アモス書 8章1〜14節
今、私たちの生きている社会は、新型コロナウイルスまたその変異株ウイルスによって大きな混乱の中にあります。感染防止のために極力人と人との接触を避けなければならないということで、今まで普通に行われていた経済活動も文化活動も自粛を求められて、人間社会の営みが大きく変化しています。誰もが一日も早くこの状況が収束し、もとの落ち着いた本来の自由な生活が戻って来ること心から願っています。
このように、私たち人間は困難に陥ったり厳しい状況に置かれた場合には、何かにすがり、神に助けを求めて一日も早い解決を願って祈ります。人間は危機の時にはひたすら神に向かい、神に祈るのです。しかし、祈りが聞かれ、平穏な日常が戻ってくると、人間はすぐに神を忘れ、遠くに追いやってしまいます。それは聖書の中に記されているイスラエルの民の歴史を見ても明らかです。危機から救い出されると、いつのまにか神に祈ることも感謝することも忘れて、神ならぬものを神として崇める罪に陥ってしまうのです。そのような状況に陥った時に、人々に警告を発し、神のみ言葉を語ったのが預言者と言われる人々でした。
今朝は、アモスという紀元前8世紀中頃に活動した預言者の言葉から聞いていきたいと思います。預言者の中でも聖書にその言葉が残っている人を記述預言者と呼んでいますが、アモスは記述預言者の最初の人です。ただアモスが預言者として活躍したのはごくわずかの期間であったようです。
まず1章1節に「テコアの牧者の一人であったアモスの言葉。」とありますから、アモスはエルサレム南方にあるテコアの出身であり、牧畜を営んでいた人、つまり羊飼いであったことがわかります。また、アモスは自分のことを「(7章14節)わたしは預言者ではない。預言者の弟子でもない。わたしは家畜を飼い、いちじく桑を栽培する者だ。」と言っていますから、職業化した預言者ではありませんでした。そのアモスに「(7章15節)主は家畜の群れを追っているところから、わたしを取り、『行ってわが民イスラエルに預言せよ』と言われた。」のです。
当時ユダヤの国は、北王国イスラエルと南王国ユダに分かれていました。北王国イスラエルの王はヤロブアム二世で、この王国を最も繫栄させた王でありダビデに匹敵するとまで言われた人でした。しかし、これはすべてが彼の業績によるのではなく、絶えず北から攻めてきていたシリアやアッシリアなどの国々が互いに牽制しあってその頃衰退していたので、その間隙をぬって領土を広げ、繁栄することができたのです。そのように豊かさを謳歌していたイスラエルにアモスという預言者が登場し、このままではこの国は滅びる、という預言をしたのです。
しかし、アモスのこの預言にはベテルの祭司アマツヤが激しく反発しました。彼は王ヤロブアムにアモスは国を亡ぼす者だと訴えて、その活動を禁じました。「(7章12〜13節)アマツヤはアモスに言った。『先見者よ、行け。ユダの国へ逃れ、そこで糧を得よ。そこで預言するがよい。だが、ベテルでは二度と預言するな。ここは王の聖所、王国の神殿だから。』」アモスに向かって(お前の出身地である)ユダの国に帰れ、故郷のテコアに引っ込んでいろ、という脅しです。しかしアモスは引き下がりません。何度も何度も「主はわたしにこのように語られた。」「主はこのように言われる。」という言葉を繰り返し語り、人々に神の言葉を告げていったのです。
それではアモスはここで何を語っているのでしょうか。まず神はアモスにある幻を見せました。「(1節)主なる神はこのようにわたしに示された。見よ、一籠の夏の果物(カイツ)があった。」人々は収穫された夏の果物を籠に盛り、神に捧げてその年の収穫の感謝をし、また新しい年にも豊かな実りをと祈ったのです。その当時は、国は豊かで領土は広大でしたからこの感謝の祈りや願いは当然のことでした。しかしその幻を見たアモスに対して神は言われました。「(2〜3節)『アモスよ、何が見えるか。』わたしは答えた。『一籠の夏の果物です。』主はわたしに言われた。『わが民イスラエルに最後(ケーツ)が来た。もはや、見過ごしにすることはできない。その日には、必ず 宮殿の歌い女は泣きわめくと 主なる神は言われる。しかばねはおびただしく 至るところに投げ捨てられる。声を出すな。』」
