
私たち人間がさまざまな学問を追求していくならば、新しい知識や新しい技術、新しい能力が身に着くかもしれません。しかし人間が本当に必要とし、人間が心から求めている「恵み」や「平和」をもたらす最高の学問は、神を畏れることのないこの世の空しい知識や学問ではなく、神から来る知識、イエス・キリストを知る知識からもたらされるものです。そう考えると、この手紙の最初の挨拶の中に、もうすでにこの手紙の主題が掲示されていると言っても良いのかもしれません。
「(3節)主イエスは、御自分の持つ神の力によって、命と信心とにかかわるすべてのものを、わたしたちに与えてくださいました。」すべての恵みは主イエスにある神の力によってもたらされたものです。「命と信心とにかかわるすべてのもの」は、ただこのキリストとの親しい霊的な交わりを通して私たちに与えられるのです。御生涯を共に歩み、キリストの栄光と力を目のあたりにしてきたペトロは、私たちにもこの主イエスからの恵みを受けて、それに応えて生きていくようにと強く勧めているのです。
「(4節)この栄光と力ある業とによって、わたしたちは尊くすばらしい約束を与えられています。」キリストは私たちに数々の尊く素晴らしい約束を与えてくださいました。「(4節後半)それは、あなたがたがこれら(神の栄光と力)によって、情欲に染まったこの世の退廃を免れ、神の本性にあずからせていただくようになるためです。」この世とその中にある物を愛し、それらに対する欲望に従って生きるならば、人は滅びに至ります。そうではなく、神の恵みを受けた者は、神と応答して生きていくのです。そして信じる者は神との交わりを通して神の本性に与らせていただくことができるのです。神の本性は神がもたらしてくださるものですが、神の恵みのもとで、私たちが切に求めていくものでもあります。私たちは神を信じていても、日々欲に引かれ罪に汚れる者です。十字架の血潮によって贖われた者であっても、キリストの御霊によって絶えず新たに造りかえられ、清められていく必要があるのです。
ここでは怠惰で実を結ばない者とはならず、力を尽くしてこれらのものを求めなさいと語られています。「(5〜7節)だから、あなたがたは、力を尽くして信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には信心を、信心には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。」ここには、神の本性として、信仰、徳、知識、自制、忍耐、信心、兄弟愛、愛などが挙げられていますが、これらは信仰を通して与えられる御霊の実ともいうことができると思います。(ガラテヤの信徒への手紙5章22〜23節参照)神の救いを信じた者にはキリストの御霊が注がれているので、これらのものが与えられていくのです。また私たちはこれらのものを切に求めていく中で、さらに親しく神との交わりの中に入れられ、キリストをいっそう深く知るようになっていくのだと思います。
「(9節)これらを備えていない者は、視力を失っています。近くのものしか見えず、以前の罪が清められたことを忘れています。」これは、これらの神の本性に与っていない人は、霊の目が閉ざされていますから、見ているようでも実は何も見えていないのだということです。人の前とか、その場だけとか、とにかく目先のことだけに心が奪われていて、誠実にまた真実にものを見たり判断することができないのです。こういう人は近くのものしか見ていないので、遠くのものや将来のことは全く見えず、自分に対しても神に対しても霊的な盲人になっているのです。
さらにこういう人は「以前の罪が清められたことを忘れています。」自分の罪が赦されているという恵みさえも忘れている有様です。私たちはキリストの贖いによって罪が赦され、御霊の賜物を受け、将来におけるキリストの栄光の約束を見通せる目をいただいています。しかしこのことを忘れている者は、視力を失っているのと同じだと言われているのです。
「(10節)だから兄弟たち、召されていること、選ばれていることを確かなものとするように、いっそう努めなさい。」これらのことを忘れて怠惰になるのではなく、いっそう熱心に努めなさいとペトロは勧めています。そうするなら、決して罪に陥らないばかりか、わたしたちの主イエス・キリストの救いによって永遠の御国に入ることが確かになるのだと、力強く語っているのです。
ペトロは、神を信じ救われた者が、この世の欲にひかれて救いから迷い出ることがないように、
神の本性に与ること、キリストを知って罪に陥らないように努めること、そして救いの確かさを与えられることなど、これまでに語ってきた事柄を忘れないように、いつも思い出させたいと願って熱心に語っています。「(12節)従って、わたしはいつも、これらのことをあなたがたに思い出させたいのです。あなたがたは既に知っているし、授かった真理に基づいて生活しているのですが。」
この手紙を読む人たちが、もうすでにキリストにある真理を知っていて、それに基づいて生活していることを十分知っていながら、なおもペトロはこのように心を尽くして勧めているのです。
それはペトロが自分のこの世での生活が終わりに近いことを意識し始めたからではないでしょうか。「(13節)わたしは、自分がこの体を仮の宿としている間、あなたがたにこれらのことを思い出させて、奮起させるべきだと考えています。」ここにある「仮の宿」とは、魂の住まいとしての肉体のことを指しています。「(14節)わたしたちの主イエス・キリストが示してくださったように、自分がこの仮の宿を間もなく離れなければならないことを、わたしはよく承知しているからです。」ペトロは自分が仮の宿を離れる時が来たことをひしひしと感じているのです。
また「(15節)自分が世を去った後もあなたがたにこれらのことを絶えず思い出してもらうように、わたしは努めます。」自分がこの世を去った後のことにまでペトロは思いをはせています。主イエスから愛され、福音のために心血を注ぎ、信じる人だけでなくすべての人を愛しているペトロは、「あなたがたにこれらのことを思い出させて、奮起させたいのだ」と訴えているのです。ここには、自分の身に迫っている死と、世界を覆っている罪の姿を見ながら、ただ神の救いの確かさと神を愛する者たちに与えられている素晴らしい約束を感謝して、熱く語るペトロの姿があります。
今私たちの世界を覆っているのもまさしく混沌とした時代状況です。このような時に真に信頼できるのは神の言葉と生ける神の御霊です。この世界を包み、信じる者と永遠に共にいてくださる神を仰ぎつつ、新しい週も神の恵みと平和の中を歩んでまいりたいと願っております。
(牧師 常廣澄子)