夏に実った豊かな収穫物である一籠の果物を前にして、予想に反する神のお言葉でした。このところは一種の語呂合わせの様に書かれています。果物(カイツ)と最後(ケーツ)の二つの言葉の音が大変良く似ているのです。イスラエルの民が果物籠を前にして、その恵みを感謝している時に、神はそれは祝福のしるしではなく、最後(終わり、滅び)のしるしなのだと言われたのです。「宮殿の歌い女は泣きわめく」本来、国が安泰で豊かならば、宮殿では王の臣下たちも宮殿で働く人たちも楽しく踊り歌うのでしょうが、それが嘆きの歌になるのだといいます。そして「しかばねはおびただしく 至るところに投げ捨てられる。」つまり死体が多すぎて葬る所がなく、また葬る人手もないためにそのまま放置されているというのです。家の中にまだ生きている者がいると神に知られたなら、その者も打たれて死ぬことになってしまうので、「声を出すな」と言っているのです。ではどうしてそのようなことが起こるのでしょうか。
それが4節以下に書かれています。「(4-6節)このことを聞け。貧しい者を踏みつけ 苦しむ農民を押さえつける者たちよ。お前たちは言う。『新月祭はいつ終わるのか、穀物を売りたいものだ。安息日はいつ終わるのか、麦を売り尽くしたいものだ。エファ升は小さくし、分銅は重くし、偽りの天秤を使ってごまかそう。弱い者を金で、貧しい者を靴一足の値で買い取ろう。また、くず麦を売ろう。』」ここに出てくる新月祭も安息日も、神を賛美し神に感謝する礼拝の時です。人々は形の上ではその礼拝を捧げるけれども、心の中では祭や礼拝が終わってからの商売のことを考えている、礼拝しながらその心の中ではどうやったら儲けられるかと計算しているというのです。
彼らの関心は金儲けでした。彼らはエファ升(穀物を計る容器:1エファは22リットル)を小さくし、重さを測る分銅を重くして、つまり度量衡をごまかして利益を増やすようにしていたのです。富める者たちは貧しい者を踏みつけにし、借金を返せない者を靴一足の値段で奴隷にしてしまうという人身売買まで行われていました。また貧しい者が麦を求める時には、本当は捨ててしまうようなくず麦まで売ってお金に換える貪欲さだったのです。
しかし、考えてみましょう。律法では、隣人を愛することが教えられています(レビ記19章18節)。また隣人からむさぼり取ることが諫められています。そういうことはまったく人間として当然のことであります。わざわざ自分の故郷から隣の国まで出てきて、イスラエルの都の人々に言うべきことでしょうか。アモスの語る預言の言葉が、まったく常識の範囲のことであり、人間として生きる上でのまったく単純な道理であったということは、私たち人間の社会がいかに正しくないか、いかに不正に満ちているか、またいかに無慈悲で自分中心であるかを明瞭に語っているのです。経済大国と言われているわが国を顧みても、同じようなことが起きているのではないでしょうか。表面的な繁栄の裏で、明らかな不正義がまかり通り、その内実は大変お粗末なものです。自己や自社の利益追求に明け暮れ、成功は他人の犠牲の上に成り立っているのではないでしょうか。そういう他人を踏み台にして発展した社会、そういう人間の本性をアモスはよく見抜いていると思います。
「(7節)主はヤコブの誇りにかけて誓われる。『わたしは、彼らが行ったすべてのことを いつまでも忘れない。』」。神の目はいつでも貧しい者、弱くされている者に注がれています。神は「ヤコブの誇りにかけて」と前置きして、ご自分の計画が確かであることを強調しています。神は全能のお方です。神の目は節穴ではありません。彼らの悪い行為や曲がった心をすべてご存じであり。それを忘れないと言われるのです。そして「(8節)このために、大地が揺れ動かないだろうか。そこに住む者は皆、嘆き悲しまないだろうか。」ここには大地震の恐怖とそれに伴う被害、そして人々が泣き悲しむ様子が予告されています。「(9節)その日が来ると、と主なる神は言われる。わたしは真昼に太陽を沈ませ 白昼に大地を闇とする。」神の刑罰の日はイスラエルにとって没落の日であり、暗黒の日となるのです。
「(10節)わたしはお前たちの祭りを悲しみに 喜びの歌をことごとく嘆きの歌に変え どの腰にも粗布をまとわせ どの頭の髪の毛もそり落とさせ 独り子を亡くしたような悲しみを与え その最後を苦悩に満ちた日とする。」ここにも神の刑罰による恐ろしい苦悩の日の訪れが預言されています。祭りを祝う喜びの最中に、独り子が亡くなるような突然の大きな不幸が襲うというのです。これは癒しようのない悲しみです。独り子が死ねばその家は滅びます。そしてその民族は死滅します。それに似たようなことを神がなさるという預言です。
その上に「(11節)見よ、その日が来ればと 主なる神は言われる。私は大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく 水に渇くことでもなく 主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ。」その日には、人々に霊的な滅びを持たらす「主の言葉」の飢饉が来るという預言です。その時になって初めて、イスラエルの人々は自分たちが拒んできた主の言葉がどれほど尊いものであったかに気付くというのです。そしてその日、人々は「主の言葉」を求めて国中をさ迷い歩くと言います。「(12節)人々は海から海へと巡り 北から東へとよろめき歩いて 主の言葉を探し求めるが 見いだすことはできない。」もはやどこにも主のみ言葉を見つけることができないのです。彼らがそれを無視していたのですから、彼らから取り去られてしまったのです。主の言葉を聞くことも読むこともできない飢えと渇きとは、どんなに恐ろしいことでしょうか。今私たちに豊かに与えられている主のみ言葉を心から感謝したいと思います。ここで言えることは、その日には、主の言葉が聞かれなくなるだけでなく、私たちのいる世界からすべての尊いものが失われ、悪いもののみが充満する世界になるのだということなのです。
「(13節)その日には、美しいおとめも力強い若者も 渇きのために気を失う。」神の刑罰によって、最も体力や気力にあふれている若者たちでさえ、気を失うまでに衰えてしまうというのです。希望と約束に満ちた神の言葉が失われてしまったからです。こうして人々は絶望や暗黒の中で滅びていくという預言なのです。何という恐ろしい預言でしょうか。「(14節)サマリヤの罪にかけて誓う者ども『ダンよ、お前の神は生きている。ベエル・シェバよ お前の愛する者は生きている』と言う者どもは 倒れて再び立ち上がることはない。」ダンもベエル・シェバも、古い歴史と結びついた聖なる土地です。イスラエルの先祖はそこに礼拝の場所を築いたのです。しかし今や人々は生ける神を崇めることを忘れてそこに置かれた偶像の名を呼んでいるのです。彼らが拝んでいる神は彼らを助け起こすことはできません。この世の悪から救い出し、本当に私たちを生かすことができるのは真の神の言葉だけです。
なぜ人間は弱い人や貧しい人を踏みつけても無感覚でいられるのでしょうか。人道的な感覚が欠けているからでしょうか。人間社会に愛の感覚が鈍って正義が行われない時、そこでは最も大切なものが欠けているのです。それは主の言葉です。今の時代は多くの人々が進歩した技術や文明を誇っています。しかし豊かな文化や文明があってどんなに国が繫栄していようと、もしそこに主なる神の言葉が語られていないなら、愛や正義は枯渇していくのです。神を信じる者は、生活の中に主の言葉を満たし、主の言葉を生きなければならないのです。
パンに飢えることでもなく、水に渇くことでもなく、主なる神の言葉を聞くことのできない飢えと渇きほど人間にとって悲惨なことはありません。主の言葉の飢饉は、人間の真実の危機でもあります。主の言葉は、真に人間らしい生活をなしていくために必要な言葉なのです。主の言葉によって生かされている私たちはこの世では地の塩です。私たち人間の心の飢えと渇きを癒すために、ご自身を生きたパンとしてお与えくださったイエスを信じ、新しい週もイエスに導かれて歩んでまいりたいと願っております。
(牧師 常廣澄子)